なぜ宗教を信じる人たちは「攻撃」を始めるのか…人類が「神 ... - Yahoo!ニュース なぜ宗教を信じる人たちは「攻撃」を始めるのか…人類が「神 ... Yahoo!ニュース (出典:Yahoo!ニュース) |
■日本人の不思議な宗教観
あなたは何かの宗教を信じていますか? この質問は、日本人にとっては、結構やっかいなものだろう。仏教だと言う人は多いだろうが、では、仏教を信じているとはどういう意味か、とさらに聞かれると、あまり明確には答えられない。日本中にあまた仏教の寺はあるものの、人々の毎日の生活に深く根ざしているわけでもないらしく、葬式仏教などと半ば軽蔑して呼ばれることさえある。
日本という文化は、強烈に一つの宗教でまとまっているわけではなく、宗教的信念が政治的信念と結び付いて、社会の分断を引き起こしている、ということもないようだ。この状況は、日本以外の世界ではかなり異なる。米国は顕著にそうだが、欧州も、アラブ世界も、アフリカも、アジアも、だいたいはそうなのだ。だから、宗教とは何か、なぜこんなものが出てくるのか、についての考察が必要なのである。
■ヒトが「友人関係」を築ける上限は150人
著者のロビン・ダンバーは、もともとサルの仲間の社会行動を研究する霊長類学者であったのだが、その後、ヒトという生物(つまり私たち自身)が持っているヒトに固有の性質、すなわちヒトの本性は何であり、なぜこのように進化したのかを研究する、進化心理学者に脱皮した。「脱皮した」という言い方をしたのは、サルの仲間の研究をしている霊長類学者のすべてが、ヒトに対するこのような問題意識を持つに至るわけではないし、ましてや、その解明に大きな貢献をできるような問題設定を思いつくこともないからだ。ダンバーはそれを果たせたと思う。
ダンバーは、霊長類が、哺乳類の中でも特別に社会性を発達させた動物だという認識から出発し、では、ヒトという生物において、この社会性はどのように進化してきたのかを研究してきた。その成果の一つが、ヒトが真に親密性を感じて暮らすことができる集団のサイズには上限があり、それはおよそ150人である、という結果である。これは、世の中で「ダンバー数」という名前で知られるようになった。
■人類史における「150人」という数字の意味
ダンバーは、もともと、脳の新皮質の大きさから、その動物が処理出来る社会情報の限界を計算し、ヒトの場合は150人だという数字を導き出した。それは、仮説に基づく予測であったが、現実にさまざまな人間集団の営みを調べると、確かに150人という数字には意味があるようなのだ。人類の進化史の90%以上において、人類は狩猟採集生活をしていた。この暮らし方では、15人くらいまでの小さなバンドで日常的に生活し、バンドが寄り集まって部族を形成してきた。その最大サイズは、およそ150人なのである。
もちろん、現代の私たちは、150人を優に超える人数の人々を知り、それらの人々と交流し、自治体や国家の規模も何百万を超えるものさえある。それでも、私たちが、相手の顔を思い浮かべ、その人と自分との関係やその人と一緒にした経験を思い浮かべ、その人の性格やら友達関係やらを思い浮かべるということを、さほどの認知的負荷を感じずにできるのは、150人ぐらいが限度ではないだろうか? あとは、単に知っているだけ、名刺交換しただけか。
■ヒトが持つ脳の働きが宗教を生み出した
さて、そこで宗教である。150人というダンバー数の考察と宗教の進化心理学は、どんな関係があるのか? 人類は、およそ1万年前に農耕・牧畜を始め、定住生活を始めた。そこから都市が形成され、文明が生まれた。つまり、150人以上の数の人々が集まって暮らすようになったのだ。
脳の自然な認識の限界を超えた数である。それを可能にしたものの一つが、宗教的信条を同じくする人々の結束であったのではないか。身近にすぐ思い浮かべて、経験を共有したことがあるような人々のサークルを超えて、「同じ私たち」という感覚を想起させ、一緒に共同作業にいそしむようにさせる、それを可能にした重要な要素が宗教だったのではないか。
では、なぜ宗教というものが出てきたのか、なぜそれは広まるのか? それは、こんな大きな文明世界が出現する前から、ヒトが持っていた脳の働きに起因する。ヒトという生物は、自己と他者を認識し、自分の心が自分の状態を作り出していることを認識するとともに、他者も他者自身の心を持っており、それによって行動を決めることを知っている。そして、自分と他者とを脳の中でシミュレーションすることによって、自分に起こったことではなく、他者に起こったことを、まるで自分に起こったことであるかのように、他者に共感することができる。
■最新研究が明らかにした「トランス状態」の役割
また、ヒトは、このような想像とシミュレーションを働かせることにより、あまり原因がよくわからないことが起こった場合に、何か、自分たちとは異なる能力を持った存在がいて、それらの存在がそんなことを起こしているのではないか、と想像することができる。そして、それを他者に伝え、他者もそれに同意することができる。ヒトは、確かに、こんな高度な認知機能を有している。それが脳の中のどんな場所にあって、具体的に何をしているのか、現在では、そんなことも徐々に解明されているのだ。
宗教の根源には、「現象を因果関係によって説明する」ということと、「何か、自分たち人間とは異なる能力のある何かが存在する」という考えとが結び付いている。現象を因果関係によって説明するのは、脳の前頭葉の働きだろうが、自分たちとは異なる能力のある何かが存在する、という感覚はどこから来るのだろう?
それには、トランス状態というものが大きな役割を果たしている。踊り続ける、歌い続ける、ということをすると、脳内のエンドルフィンなどの伝達物質の分泌が変化し、「奇妙な精神状態」になるのだ。このメカニズムも、最近では、かなり明確に明らかにされている。みんなで歌って、みんなで同じ動作で踊ると、何か心に変化が起こるのは、みんなわかるでしょう? それを極限まで続けると、また次に段階になるのだ。
■なぜ人類の大部分が宗教を信仰しているのか
ところで、私自身は、このような「みんなで同じ動作をする、同じ歌を歌う」などといった、同調的な行動が大嫌いな性格である。そんなことは絶対にしたくない。だから、中学でも高校でも、体育の時間にマスゲームのようなものをやらされるのが、心底嫌いだった。そして、私自身は、未知の現象に対する宗教的な説明は受け付けないし、占いも信じない。
その意味では、有名な進化生物学者であるリチャード・ドーキンスが、「宗教というものはただの妄想であり、人類に対して、何らよいことなどもたらしていない」というキャンペーンを張っていることに対して共感を感じるし、おおいに応援したいと思うのである。
では、ダンバーはどうか? 彼自身は、自分の宗教に対する態度を明確には表明しない。ドーキンスの言うように、宗教は悪いことばかりもたらしてきたのは事実かもしれないと認めてもいる。しかし、それにもかかわらず、人類の大部分が宗教を信仰しているのは事実であり、なぜこんなにも多くの人々が宗教を信じるのか、それを冷静に進化的に分析しよう、というのが彼の態度だ。それは私にも理解できるし、重要な分析だと思うので、本書は大変に興味深く拝読した。
■カルト集団の発生とダンバー数「150人」
ヒトには、宗教を生じさせる脳内の基盤がある。しかし、それは、宗教を生み出すことが主眼で進化してきたのではない。物事の因果関係を推論すること、物事の原因として他者の心を想定すること、そのような解釈を、他者と共有すること、などが人類の進化史上、重要だったから進化した脳の基盤だ。それが集まると、宗教というものがおのずと創発してしまうのだろう。
そして、一度そういうものが出現すると、今度は、それが新たな意味を持ち始める。それは大きな集団をまとめる力にもなり、思いを同じくしない「他者」を攻撃する理由にもなる。宗教的集団は、大きくなると「組織」になり、政治・経済と結び付いて、さらに話がややこしくなる。
最後に、宗教的集団はなぜ内部に多数のカルト集団を発生させ、分裂と抗争を繰り返すことになるのか、に関する問題も考察されている。そこにも、150人というダンバー数が影を落としている。カリスマ的な教祖はなぜ発生するのか、そうしてできた新しいカルトのうち、長続きするものと消えていくものがあるのはなぜか、そのあたりの考察も秀逸である。まだまだ、研究する課題は多いと感じさせる。
■無神論者の筆者が無性に祈りたくなった理由
個人的な経験の話を一つ。2000年代の初め、私は、カンボジアを訪ねてポル・ポト政権時代に大量虐殺が行われた跡を見学したことがある。何百と積み上げられた犠牲者の頭蓋骨、捕虜たちが閉じこめられていた収容所とそのベッド、踏みしめる土の間に、今でも垣間見られる犠牲者の衣服の切れっ端。一日中、そんな光景を見たあと、私は、無性にどこかのお寺でお祈りしたくなった。
日本の仏教とは違う、カンボジアのお寺である。それでも何でもいい。ともかくも、聖なる場所で、裸足でぺたんとすわって、どうしようもない現実の中で命を奪われた多くの人々の霊のために祈りたかった。この無神論者の権化のような私が、である。それは、頭で認識できる事態の悲惨さに対し、それを認識している私が何もできないという無力さの実感がなさせたものだった。こんな理不尽なことが起こったという事実の認識に対し、私自身の心の平安を得るには、何か、超自然の力に祈るしかすべがなかったのだ。
おそらく、古代より、人々はこんな感情を抱いていたに違いないと、そのときに思った。世界の現状はあまりに理不尽で、なぜそうなったかが理解できたとしても、自分ではどうすることもできない。共感の感情を得てしまったヒトは、それでは心の平安を得られないのである。認識と納得、理解することと心の平安を保つこととの違いを実感した瞬間であった。
宗教と人間の生活のあり方は、かくも複雑なのである。本書は、その両方を進化的ないきさつから説明しようと、真に大きな考察を展開しようと試みる大作である。
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オックスフォード大学 名誉教授
人類学者、進化心理学者。霊長類行動の世界的権威。イギリス霊長類学会会長、オックスフォード大学認知・進化人類学研究所所長を歴任後、現在、英国学士院、王立人類学協会特別会員。世界最高峰の科学者だけが選ばれるフィンランド科学・文学アカデミー外国人会員でもある。1994年にオスマン・ヒル勲章を受賞、2015年には人類学における最高の栄誉で「人類学のノーベル賞」と称されるトマス・ハクスリー記念賞を受賞。人間にとって安定的な集団サイズの上限である「ダンバー数」を導き出したことで世界的に評価される。著書に『ことばの起源』『なぜ私たちは友だちをつくるのか』(以上、青土社)、『友達の数は何人?』『人類進化の謎を解き明かす』(以上、インターシフト)などがある。
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進化生物学者、総合研究大学院大学名誉教授
総合研究大学院大学学長を退任後、現在、日本芸術文化振興会理事長。日本動物行動学会会長、日本進化学会会長、日本人間行動進化学会会長を歴任。著書に『進化とは何だろうか』『私が進化生物学者になった理由』(以上、岩波書店)、『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社)、『クジャクの雄はなぜ美しい? 増補改訂版』(紀伊國屋書店)、『人間の由来(上・下)』(訳、講談社)、『進化的人間考』『ヒトの原点を考える』(以上、東京大学出版会)などがある。
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(出典 news.nicovideo.jp)
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