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    カテゴリ:科学 > 歴史


    ナスカの地上絵は儀礼活動に使われた… 山形大学がAI使い新たに303件の地上絵発見 タイプは2種類
    …山形大学は24日、ナスカの地上絵の目的が儀礼活動に使われたことが明らかになったと記者会見で発表しました。AIを活用し始めたおととし以降、新たに303…
    (出典:YBC山形放送)


    ナスカの地上絵の新たな発見に心躍ります。山形大学がAIを駆使して303件もの地上絵を発見したというニュースは、古代文明の秘密が少しずつ解き明かされている証ですね。儀礼活動との関係が明らかになることで、ナスカ文化の深さがさらに感じられます。

    1 牛乳トースト ★ :2024/09/24(火) 16:21:08.84 ID:ahD8ergz9
    ナスカの地上絵は儀礼活動に使われたー。山形大学は24日、地上絵が描かれた目的が明らかになったと記者会見で発表しました。さらに、AIを活用し始めたおととし以降、新たに303件の地上絵が見つかったことも分かりました。

    山形大学によりますと山形大学ナスカ研究所とIBM研究所の共同プロジェクトは、AIを活用しペルー・ナスカ台地の調査を行ったところ、おととし9月から去年2月までの6か月間で人やラクダ科の家畜など新たに303件の地上絵を発見しました。
    詳しく調べた結果、地上絵には巨大で線状に描かれたものと小型で面的に描かれた主に2種類のタイプがあることが分かりました。
    巨大で線状の地上絵は主に野生動物が描かれており、直線や台形によって構成された神聖な場所に向かう巡礼路周辺に描かれていました。複数の集落による共同体レベルの儀礼活動に利用されたと考えられています。
    小型で面的な地上絵は人間や人間の頭、家畜が多く個人や小規模な集団の儀礼活動に関連しているということです。また、山形大学ナスカ研究所はプロジェクト成果の論文が、アメリカの総合科学誌「米国科学アカデミー紀要」に掲載されることを発表しました。

    2024/09/24 11:22 YBC山形放送 https://news.ntv.co.jp/n/ybc/category/society/ybf70e226685cd4bb0a0def30c6cf0a567

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    すごい発見ですね!古代の人々が彗星の衝突を記録していたとは驚きです。

    トルコ南部に佇む「ギョベクリ・テペ」は、今から約1万2000年前に建てられた非常に古い遺跡です。

    英エディンバラ大学(The University of Edinburgh)の研究者は最近、ギョベクリ・テペの石柱の中に”世界最古のカレンダー”と見られる彫刻を発見したと発表しました。

    さらに別の石柱には、約1万3000年前の彗星の衝突も記録していた可能性があるとのことです。

    この彗星衝突は「ヤンガードリアス」という地球規模の寒冷化を引き起こした要因とも考えられています。

    研究の詳細は2024年7月24日付で学術誌『Time and Mind』に掲載されています。

    目次

    • ギョベクリ・テペに「世界最古のカレンダー」を発見か
    • 1万3000年前の「彗星衝突」が刻まれていた?

    ギョベクリ・テペに「世界最古のカレンダー」を発見か

    ギョベクリ・テペは直径およそ300メートルに及ぶ広さで、そこには200本以上の石柱が円を描くように建造されています。

    これまでの研究によると、ギョベクリ・テペは紀元前8200〜1万年前の期間に建てられたことがわかっています。

    それらは高度な文明が約1万2000年以上前の時点ですでに存在したことを物語っていますが、ギョベクリ・テペ自体は何の目的で建てられ、どのように利用されていたのか、明確にはわかっていません。

    そんな中、研究チームは最近、ギョベクリ・テペの少なくとも一部の石柱は「暦」「天体現象」の記録として使われていた可能性を発見しました。

    ギョベクリ・テペ
    ギョベクリ・テペ / Credit: ja.wikipedia

    チームは以前の研究で、ヴァルチャーストーン(Vulture Stone=ハゲタカ石)と呼ばれる石柱に星座の図形が描かれている可能性があることを報告しています。

    研究主任のマーティン・スウェットマン(Martin Sweatman)氏は今回、さらに一歩踏み込んだ分析を行い、ヴァルチャーストーンに”世界最古のカレンダー”が彫刻されていることを見出しました。

    同氏は徹底的な分析をもとにその理由を述べています(イメージしやすいように下図をご参照ください)。

    氏は石柱に刻まれている数多くの「V字」を数えて、その1つ1つが1日を表していると捉えました。

    またV字が29個か30個ほど描かれており、それが1まとまりで1カ月を示している痕跡が見られたという。

    ヴァルチャーストーンに描きこまれた暦の説明図
    ヴァルチャーストーンに描きこまれた暦の説明図 / Credit: Martin B. Sweatman., Time and Mind(2024)

    その下の列で11カ月をプラスして計354日(太陰暦は29.5日×12カ月で354日)を数え、さらにその下には1太陽年(365日)に帳尻を合わせるように、10日間を足して364日とした記録がありました。

    加えて、ハゲタカの彫刻の首辺りにV字が1つ描きこまれており、スウェットマン氏はこれが「夏至」を表していると指摘。

    この1日を足して、合計が365日となるような暦となっていると説明しました。

    氏の説明が正しければ、これは月の満ち欠けに基づいた354日周期の「太陰暦」と、地球が太陽を1周して365日とする「太陽暦」の両方を考慮した”世界最古のカレンダー”となります。

    しかしスウェットマン氏は、さらに驚くべき発見が別の場所にあったと話しました。

    それによると、約1万3000年前に地球に衝突した彗星が描かれていたというのです。

    1万3000年前の「彗星衝突」が刻まれていた?

    同氏がギョベクリ・テペにある別の石柱を調べていたところ、「おうし座流星群」を描いた可能性が高い彫刻が見つかったというのです。

    おうし座流星群は約1万3000年前(おおよそ紀元前1万850年前とされる)に始まった「ヤンガードリアス」という寒冷化の原因の一つとされるものです。

    彗星はガスや塵などを放出しながら太陽の周りを周回する天体です。そのため彗星の軌跡にはその断片が数多く残っています。そんな彗星の軌跡と地球の軌道が重なると、彗星の断片が地球の大気圏で次々に燃えて流星群という現象を起こします。

    ヤンガードリアスについては、おうし座流星群を発生させる原因天体であるエンケ彗星の大きな断片が地球に落下し、これが空中爆発を起こした際に各地で火災や膨大な塵を上空に広げ、地球規模の寒冷化を引き起こしたという説があります。

    この影響でアメリカ大陸に生息していたサーベルタイガーやマストドンと言った大型動物が絶滅したとされており、人類のライフスタイルが狩猟採集から農耕牧畜に変化するきっかけにもなったとも言われています。

    ヤンガードリアスを引き起こす原因とな彗星衝突を描いたイメージ図
    ヤンガードリアスを引き起こす原因とな彗星衝突を描いたイメージ図 / Credit: UC SANTA BARBARA(2020)

    ただヤンガードリアスの原因は未だ明確ではなく、彗星衝突(おうし座流星群原因説)はあくまでこれを説明する説の1つです。

    ヤンガードリアスが彗星衝突によって起こったことを支持する証拠としては、北米を中心とする当時の年代の地層から特殊なナノダイヤモンドや溶融ガラスが見つかっていることが挙げられます。

    これらはかなりの高温・高圧の条件下でしか形成されないため、彗星衝突で作られた可能性が高いのです。

    その一方で、彗星衝突の説を否定する研究者も多く、火山活動や気候システムの自然な変動からヤンガードリアスが起こったとする意見もあり、議論はいまだに続いています。

    しかし今回、ギョベクリ・テペに見つかった彫刻が本当に「おうし座流星群」を示すものであれば、ヤンガードリアスが彗星衝突で起こったとする説を補強するものとなるでしょう。

    調査中のギョベクリ・テペ
    調査中のギョベクリ・テペ / Credit: Martin B. Sweatman., Time and Mind(2024)

    ただギョベクリ・テペの彫刻は、実際にヤンガードリアスが始まった時期から1000年ほど後の時代になります。

    もしかしたら、当時の人々が祖先から長く言い伝えられてきた「彗星衝突」の出来事を忘れないために石柱に刻んだのかもしれません。

    ヤンガードリアスは人々の生活スタイルをガラリと変革させた重大な出来事でしたから、その原因となった彗星衝突イベントを人々の記憶に刻むためにも、彫刻として残すことは理にかなっているでしょう。

    スウェットマン氏の主張が正しいかどうかは定かありませんが、ギョベクリ・テペの住人たちが高度な知恵と観察力を持っていたことは確かなはずです。

    全ての画像を見る

    参考文献

    Ancient carvings may be world’s oldest calendar
    https://www.ed.ac.uk/news/2024/ancient-carvings-may-be-world-s-oldest-calendar

    Carvings in Ancient Temple of Göbekli Tepe Could Be Earth’s Oldest Calendar
    https://www.sciencealert.com/carvings-in-ancient-temple-of-gbekli-tepe-could-be-earths-oldest-calendar

    元論文

    Representations of calendars and time at Göbekli Tepe and Karahan Tepe support an astronomical interpretation of their symbolism
    https://doi.org/10.1080/1751696X.2024.2373876

    ライター

    大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。

    編集者

    ナゾロジー 編集部

    古代の彗星衝突が記録された「世界最古のカレンダー」を発見!


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    19世紀の難破船からこんな価値ある品が見つかるなんて、歴史的な発見ですね。きっと今後、このシャンパンの話題で盛り上がること間違いなし!

    カラパイアの元の記事はこちらからご覧ください

    image credit:Tomasz Stachura/Baltictech

     スウェーデン沖のバルト海で発見された19世紀の沈没船に、未開封の高級シャンパンミネラルウォーターなど飲料ボトルが100本以上が積載されていたことがわかった。

     この船は、ロシア皇帝アレクサンドル2世(在位1855~1881年)の宮廷へ向かう途中で難破した可能性があるという。

    【画像】 難破船には未開封の木箱に入ったボトルがぎっしり

     難破船を発見したのは、ポーランドダイビンググループ「バルティックテック」だ。発見地点はバルト海に浮かぶスウェーデン領エーランド島の南37kmの海域だ。

     沈没船探査のために現場の海底を数年にわたり調査していたダイバーチームだが、この船を見つけたのは偶然だったという。チームリーダーのトマシュ・スタフラ氏によると、彼らが2024年7月11日にほとんど目立たない船の残骸がソナーで発見された時、漁船だと思ったという。

     「船には木箱に入ったボトルがぎっしり積まれていました」とスタチュラ氏は語る。

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    これらのボトルは1850年から1867年の間に製造されたという / image credit:Tomasz Stachura/Baltictech

    [もっと知りたい!→]1717年に沈没した難破船から海賊の骨が発見される。キャプテン・ベラミーの発見に繋がる可能性も

    ミネラルウォーターのボトルに歴史的意義

     大量のシャンパンの発見は話題になるだろうが、実は今回の場合、ミネラルウォーターのほうが歴史的意義が高く重要な意味をもつという。

     19世紀当時、ミネラルウォーターは治療効果が高いとされ、ヨーロッパの富裕層や有名人の間で流行の飲み物だったのだ。運搬には護衛がつくほど貴重なものだったようだ。

     ミネラルウォーターは密封された陶製のボトルに入っていて、この船の歴史について重要な手がかりをもたらしてくれる。

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    発見された未開封の大量のボトル / image credit:Tomasz Stachura/Baltictech

     封印の形状から、これらボトルは1850~1867年の間にドイツの企業セルターズによって製造されたことが判明した。この会社はフランクフルト北部にあるタウナス山脈の天然水で有名だ。

    「陶製のボトルに刻印されたブランド名から、ドイツのセルターズ社製のものであることがわかりました。現在でも製造されていて、ロゴもまさに同じものです」

     さらに、沈没船に積まれていた陶製ボトルは現在でも存在する工場で作られていて、さらに詳しい情報を得るために同社と連絡をとっている。

    [もっと知りたい!→]170年前に沈んだ難破船から引き上げた海底熟成シャンパン、そのお味は?

     現在スウェーデン当局にこの件を通報し、水中考古学者らとさらなる調査プロジェクトに取り組もうとしているが、行政上の制限があり、回収には時間がかかりそうだ。

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    難破船を調査するダイバーたち / image credit:Tomasz Stachura/Baltictech

    年代物のシャンパンはうまいのか?

     これらのシャンパンは未開封だったために、まだ飲める可能性がある。はたしておいしいのか?

     19~20世紀始めにかけての沈没船からこうした酒類が見つかった例はほかにもある。

     かつて、フィンランドのオーランド諸島近くで168本のシャンパンを積んだまま1852年に沈没した船が発見された。関係者たちが170年前のシャンパンを試飲したが、そのお味は「獣じみたテイスト」、「濡れた髪みたい」、「安っぽい味」と、あまりそそられる味ではなかったようだ。

     かの有名なタイタニック号にも、もちろんシャンパンのボトルの残骸はあったが、水深3800mのものすごい水圧にもかかわらず、ボトルは破裂することなくそのまま無傷で残っていたそうだ。

     シャンパンのボトル内の圧力はかなり高く、なんらかの作用で海水圧とこの圧力が同じになり、爆縮が起こらなかったのではないかと言われている。

    References:Diving Conference Baltictech / Shipwreck Loaded With 100 Bottles Of Champagne Found In Baltic Sea | IFLScience / written by konohazuku / edited by / parumo

     
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    19世紀の難破船から未開封のシャンパンなどが100本以上発見される


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    これは怖いですね。原因不明の病気って恐ろしいです。

     1740年9月18日、軍艦5隻を中心とした小艦隊がイギリス・ポーツマスを出港した。スペインの宝船を追うという密命を帯び、意気揚々と出発した乗組員たちを待ち受けていたのは、あまりにも過酷すぎる運命だった。

     ここでは、生存者の日誌や証言をもとに「ウェイジャー号」と250人の乗組員の運命を克明に描き出すノンフィクション『絶海――英国船ウェイジャー号の地獄』(早川書房)から一部を抜粋。

     南米大陸最南端のホーン岬を周る航路の途中、荒れ狂う嵐とともに男たちを襲った原因不明の恐ろしい病。彼らは生き延びることができるのか――。(全3回の1回目/続きを読む

    【人物紹介】
    ジョン・バイロン(1723~ 1786年) 士官候補生。貴族の次男。16歳で遠征に参加。帰還後、航海日誌を出版。後の詩人バイロン卿の祖父。

     

    ジョージ・アンソン(1697~ 1762年) センチュリオン号艦長。小艦隊を率いる代将。無口だが冷静沈着で、部下に慕われる人格者

     

    デイヴィッド・チープ(1697~ 1752年) 遠征中に一等海尉からウェイジャー号の艦長に昇進。スコットランド出身。借金苦から17歳で海軍に入隊した苦労人。

    ◆◆◆

    ずぶ濡れになりながら船にしがみつく乗組員たち

     嵐は、昼も夜も艦隊を襲い続けた。ジョン・バイロンは圧倒される思いで、ウェイジャー号に押し寄せる波を見つめていた。全長123フィート〔約37メートル〕の船などちっぽけな手こぎボートにすぎないと言わんばかりに、波は船をもてあそんだ。船体のあらゆる継ぎ目から浸水して下層の甲板はどこも水浸しになり、士官たち乗組員はハンモックも寝場所も放棄することになった。もはや「悪天候」から逃れられる場所はどこにもなかった。

     濡れたロープや濡れた帆桁、濡れたシュラウドや濡れた操舵輪、濡れたはしごや濡れた帆をつかんでいてこすれたせいで、乗組員たちの手には熱傷ができていた。バイロンは、波しぶきだけでなく降りしきる雨でずぶ濡れになり、着ている物の糸の一本として乾いている箇所はなかった。そこかしこから滴が落ち、だらしなく垂れ下がり、崩れ落ちるかに思えた。

    世界で最も忌まわしい航海

     1741年3月、なかなか見つからないホーン岬(そもそも艦隊は、正確には地図上のどこにいたのだろうか)を目指して荒れ狂う嵐の闇の中を進む間、バイロンは持ち場に留まろうと奮闘していた。がに股のガウチョ〔南米のカウボーイ〕のように足を踏ん張り、固定されている物には何であれしがみついた。そうしないと、泡立つ海に放り出されかねなかった。空を稲妻が切り裂き、バイロンの目の前が光ったかと思うと、世界はそれまで以上に黒く染まった。

     気温は下がり続け、雨は固体になり、みぞれや雪に変わっていった。ロープは凍結し、凍傷になる者もいた。船乗りの言い習わしに、「40度以南に法はない」というものがある。「50度以南に神不在」と続く。そして、バイロンたち乗組員は、この時、「凶暴な50度」にいた。この海域では、風が「何ものにも耐えがたいほど暴力的に吹き、海は船が翻弄されてばらばらに引き裂かれるほど高くうねる」とバイロンは記している。そして、これは「世界で最も忌まわしい航海である」と断じている。

    「想像を絶する激痛」をもたらす病

     大人の男も少年も各自が耐え抜くしかないことは、バイロンもわかっていた。だが、ウェイジャー号がルメール海峡を抜けたばかりの3月7日、何人もの仲間がもはやハンモックから起き上がることもできなくなっていることに気づく。皮膚が青く変色し始め、やがて炭のように黒くなった。その状態は、ウォルター牧師の言葉を借りれば、「体中にびっしりと黴が生えているよう」だった。

     足首はとんでもなく腫れ上がり、体をむしばむそれが何であるにせよ、腐食性の毒のごとくに、太腿から尻、そして肩へと体を上に向かって進んでいった。教師のトマスは、この病に罹った際、初めは左足の親指に軽い痛みを感じただけだったが、間もなく関節のこわばりと皮膚のただれが全身に広がっていることに気づいたと振り返っている。この病は「膝、足首、足指の関節にとんでもない痛みを伴うので、罹る前は、そんな痛みは人間の生理では耐えられないと思っていた」とも。

     やがて、バイロンもこの恐ろしい病に罹り、この病が「想像を絶する激痛」をもたらすことを身をもって知ることとなった。

     この災厄の魔の手が顔に及ぶと、想像上の怪物さながらになる者もいた。目は充血して腫れ上がった。歯は抜け、髪の毛も抜け落ちた。その吐く息は、バイロンの仲間の一人が言う、すでに死神が迎えに来たかのように不快な臭いを放った。体をつないでいる軟骨が緩んできたようにも見えた。場合によっては、古傷がふたたび出現することもあった。

     50年以上前のアイルランドでのボインの戦い〔1690年のイングランド軍とアイルランド軍の戦い〕で負傷したある男の場合、その時の傷口が突如として開いた。「そればかりか、さらに驚くべきことが起こった」とウォルター牧師は記している。今度は、ボインで骨折して治っていたはずの骨が、「まるで癒合などしていなかったかのよう」に、ふたたび折れてしまったのだ。

    壊血病が深刻な事態を引き起こす

     さらに、感覚にも影響が出た。ある瞬間は牧歌的な小川や牧場の幻影に陶然としているのに、次の瞬間には自分がどこにいるかに気づき絶望に打ちひしがれるのだ。ウォルター牧師は、この「奇妙な気力の落ち込み」の特徴は「歯の根が合わなかったり、体が震えたり、さらには……身も世もなく怯えたりすること」だと指摘している。ある医師はこの症状を「魂そのものの崩壊」と呼んだ。バイロンは、乗組員何人かが精神錯乱に陥るのを目の当たりにした。この病は「脳に入りこみ、彼らは完全にいかれてしまった」と仲間の一人が記している症状を目にしたのである。

     乗組員たちが苦しめられていたのは、ある英国の船長が「海の疫病」と名づけた壊血病だった。他の誰もがそうであったように、バイロンもどうしてこの病気に罹るのかは知らなかった。海に出て少なくとも1カ月以上経ってから乗組員を襲うこの病は、帆船時代には大きな謎だった。砲撃戦、海難事故、難破、その他の疾病といった他の原因による死者の総数より、この病による船乗りの死者のほうが多かった。

     アンソンの艦隊の場合、この壊血病の症状はまずすでに弱っていた者に現れ、続いて元気だった乗組員の間に広がり、きわめて深刻な事態を引き起こした。日頃冷静沈着なアンソンも、「あの病の恐ろしさについてことさらに言及する気はない」とした上で、「だが、私たちがこれまでに罹ったどんな病も比べものにならない」ほど深刻であると報告している。

    軍医が死体を解剖したが、原因を解明できず

     いつ止むとも知れぬ嵐が続くある晩、バイロンはびしょ濡れでがたがたと音を立てる寝場所で眠ろうとあがいていたが、八点鐘が鳴ったので次の当直のためにとにかく甲板に出ようとした。よく見えない迷路のような船内をよろめきながら進んだ。倒れて火事になる可能性があるため、ランプが消されていたのだ。司厨長でさえ竈に火を付けることを許されず、乗組員たちは肉を生で食べるしかなかった。

     バイロンが甲板に出ると、吹き付ける風が冷たかった。驚いたのは、交替要員が数十人しかいないことだった。「乗組員の大半」が「疲労と病によって動けない」状態だったとバイロンは記している。

     どの船も手が足りず操船不能になる恐れがあった。旗艦センチュリオン号の軍医長が命を落とした後、ウェイジャー号からセンチュリオン号に異動してきた軍医のヘンリー・エトリックは、蔓延を食い止めようと試みる。センチュリオン号の最下甲板に降りていくと術衣に身を包み、鋸を手に死者の体を切り開き、病気の原因を明らかにしようとした。ひょっとしたら、死者が生者を救えるかもしれない。

     エトリックは調べた結果を報告した。犠牲者の「骨や肉をそぎ落としてみると真っ黒」で、血は独特の色合いで「黒と黄の分泌液」といった様相だった。何体か解剖した後で、この病は極寒の気候が引き起こしたのだとエトリックは断ずる。だが、この病は熱帯気候でも同じように蔓延すると指摘されると、原因は依然として「まったくの謎」であるとしぶしぶ認めた。

     この病は急激に広がり、嵐の中の嵐と化した。エトリックセンチュリオン号に異動した後にウェイジャー号にやって来た軍医はトライアル号のウォルターエリオットだった。バイロンはエリオットのことを、度量が大きく行動力があり、非常にたくましい青年と評した。人一倍長生きしそうな人物に見えたのだ。エリオットは、やはりこの病に罹り闘っていたチープ艦長を献身的に世話した。艦長が「このような時に病気になるとは」、「きわめて不幸なことだ」とエリオットは述べている。

    薬を服用したせいで死者が続出

     チープやバイロンたち病人を救おうと、エリオットはありとあらゆる手を尽くした。だが、既存の治療法はどれも、その裏付けとされる理論と同様に役に立たなかった。たとえば、少なからぬ者が人間にとって不可欠なものが土の中にあると考え、病人を顎まで土に埋めることが唯一の治療法だと主張していた。ある士官は別の航海で、「20人の男の頭が地面から突き出している」のは異様な光景だったと振り返っている。

     アンソンの遠征隊が海に封じ込められている間、主に処方された薬はジョシュア・ウォード医師〔1685~1761〕の「ピル・アンド・ドロップ〔丸薬と液薬〕」と呼ばれるもので、「さまざまな驚くべき突然の治癒」をもたらす効能があると宣伝されている瀉下薬だった。

     アンソンは、自分が耐えられないようなことは部下にさせたくないと考え、この丸薬をまず自分が飲んだ。教師のトマスは、この薬を飲むと大半の者が「吐き気と便意の両方で非常に激しい」症状に襲われ消耗したと記している。ある乗組員は一粒飲んだだけで鼻孔から血を流し始め、瀕死の状態になった。ウォードは藪医者だったのだ。その薬には、人体に害となる量のアンチモンと、一部の者が疑念を抱くヒ素が含まれていた。

     この薬を服用すると病人は必要な栄養素が奪われ、そのせいで数多くの死者が出たと見られる。軍医のエトリックは、後にこの航海中に病死することになるが、自分ができるどんな治療を施しても効果がなかったと悲観している。

    柑橘類が壊血病の治療薬に

     ところが、その治療法はとても簡単だった。壊血病はビタミンCの不足、つまり食事に生野菜や果物が不足すると起こる。ビタミンCが欠乏すると、コラーゲンという繊維性タンパク質が生成されなくなるのだ。コラーゲンは、骨と組織を繋ぎ合わせ、気分に影響を及ぼすドーパミンその他のホルモンを合成するのに使われる(アンソンの乗組員たちは、精神疾患の原因になるナイアシン不足や夜盲症を引き起こすビタミンA不足など、他のビタミンの不足にも悩まされていたと見られる)。

     後に、海尉のソーマレズは、ある栄養素の効用を実感している。「はっきりわかった」とソーマレズは記している。「人間の体の仕組みには、地球上のある種の微細な要素の助けがないと再生できなかったり維持できなかったりする何とも言いがたい何か(ジュ・ヌ・セィ・クヮ)がある。わかりやすく言うと、大地は人間本来の要素であるのだから、野菜と果物が唯一の薬なのだ」

     バイロンたち乗組員はみな、壊血病と闘うのに柑橘類が必要だった。物資を補給するためにサンタカタリナ島〔ブラジル南海岸沖〕に寄港した際、島にはライムがふんだんに実っていた。すぐ手の届く所に治療薬があったのだ。この禁断ではない果実は、数十年後、英国船の乗組員全員に与えられるようになり、英国の船乗りはライミーとあだ名される仕儀となる。

    乗組員の半数近くを海葬

     艦隊の航行が続くにつれ、バイロンが目の当たりにする、空気を求めて苦しそうにあえぐ仲間の数は増えていった。水もないのに、まるで溺れているかのようだった。仲間たちは、家族からも先祖の墓からも遠く離れた場所で次から次に死んでいった。

     中には、立ち上がろうとする者もいたとウォルター牧師は報告している。だが、「甲板まで行き着けないうちに死んだ。あるいは、甲板を歩いていて、あるいは何かの務めを果たしていて、ふいにばったり倒れて死んでしまうことも珍しくなかった」。

     さらには、ハンモックに横たわったまま船内のある場所から別の場所に運ばれた者がふいに死ぬこともあった。「毎朝、各船で8人から10人の乗組員を葬るなど、そうあることではなかった」とミリチャンプは日誌に記している。

     全体で見ると、センチュリオン号の点呼簿に並ぶ乗組員約500人のうち300人近くが、最終的に「DD」、つまり「死亡除隊〔Discharged Dead〕」と記入された。グロスター号は、英国を出航した時に乗り組んでいたおよそ400人のうち4分の3が海に葬られたと報告しており、その中には強制徴募されて死んだ者も含まれていた。グロスター号の艦長は自身も重症で、航海日誌に「あまりに悲惨な光景で、中には言葉では言い表せないほどの苦悶のうちに死ぬ者もいた」と記している。セヴァーン号は、大人の男も少年も含め290人を葬り、トライアル号は乗組員の半数近くを葬った。

     ウェイジャー号では、バイロンによると、当初250人ほどいた士官たち乗組員は220人を下回り、その後200人にも満たなくなった。しかも、生きている者も死者とほとんど見分けがつかない有様だった。ある士官の言葉を借りれば、「ひどく弱っており、ずいぶん衰えてもいた」ので、「我々は甲板を歩くこともままならなかった」。

     この病は、乗組員の体の結合組織だけでなく船団としてのまとまりもむしばんでいた。以前は勇壮だった艦隊は今や幽霊船の集まりさながらで、元気なのは害獣ばかりだった。ある記述によると、「船内にはすさまじい数のネズミがいて、目にした者でなければ信じられないほどだった」。ネズミは寝場所にはびこり、食卓を横切り、海葬を待って甲板に横たえられている死者の顔を食い荒らした。

     ある遺体は目を、またある遺体は頬を食いちぎられた。

     来る日も来る日も、バイロンたち士官は「この世を去った」仲間の名を点呼簿に書き入れていった。

    どんな嵐よりも痛手だった甥っ子の死

     セヴァーン号の艦長は、海軍本部への報告書に、航海長の死後、キャンベルという名の乗組員を昇格させて穴を埋めたと記している。そのキャンベルは「どんな困難や危険にさらされても、すばらしい勤勉さと毅然とした振る舞い」を示したという。だが、それから幾ばくもなく、同じ報告書に「ミスター・キャンベルが本日死亡したと知らせを受けたところだ」と加えている。

     センチュリオン号の士官候補生で、この病に罹って歯の抜けた口が暗い洞窟のようになっていたケッペルは、死者の名簿をまとめることが嫌になり、「死者の何人かについては、名簿に書き込むのを怠った」と申し訳なさそうに記している。

     その後死んだある者は、名簿への記入を省かれずにすんだ。そこには「Able Seaman〔上等水兵〕」を意味する「AB」と「死亡除隊」を意味する「DD」という一般的な略語が記されている。今やインクは色あせてはいるが、消えかかった墓碑銘のようにまだ読み取ることができる。「ヘンリー・チープ、AB、DD、……海葬」と。見習いとして乗り込んでいたチープ艦長のまだ年若い甥である。

     甥っ子の死は、ウェイジャー号の新任艦長チープにとって、どんな嵐よりも痛手だったに違いない。

     バイロンは、死んだ仲間を海洋葬できちんと弔ってやろうとしたが、死者があまりにも多く、割ける人手がほとんどなかったため、たいていは弔いの儀式もせずに遺体を海に投棄するしかなかった。

     詩人のバイロン卿は、「祖父の『物語』」に触れ、「墓もなく、墓参する者もなく、棺もなく、無名のまま」葬られたと詩に詠っている。

    憧れのロジャーズ船長が立ち寄った島

     3月下旬を迎える頃、艦隊はドレーク海峡を通り抜けようと試みたものの3週間近く失敗し続け、ウォルター牧師の言う「全滅」の危機に瀕していた。一縷の望みをかけたのは、ホーン岬を素早く周り、最初に目に入るはずの島に向かうことだった。チリの西海岸から約670キロほどの太平洋の無人の島々、ファン・フェルナンデス諸島である。「我々が海の藻くずにならずにすむには、そこに到達するしかない」とウォルター牧師は記している。

     海の物語をこよなく愛するジョン・バイロンにとって、これらの島はただの寄航地にとどまらず、伝説に彩られた場所だった。1709年、英国人船長のウッズ・ロジャーズが、乗組員が壊血病に冒されていた時に立ち寄った場所である。ロジャーズは日誌に詳細を書き留めている。その日誌は、後に『世界巡航記』として出版され、バイロンの愛読書となる。

     日誌によると、ある島でロジャーズは、アレクサンダー・セルカークというスコットランド出身の船乗りに出会い驚いている。セルカークは、船に置き去りにされ、4年以上もそこで耐乏生活を送っていた。並外れた創意工夫によって何とか生き延びてきた。枝をこすり合わせて火を起こすことを学び、動物を狩り、野生の蕪を採った。「服が擦り切れると、彼は自分で山羊の皮を使い帽子兼コートを作ったが、縫い合わせるのに……針ではなく釘を使うしかなかった」とロジャーズは説明している。

     さらに、セルカークは所持していた聖書を拾い読みしていたので、「この孤島にいるうちに、以前よりもましなキリスト教徒になったと語った」という。ロジャーズはセルカークを「この島の絶対君主」と呼んだ。物語というのは人から人へと伝えられ、やがて海のように広い地域に浸透して神話になるものだ。やはりセルカークの物語も、作家のダニエル・デフォーの手によりロビンソン・クルーソーの物語としてまとめられ、1719年に世に出ている。この物語は、英国人の創意工夫の才ばかりでなく、英国が遠い異国を植民地支配することへの賛歌でもあった。

     バイロンと仲間たちは自然の力に打ちのめされながらも、まだ見ぬファン・フェルナンデス諸島の島影に焦がれたことだろう。壊血病が見せる幻覚のせいで、期待はいっそう募ったに違いない。ミリチャンプの言うその「待望の島」に、みなが思い描いたのはエメラルド色の草原が広がり、清らかなせせらぎが流れている様だった。教師のトマスは日誌で、その島をジョン・ミルトンの『失楽園』の楽園になぞらえている。

    悪夢から逃れるため、艦隊が向かったのは…

     4月のある晩、バイロンたち艦隊の一行は、ドレーク海峡をかなり進みホーン岬のある島〔オルノス島〕の西側まで到達したので、いよいよ北上できると判断する。このまま北上すれば、無事にファン・フェルナンデス諸島に到達するはずだ。

     ところが、風上に上タッキング手回しさせてから間もなく、アナ号の見張りが月明かりに照らされた奇妙な構造物に気づく。岩だ。アナ号の乗組員は警告のために大砲を2発発射した。おかげで、すぐさま他の船の見張りも風下側の岸(リーショア)にそびえ立ち、月明かりに輝いている岩を視認した。ある艦長は、「とてつもない高さにそびえる黒い二基の塔のよう」だったと日誌に記している。

     またしても、航海長たちの推測航法の計算が間違っていたのだ。今回は、航路が数百マイル〔数百キロ〕もずれていた。艦隊が今進んでいるのは大陸南端の西側ではなく、風と海流によって東に流され、大陸に押し付けられていたのだ。ぎりぎりのところで方向転換し、難破はまぬかれた。だが、ドレーク海峡に入ってから1カ月経つというのに、いまだに「盲いしホーンの憎悪」から逃れることができずにいた。ミリチャンプは日誌に、「乗組員たちは今やほぼ全員が、陸に上がることを絶望視し、自ら進んで命にかかわる病に身を委ねている」。彼らは「先に死ぬことのできた幸運な者たち」をうらやんだ、と記している。

     バイロンも気力を奪われていた。大陸から離れようと艦隊が向かったのは、ロビンソン・クルーソーの島とは反対方向の南だった。しかも、ようやく逃れた嵐の渦へとふたたび突っ込もうとしていた。

    首の回りに奇妙なアザのある死体が…「仲間が絞め殺したのでは」海で遭難した145人の男たちによる“極限状態”の無人島生活〉へ続く

    デイヴィッド・グラン,倉田 真木/Webオリジナル(外部転載))

    ※画像はイメージ ©AFLO


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    (出典 www.lishixinzhi.com)


    DNAに基づいての顔の復元、技術の進歩を感じますね。遊牧民の風貌がどのようなイメージになるのか、楽しみです!

    1 樽悶 ★ :2024/03/31(日) 03:38:18.37 ID:5olsIUmc9
    <遊牧民「鮮卑」はエキゾチックな外見をしていたとも考えられていたが、復元された武帝の姿はこれとは大きく異なるものだった>

    約1500年前の中国を生きた皇帝、北周の武帝の顔が中国復旦大学の研究チームによってDNAを基に復元された。これまで文献や絵画でしか窺い知ることのできなかった古代中国の統治者のリアルな姿は学術誌に発表され、研究者の1人は今回の発表によって「歴史上の人物に命が吹き込まれた」と語っている。

    これは、学術誌「カレントバイオロジー」に発表された研究の成果だ。研究チームは、皇帝の遺骨からDNAを取り出し、その顔を復元した。中国上海にある復旦大学科学技術考古学研究院の文少卿が率いたこの研究は、皇帝の死、そして、皇帝が属していた民族の起源と移動パターンに新たな光を当てるものとなった。

    この皇帝は、西暦560年から578年まで中国北周を統治した武帝だ。5世紀から6世紀にかけて、中国は南北朝に分かれていた。北周は、この時代に勃興した北朝の一つ。南北朝時代は、隋の文帝が中国を統一したことで終わりを告げた。北周は、現在のモンゴルや中国北部、北東部に暮らしていた鮮卑と呼ばれる古代の遊牧民族によって統治されていた。

    論文責任著者の一人である復旦大学の魏偏偏はプレスリリースで、「私たちの研究によって、歴史上の人物に命が吹き込まれた」と述べている。「これまで、古代の人々の姿を思い浮かべるには、史料や壁画に頼るしかなかった。しかし私たちは、鮮卑の人々の姿を直接明らかにすることができる」

    ■「エキゾチック」な外見と考えられていた鮮卑だが

    武帝は非常に影響力のある統治者で、強い軍隊を組織し、北斉を倒して古代中国の北部を統一した人物。1996年には、中国北西部で武帝の墓が発見された。そこには、ほぼ完全な頭蓋骨を含む遺骨が納められていた。

    今回の研究では、この遺骨から遺伝物質を抽出。その一部には、皇帝の肌や髪色に関する情報が含まれていた。研究チームは、このデータを頭蓋骨のデータと組み合わせて、皇帝の顔を3D復元した。

    抽出された遺伝物質は、武帝が茶色の目、黒髪、標準的な色かそれより暗い色の肌を持っていたことを示唆している。また、顔の特徴は、現在の北アジアや東アジアに暮らす人々と似ていたことがわかった。

    論文の責任著者の一人である復旦大学のShaoqing Wenはプレスリリースで、「一部の学者の間では、鮮卑はひげが濃く、鼻が高く、髪が黄色いなど、『エキゾチック』な外見をしていたと言われている」と前置きしたうえで、「私たちの分析によれば、武帝は、東アジアや北東アジアの典型的な顔立ちをしていた」と説明している。(以下ソース)

    3/29(金) 19:11配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/7e0f03e145773873f64c8daa121c4057db7343b8

    (出典 newsatcl-pctr.c.yimg.jp)


     【新華社上海3月29日】中国上海市の復旦大学科技考古研究院は28日、陝西省考古研究院と共同で作成した南北朝時代北周王朝の武帝、宇文邕(うぶん・よう、543~578年)の頭部の復元図とこれに関連する考古学研究の成果を発表した。科学技術を駆使して古代の帝王の顔立ちを復元する試みは中国で初めてとなった。

     歴史書の記載によると、宇文邕は遊牧民族・鮮卑(せんぴ)の出身。中国北方を統一後、「突厥(とっけつ)を制圧し、江南を平定する」野心に燃えていたが、志半ばにして早世した。阿史那(あしな)皇后とともに、現在の陝西省咸陽市にある孝陵に葬られている。

    (省略)

     復元図中の宇文邕は黒い髪、黄色の皮膚、茶色の目をしており、典型的な東北アジア人、東アジア人の顔つきと言える。鮮卑族と聞いて多くの人が想像する、ひげが濃く、髪が褐色で、彫りが深く、鼻の高いイメージとは大きく異なる。

     唐代の画家、閻立本(えん・りっぽん)も「歴代帝王図」で宇文邕を描いているが、ふっくらした顔にどっしりした体つきをしており、今回復元されたシャープな容姿とはやはり違いがある。

     文氏は「宇文邕の家系をたどると、祖母の王氏は北方の漢人だった可能性がある」とし、「鮮卑族は多民族が融合する過程で形成された可能性が高い」と指摘した。(以下ソース)

    2024年3月29日 23時50分
    https://news.livedoor.com/article/detail/26137709/

    (出典 afpbb.ismcdn.jp)


    https://twitter.com/nrken19/status/1718267263105503564
    https://twitter.com/thejimwatkins

    【【中国】北周の皇帝「武帝」、DNA基に顔を復元…エキゾチックな外見説の遊牧民「鮮卑」、復元顔は従来の説覆す北東アジアの典型】の続きを読む

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