令和の社会・ニュース通信所

社会の出来事やニュースなどをブログに書いて発信していきます。あと、海外のニュースなども書いていきます。

    カテゴリ:国内 > 歴史


    石田三成の顔立ちの復元は、歴史の想像を超える新たな視点を提供してくれます。

    1 樽悶 ★ :2026/02/17(火) 19:54:30.53 ID:1bYkuxlG9
     関ヶ原の戦い(1600年)で西軍を率いた武将、石田三成(1560~1600年)のものと伝わる頭骨のレプリカを基に、佐賀大の研究者らが顔を復元した。やや細面で、肖像画やドラマで描かれるイメージ通り、あっさりとした風貌(ふうぼう)だったことが明らかになった。

     関ヶ原で敗れた三成は斬首され、遺体は京都市の大徳寺三玄院の墓地に葬られたと伝わる。

     1907年(明治40年)、民間の調査で寺院の墓地が発掘された際、人骨と小刀がみつかった。斬首された武将は、首と胴に小刀を刺し、再びつなぎ合わせて埋葬する習わしがあったことから、人骨は三成のものと考えられている。

     その後、骨は埋め戻され、遺骨を鑑定した解剖学者の足立文太郎・京都帝国大(京都大)教授の指示で、頭骨の石こうレプリカが作成された。

     復顔は、古人骨の研究が専門の川久保善智・佐賀大助教(形質人類学)らが行った。京都大学総合博物館に保管されているレプリカを3Dスキャナーで計測して精査。肉付けは、現代日本人の骨から皮膚までの厚さなどのデータを参考にして行った。

     頭骨は顔が長く、凹凸の少ない形をしていた。このタイプは、顔立ちが薄い傾向にあり、ひげや眉毛は薄く再現した。損傷していた鼻周辺は、骨格から皮膚の形状を推定する新手法を使って造形した。(以下ソース)

    2/13(金) 15:38配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/6f5698b68a1dd937996316311b9cd992659afec8

    (出典 pbs.twimg.com)

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    竹島で江戸期に日本人が活動、詳細地図や漁の記録など71点…島根県が発表
     島根県は13日、江戸時代に描かれたとみられる竹島(島根県)の絵図「松島之図」や、鳥取県米子市の商家が竹島で漁などをしていたことを記した「村川家文書…
    (出典:読売新聞オンライン)


    島根県が発表した江戸期の竹島に関する詳細な記録は、当時の日本人の漁業や活動の実態を明らかにする貴重な資料です。このような歴史的な資料が見つかることで、竹島の歴史と日本の文化の理解が深まります。

    1 ぐれ ★ :2026/01/14(水) 08:36:09.52 ID:0mKYypO39
    ※1/14(水) 7:06配信 
    読売新聞オンライン

     島根県は13日、江戸時代に描かれたとみられる竹島(島根県)の絵図「松島之図」や、鳥取県米子市の商家が竹島で漁などをしていたことを記した「村川家文書」など資料71点を取得したと発表した。島根県は「竹島が古くから日本人の活動の場であったことを示す第一級の史料」としている。

     松島之図は17世紀末から18世紀初めのものとみられる。島の形状など地理的特徴が詳細に描かれ、現在の隠岐諸島までの距離なども記されている。島根県によると、1987年頃に米子市立山陰歴史館で展示された記録があるが、その後は所在不明だった。今回、個人から購入した。

     村川家文書は、米子市の商家「大谷家(おおやけ)」との間で漁の収益について取り決めたものなど。両家は幕府の許可を得て、竹島や竹島に近い韓国東部・鬱陵島(ウルルンド)でアシカ猟やアワビ漁をしていた。島根県が個人から69点の寄贈を受けた。このうち「竹島松島の絵図」は、鬱陵島や隠岐諸島、竹島が描かれている。絵図は写しで、「享保9年」(1724年)の記載があるが、作成時期を示すものかは不明。

    続きは↓
    https://news.yahoo.co.jp/articles/f2000b9de583ef393c7a6f9048e5f6e4bea61527

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    この記事では、大日本帝国の終戦にまつわる当時の背景や、誤った信頼がどのように国を滅ぼしたのかが詳細に検証されています。

    1 蚤の市 ★ :2025/12/07(日) 09:02:24.44 ID:eGeFSTo59
     84年前の12月8日、大日本帝国は米英などとの戦争を始めた。

     国力ではるかに勝る相手との「終戦構想」が、願望の上に空想を重ねたようなものだったことは、2024年6月2日配信の記事<「むちゃくちゃな話だった」 蜃気楼のような大日本帝国「終戦構想」>で書いた。

     今回は「構想」の実現が不可能になった後、為政者たちがどうやって戦争を終わらせようとしたのかを振り返る。「新しい戦争」の可能性が指摘される「戦後80年」の今、学ぶところが多いはずだ。

    終戦1年前には敗戦が決定的に
     1941年の開戦後、日本軍は陸海ともに勝利を重ねた。しかし、米軍は戦時体制を整えて本格的な反攻を始め、日本軍は次第に劣勢になった。

     敗戦が決定的になったのは44年7月。米軍がマリアナ諸島のサイパンを占領し、ここを基地として、新鋭の大型爆撃機B29で日本本土を爆撃することが可能になった。

     敗戦までに本土の多くの都市が焼け野原になった。死者は50万人に及ぶとされる。

    実現しなかった「一撃」
     それでも政府は戦争を続けた。局地的に連合国軍に勝利し、その戦果をもって有利な条件で講和する「一撃講和論」を軍幹部が唱え、昭和天皇も同意した。

     だが圧倒的に戦力が勝る連合国軍に「一撃」できるとは限らない。実現したとしても相手が和平交渉に応じる保証はない。

     開戦時と同じく、ここでも「起きてほしいことだけを前提にして都合の悪い可能性は無視する」という「国策決定」がなされた。

     45年4月1日、沖縄本島に米軍が上陸した。日本軍守備隊は激しく戦ったが、6月23日に組織的戦闘は終結し、米軍に占領された。「一撃」は実現しなかった。

     同盟国のイタリアはすでに降伏し、頼みのドイツも敗れていた。この時点で敗戦を受け入れていれば、原爆投下やシベリア抑留はなかった。

    仮想敵国だったソ連
     帝国の為政者たちは別の「終戦構想」を進めようとした。ソ連に仲介役になってもらい連合国との講和を進めるという内容だ。

     ソ連は45年4月、日本との間で4年前に結んだ中立条約を延長しないと通告した。条約はその後1年は有効だったが、日本が長年仮想敵国としてきたソ連が、それを守るとは限らなかった。(略)(以下有料版で)

    毎日新聞2025/12/7 06:00(最終更新 12/7 06:00)
    https://mainichi.jp/articles/20251206/k00/00m/040/183000c

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    「邪馬台国はどこか」九州説・畿内説・東遷説それぞれの弱点や矛盾点を検証する古代史講座…論点整理に
     中国の史書「魏志倭人伝」に記された邪馬台国はどこか。江戸時代から続く論争をテーマにした古代史講座が福岡県飯塚市で開かれた。講師が持論の正当性を主張…
    (出典:読売新聞オンライン)


    邪馬台国の位置論争は古代史の中でも特に議論が多いトピックです。

    1 樽悶 ★ :2025/12/06(土) 23:55:14.03 ID:aneRp/eZ9
     中国の史書「魏志倭人伝」に記された邪馬台国はどこか。江戸時代から続く論争をテーマにした古代史講座が福岡県飯塚市で開かれた。講師が持論の正当性を主張するのではなく、九州説、畿内説、東遷説それぞれの弱点や矛盾点を検証するユニークな試みだ。

     魏志倭人伝には、朝鮮半島における中国の出先機関・帯方郡から邪馬台国に至るまでの行程が記されている。しかし、畿内説は福岡県周辺と推定されている「不弥国」以降の進路を南から東に読み替える必要がある。一方、九州説だと、移動にかかる日数と実際の距離が合わない地点があるなど、文献からの推測には限界がある。

     講座では、佐賀県・吉野ヶ里遺跡の調査を手がけた佐賀女子短大の高島忠平名誉教授(考古学)、元奈良県立橿原考古学研究所の関川尚功氏、高橋徹・元大分県立歴史博物館長が登壇。考古学的知見から持論を展開した。

     まず高橋氏が九州説を否定した。卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳が奈良県にあることや、前後して周辺に前方後円墳に先行する墳墓が密集して築かれたことを挙げ、「古墳文化は東高西低。九州説だと説明がつかない」とした。

     これに対し、関川氏は畿内説に疑問を呈した。邪馬台国があった弥生時代の畿内の遺跡には、大陸系の遺物や半島系土器がほぼないと指摘。「畿内は当時、大陸との直接的なつながりが薄く、九州のように墓に鏡を副葬する風習も見られなかった。畿内の大型古墳は4世紀のもので、弥生時代とは明確に区別される。弥生時代の邪馬台国が大和で自生することはありえない」と述べた。

     高島氏は、邪馬台国が九州から畿内に移ってヤマト政権に発展したとする「東遷説」はありえないとした。奈良盆地で見られるような弥生時代の大規模水田経営は、各地の有力集団の同盟的結合が不可欠で、そうした結合がヤマト王権の源流となったと指摘。一方、九州ではそうした強固な共同体の結合は見られないとして、「邪馬台国とヤマト王権は構造が異なり、歴史的連続性はない」と訴えた。(以下ソース)

    12/6(土) 14:36配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/036548bbe4a7a86630ef41027ecfbcae71dfc25f

    (出典 newsatcl-pctr.c.yimg.jp)

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    1000人超の死をもたらした治安維持法 解説書が鳴らす警鐘
     戦前と戦時中、言論や思想の自由を奪った治安維持法は10万人以上の拘束と拷問死93人、虐待や病気、釈放後の自殺を含めると1000人以上の死をもたらし…
    (出典:毎日新聞)


    スパイ防止法を制定するときは、戦前、戦中の治安維持法の二の舞にならないようにしないといけないです。そのためにも、議論が必要です。

    1 少考さん ★ :2025/09/28(日) 14:59:06.50 ID:w92BEyBc9
    1000人超の死をもたらした治安維持法 解説書が鳴らす警鐘(毎日新聞)
    https://news.yahoo.co.jp/articles/4b80d109ebd70bf415b01cbb9161214f78fd0f58

    9/28(日) 12:15配信

    治安維持法制定に反対してデモ行進する群衆=1925年(大正14年)2月11日撮影

     戦前と戦時中、言論や思想の自由を奪った治安維持法は10万人以上の拘束と拷問死93人、虐待や病気、釈放後の自殺を含めると1000人以上の死をもたらしたとされる。1925年5月の施行から100年を迎える中、弾圧が厳しかった京都での歴史を解説する書籍「レジスタントの京都 治安維持法下の青春」(日本機関紙出版センター、1980円)が7月に出版された。同法犠牲者国家賠償要求同盟京都府本部が作成した京都関連の被害者約1000人の名簿も添付。戦後の民主主義も改めて見つめ直し、再び戦争への道を進まぬよう警鐘を鳴らす。

    【写真でみる】政府によって京都帝国大を追われた滝川幸辰。戦後は京大学長に
    https://mainichi.jp/graphs/20250926/mpj/00m/040/144000f/20250926k0000m040329000p?inb=ys

     同盟は全国組織が1968年、府本部は88年に設立。同法下の国家弾圧の歴史を掘り起こすと共に、被害者の人権回復と国の謝罪・賠償を求めてきた。

     全国各地で被害者の名簿作りが始まり、京都でも10年ほど前から着手していた。取り組みを進めるため、2019年から府本部会長を務める元共産党府議、原田完さん(75)が21年に井口和起・府立大名誉教授や勝村誠・立命館大教授ら近現代史の研究者と京都治安維持法研究会を設立。法施行100年の節目に名簿を作成し、幅広く被害者の活動を伝える書籍の刊行につなげた。

    原田さんの母、山田寿子(としこ)さん(98年に87歳で死去)も直接の被害者だった。原田さんが高2の時、前橋市の自宅を訪ねてきた作家に、母が拷問も含めた体験を語る姿を見た。驚きのあまり、生前の母に詳しく尋ねることができなかった。

     鳥取市出身の母は高等女学校を卒業して上京。住み込みで開業医を手伝ったが、貧しい患者への差別扱いに反発して飛び出し、当時の共産党機関紙「無産者新聞」や町工場で働きながら労働者支援に関わるようになった。

     共産主義者や労働運動の関係者を標的に制定された治安維持法は28年に結社の「目的遂行罪」が追加され、自由主義的な研究・言論や宗教団体の教義・信条も含めて国民全体が弾圧対象となり、最高刑も死刑に引き上げられる。これに反対した当時の労農党の京都選出衆院議員、山本宣治は右翼男性に暗*れた。その葬儀に集まった多くの労働者が一斉検挙された中に19歳だった母もいた。

     ◇自伝で知った母の拷問体験
    (略)
    【太田裕之】

    ※全文はソースで。

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