「高校受験、さっさとやめるべき」選択肢は“人生の敗北者”or“受験戦争”の ... - 文春オンライン 「高校受験、さっさとやめるべき」選択肢は“人生の敗北者”or“受験戦争”の ... 文春オンライン (出典:文春オンライン) |
突きつけられる選択肢は、“人生の敗北者”or“受験戦争”の2つ……。生きづらい子どもを増やしてしまう、日本の教育制度の欠陥とは?
日本を代表するラッパーの1人、Kダブシャイン氏の新刊『Kダブシャインの学問のすゝめ』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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アメリカには教室制度が無い自分は、高校2年生の時から交換留学制度を使いアメリカに渡り、現地、フロリダ州オーランド市の公立高校に編入した。
はじめに驚いたのは、アメリカの公立高校は大学と同じシステムになっていたことだ。たとえば、○年○組という決まったクラスはなく、「○年○組の担任」という先生もいない。ホームルーム担当はいるけれど、その先生はホームルームで伝達事項について話すだけだ。
そもそもアメリカの高校には、出席を取ったり全員に一斉に何か連絡を伝える毎朝の日本で言うホームルームのようなものがなかった。大学と同じように、登校して教科の教室に入ると一時間目の授業がいきなりはじまる。自分の属する教室がないということは、時間割も一人一人違うということだ。毎時間、授業を受ける生徒らがその度に入れ替わるからだ。出席確認はそれぞれの授業ごとにその教科専門の教師が担当していた。
それから、ホームルーム担当とは別に、生徒一人一人にスクールカウンセラーという職員がついていた。
カウンセリングルームに行くと、カウンセラーがいつでも進路や勉強の相談に乗ったり、時間割をつくる手伝いをしてくれる。たとえば、「きみは今、数学Ⅱのクラスにいるけれど、ちょっとレベルが合っていないみたいだから、ひとつ下の数学Ⅰのクラスを受けたほうがいいよ」といったアドバイスをくれる。年齢や学年とは関係なく、それぞれの科目で自分にあったレベルの授業を受講することを推奨してくれるのもここにいるカウンセラーだ。
日本だと、進級して学年が上がるにつれて自動的に教科のカリキュラムが進んでいくけど、ついてこれない生徒は置いてきぼりになってしまう。日本の教育はそういう意味で、「脱落させる教育」になっている。そしてその最たるものは受験だ。ふるいにかけてトップ層の人材を掬ったら、残りの人たちは「あとは自分たちでうまくやってね」というシステムだ。
高校受験、さっさとやめるべき一般的に、日本の教育過程にはもう長年「高校受験」という大イベントが待ちかまえている。義務教育は中学までだけど、今はほぼ全員が高校に進学するから、ほとんどの子供が受験を経験する。ということで必然的に、公立の学校で中学3年生になると学校授業の主な目的が高校進学のための受験対策になる。
つまり高校受験は日本に生きていれば、15歳の若者にほぼ必ず訪れるものだ。
だが15歳というのは、人間として一番大切な成長期ではないか。
15歳という年齢は身体も精神も子どもから大人になる重要なタイミングで、あらゆることが大きく変化する。誰もがそうだろうが、まず自分の身体の変化にものすごく戸惑いを感じる時期だ。背も伸びるし、体も大きくなるし、毛も生えてくるし、生理的な体験もある。誰にでも来る思春期という成長段階で、他人に対する自分の気持ちや、他人からの視線にとても敏感になり、特に異性のことが気になってくる。
こういった心身ともに不安定な時期に、「高校受験」という大きな人生の分岐点が強制的に訪れるのは、とてつもない精神的負担になる。思い起こせば、当時の自分もかなりのストレスを感じていた。
そして不運にもそのようなストレスが学校内のいじめ問題にダイレクトに繫がっている、というのが自分の見解だ。
子どもたちは、自らの身体や心が変わってきて自分ともっと向き合いたいのに、大人から「今勉強しておかないと人生の敗北者になるぞ」と一方的に脅されて、暗記ばかりの詰め込み受験勉強を強要される。
ここで抱えるストレスが、「それなら他人を蹴落としてやろう」っていう気持ちにつながったとしてもおかしくはない。普通の人なら、誰でも他人より優越感を持ちたいと思っている。もし「お前、このままじゃ落ちこぼれるよ」と言われたら、「でも誰かより上に立ちたい。じゃあ自分より弱い者を蹴落としてやろう」となるのは一種の動物的本能だろう。先行き不安になることで劣等感が生まれ、それが屈折してしまうことが多くあるのだ。
今の日本の高校受験は、むしろそれを増長させる結果にしかなってない。
中学生の頃にいじめをしていた人たちも、こういわれたらハッとするんじゃないだろうか。確かに自分にも心あたりがないわけではない。
それに、みんなが同じ状況なんだから、受験をストレスと感じちゃいけないという同調圧力のような空気もある。「これは誰もが当然乗り越えるべき試練なのだ」という暗黙の了解だ。「前の年の先輩も、その前も、みんなこの受験を経験してきたんだから、これがこの国では常識なんだ。これを乗り越えられる人だけが立派になれるんだ」というプレッシャーも、それまで経験したことのないストレスになっている。
そしてそこに輪をかけるのが、日本の教室制度だ。何年間も同じ人が毎日顔を合わせる。すなわち30人くらいいる教室で、いつも同じ顔ぶれがそこで同時に得体の知れないストレスを年単位で受け続けている。冷静に考えるとこれはちょっと異常なことではないか。
どんな所でも同じ所に同じ人がずっといたら、どうしても人間関係の上でのヒエラルキーができるのは、これもまた人間の本能だ。
たとえば会社がそうなのだが、そこにはもともと役職やある程度の年功序列があるから納得できるけど、学校の教室はみんな同い年で立場に基本、上下関係はない。
そしてその中で、色々なタイプの生徒がいる。たとえば、体がデカくて力がありあまっているけど勉強はあんまり得意じゃない子がいたとする。その彼は勉強なんかほどほどにしてもっと楽しく生きたいのに、学校に行くといつもギスギスしていて、たくさん勉強する成績のいい子だけが褒められ、自分は落ちこぼれ扱いだ。
そんな場面に毎日いたら、「気に入らないから腹いせに誰かをいじめてやろう」となるのはわからなくもない。もちろん力があるからやっていいということではない。でも、成長期の子どもなら過度なストレスのせいで自分で自分を制御できなくなってしまうのも理解できる。この場合のいじめの原因は本当はその子でなく、そういう子を創り出す環境ではないのか。
今ある日本の受験システムや教室制度による日々のストレスが、子どもの純真な心をゆっくり殺していると言っても過言ではない。だから、一刻も早く受験システムと教室制度を見直すべきなのだ。
権威主義と虚栄心受験や学校の事も含めて、子どもたちの問題についてはけっこう前から危惧している。
なぜかというと、子どもが子どもらしさを失うことの弊害が、どれだけ世の中に影響を及ぼすのかが心配だからだ。
江戸時代の日本は「鎖国」していたけど、武士が自発的に地元の子に読み書きを教える寺子屋という立派なものがあったり、今より大人が子どものことを考えていたのではないか。
しかし、それが今の大人はみんな自分のことしか考えなくなってしまった。第3章でまた詳しく書くが、日本の大人の心を蝕む「権威主義」と「虚栄心」が、今の日本人をこじらせてしまったように感じる。
いまだ「権威主義」から抜け出せない日本人「権威主義」は、日本が歴史の長い共同体である以上、存在するのは理解できるが、そこから自分を直視しようとしない「虚栄心」がはびこるのは、どうにかしないといけない。
自分の知っている限り、アメリカ人は虚栄心というものに敏感だ。虚栄心は英語で「Vanity」というのだけど、わりとネガティブなものとして日常会話にしょっちゅう出てくるワードだ。それは自分を本当の自分より大きく見せるものだから。ビジネスの場面では、時に一種のはったりのため見栄を張ることは良しとされる。
彼らは基本的に「自分らしさ」や「そのまま」ということに価値を置いているから、背に腹は代えられないとき以外は、ただただぬるま湯に浸かっていたいとか、見栄やステータスを守るために自分を大きく見せようとするのは非難されやすい。そういう人は総じて正直じゃないのが明らかだから完全に信用できないという感覚になるのだ。
ところが、意外に日本ではこういうものが平気で横行している。
「虚栄心」と「権威主義」が強迫観念になっている現代の日本人は、すっかり本当の自分を見失っている気がしてならない。
このしがらみを乗り越えるには、もっと「自由」と「公の精神」を浸透させることだ。(続きを読む)
「日本人には顔がない、フェイスレスなんだ」と言われたことも…レジェンドラッパー・Kダブシャインが語った、日本がイノベーションを起こせない理由 へ続く

(出典 news.nicovideo.jp)
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