「体中にカビが生えているよう」皮膚の色が青くなり、やがて黒に…250人を乗せた船で広がった原因不明の“死に至る病” - 文春オンライン 「体中にカビが生えているよう」皮膚の色が青くなり、やがて黒に…250人を乗せた船で広がった原因不明の“死に至る病” 文春オンライン (出典:文春オンライン) |
1740年9月18日、軍艦5隻を中心とした小艦隊がイギリス・ポーツマスを出港した。スペインの宝船を追うという密命を帯び、意気揚々と出発した乗組員たちを待ち受けていたのは、あまりにも過酷すぎる運命だった。
ここでは、生存者の日誌や証言をもとに「ウェイジャー号」と250人の乗組員の運命を克明に描き出すノンフィクション『絶海――英国船ウェイジャー号の地獄』(早川書房)から一部を抜粋。
南米大陸最南端のホーン岬を周る航路の途中、荒れ狂う嵐とともに男たちを襲った原因不明の恐ろしい病。彼らは生き延びることができるのか――。(全3回の1回目/続きを読む)
【人物紹介】
ジョン・バイロン(1723~ 1786年) 士官候補生。貴族の次男。16歳で遠征に参加。帰還後、航海日誌を出版。後の詩人バイロン卿の祖父。
ジョージ・アンソン(1697~ 1762年) センチュリオン号艦長。小艦隊を率いる代将。無口だが冷静沈着で、部下に慕われる人格者。
デイヴィッド・チープ(1697~ 1752年) 遠征中に一等海尉からウェイジャー号の艦長に昇進。スコットランド出身。借金苦から17歳で海軍に入隊した苦労人。
◆◆◆
ずぶ濡れになりながら船にしがみつく乗組員たち嵐は、昼も夜も艦隊を襲い続けた。ジョン・バイロンは圧倒される思いで、ウェイジャー号に押し寄せる波を見つめていた。全長123フィート〔約37メートル〕の船などちっぽけな手こぎボートにすぎないと言わんばかりに、波は船をもてあそんだ。船体のあらゆる継ぎ目から浸水して下層の甲板はどこも水浸しになり、士官たち乗組員はハンモックも寝場所も放棄することになった。もはや「悪天候」から逃れられる場所はどこにもなかった。
濡れたロープや濡れた帆桁、濡れたシュラウドや濡れた操舵輪、濡れたはしごや濡れた帆をつかんでいてこすれたせいで、乗組員たちの手には熱傷ができていた。バイロンは、波しぶきだけでなく降りしきる雨でずぶ濡れになり、着ている物の糸の一本として乾いている箇所はなかった。そこかしこから滴が落ち、だらしなく垂れ下がり、崩れ落ちるかに思えた。
世界で最も忌まわしい航海1741年3月、なかなか見つからないホーン岬(そもそも艦隊は、正確には地図上のどこにいたのだろうか)を目指して荒れ狂う嵐の闇の中を進む間、バイロンは持ち場に留まろうと奮闘していた。がに股のガウチョ〔南米のカウボーイ〕のように足を踏ん張り、固定されている物には何であれしがみついた。そうしないと、泡立つ海に放り出されかねなかった。空を稲妻が切り裂き、バイロンの目の前が光ったかと思うと、世界はそれまで以上に黒く染まった。
気温は下がり続け、雨は固体になり、みぞれや雪に変わっていった。ロープは凍結し、凍傷になる者もいた。船乗りの言い習わしに、「40度以南に法はない」というものがある。「50度以南に神不在」と続く。そして、バイロンたち乗組員は、この時、「凶暴な50度」にいた。この海域では、風が「何ものにも耐えがたいほど暴力的に吹き、海は船が翻弄されてばらばらに引き裂かれるほど高くうねる」とバイロンは記している。そして、これは「世界で最も忌まわしい航海である」と断じている。
「想像を絶する激痛」をもたらす病大人の男も少年も各自が耐え抜くしかないことは、バイロンもわかっていた。だが、ウェイジャー号がルメール海峡を抜けたばかりの3月7日、何人もの仲間がもはやハンモックから起き上がることもできなくなっていることに気づく。皮膚が青く変色し始め、やがて炭のように黒くなった。その状態は、ウォルター牧師の言葉を借りれば、「体中にびっしりと黴が生えているよう」だった。
足首はとんでもなく腫れ上がり、体をむしばむそれが何であるにせよ、腐食性の毒のごとくに、太腿から尻、そして肩へと体を上に向かって進んでいった。教師のトマスは、この病に罹った際、初めは左足の親指に軽い痛みを感じただけだったが、間もなく関節のこわばりと皮膚のただれが全身に広がっていることに気づいたと振り返っている。この病は「膝、足首、足指の関節にとんでもない痛みを伴うので、罹る前は、そんな痛みは人間の生理では耐えられないと思っていた」とも。
やがて、バイロンもこの恐ろしい病に罹り、この病が「想像を絶する激痛」をもたらすことを身をもって知ることとなった。
この災厄の魔の手が顔に及ぶと、想像上の怪物さながらになる者もいた。目は充血して腫れ上がった。歯は抜け、髪の毛も抜け落ちた。その吐く息は、バイロンの仲間の一人が言う、すでに死神が迎えに来たかのように不快な臭いを放った。体をつないでいる軟骨が緩んできたようにも見えた。場合によっては、古傷がふたたび出現することもあった。
50年以上前のアイルランドでのボインの戦い〔1690年のイングランド軍とアイルランド軍の戦い〕で負傷したある男の場合、その時の傷口が突如として開いた。「そればかりか、さらに驚くべきことが起こった」とウォルター牧師は記している。今度は、ボインで骨折して治っていたはずの骨が、「まるで癒合などしていなかったかのよう」に、ふたたび折れてしまったのだ。
壊血病が深刻な事態を引き起こすさらに、感覚にも影響が出た。ある瞬間は牧歌的な小川や牧場の幻影に陶然としているのに、次の瞬間には自分がどこにいるかに気づき絶望に打ちひしがれるのだ。ウォルター牧師は、この「奇妙な気力の落ち込み」の特徴は「歯の根が合わなかったり、体が震えたり、さらには……身も世もなく怯えたりすること」だと指摘している。ある医師はこの症状を「魂そのものの崩壊」と呼んだ。バイロンは、乗組員何人かが精神錯乱に陥るのを目の当たりにした。この病は「脳に入りこみ、彼らは完全にいかれてしまった」と仲間の一人が記している症状を目にしたのである。
乗組員たちが苦しめられていたのは、ある英国の船長が「海の疫病」と名づけた壊血病だった。他の誰もがそうであったように、バイロンもどうしてこの病気に罹るのかは知らなかった。海に出て少なくとも1カ月以上経ってから乗組員を襲うこの病は、帆船時代には大きな謎だった。砲撃戦、海難事故、難破、その他の疾病といった他の原因による死者の総数より、この病による船乗りの死者のほうが多かった。
アンソンの艦隊の場合、この壊血病の症状はまずすでに弱っていた者に現れ、続いて元気だった乗組員の間に広がり、きわめて深刻な事態を引き起こした。日頃冷静沈着なアンソンも、「あの病の恐ろしさについてことさらに言及する気はない」とした上で、「だが、私たちがこれまでに罹ったどんな病も比べものにならない」ほど深刻であると報告している。
軍医が死体を解剖したが、原因を解明できずいつ止むとも知れぬ嵐が続くある晩、バイロンはびしょ濡れでがたがたと音を立てる寝場所で眠ろうとあがいていたが、八点鐘が鳴ったので次の当直のためにとにかく甲板に出ようとした。よく見えない迷路のような船内をよろめきながら進んだ。倒れて火事になる可能性があるため、ランプが消されていたのだ。司厨長でさえ竈に火を付けることを許されず、乗組員たちは肉を生で食べるしかなかった。
バイロンが甲板に出ると、吹き付ける風が冷たかった。驚いたのは、交替要員が数十人しかいないことだった。「乗組員の大半」が「疲労と病によって動けない」状態だったとバイロンは記している。
どの船も手が足りず操船不能になる恐れがあった。旗艦センチュリオン号の軍医長が命を落とした後、ウェイジャー号からセンチュリオン号に異動してきた軍医のヘンリー・エトリックは、蔓延を食い止めようと試みる。センチュリオン号の最下甲板に降りていくと術衣に身を包み、鋸を手に死者の体を切り開き、病気の原因を明らかにしようとした。ひょっとしたら、死者が生者を救えるかもしれない。
エトリックは調べた結果を報告した。犠牲者の「骨や肉をそぎ落としてみると真っ黒」で、血は独特の色合いで「黒と黄の分泌液」といった様相だった。何体か解剖した後で、この病は極寒の気候が引き起こしたのだとエトリックは断ずる。だが、この病は熱帯気候でも同じように蔓延すると指摘されると、原因は依然として「まったくの謎」であるとしぶしぶ認めた。
この病は急激に広がり、嵐の中の嵐と化した。エトリックがセンチュリオン号に異動した後にウェイジャー号にやって来た軍医はトライアル号のウォルター・エリオットだった。バイロンはエリオットのことを、度量が大きく行動力があり、非常にたくましい青年と評した。人一倍長生きしそうな人物に見えたのだ。エリオットは、やはりこの病に罹り闘っていたチープ艦長を献身的に世話した。艦長が「このような時に病気になるとは」、「きわめて不幸なことだ」とエリオットは述べている。
薬を服用したせいで死者が続出チープやバイロンたち病人を救おうと、エリオットはありとあらゆる手を尽くした。だが、既存の治療法はどれも、その裏付けとされる理論と同様に役に立たなかった。たとえば、少なからぬ者が人間にとって不可欠なものが土の中にあると考え、病人を顎まで土に埋めることが唯一の治療法だと主張していた。ある士官は別の航海で、「20人の男の頭が地面から突き出している」のは異様な光景だったと振り返っている。
アンソンの遠征隊が海に封じ込められている間、主に処方された薬はジョシュア・ウォード医師〔1685~1761〕の「ピル・アンド・ドロップ〔丸薬と液薬〕」と呼ばれるもので、「さまざまな驚くべき突然の治癒」をもたらす効能があると宣伝されている瀉下薬だった。
アンソンは、自分が耐えられないようなことは部下にさせたくないと考え、この丸薬をまず自分が飲んだ。教師のトマスは、この薬を飲むと大半の者が「吐き気と便意の両方で非常に激しい」症状に襲われ消耗したと記している。ある乗組員は一粒飲んだだけで鼻孔から血を流し始め、瀕死の状態になった。ウォードは藪医者だったのだ。その薬には、人体に害となる量のアンチモンと、一部の者が疑念を抱くヒ素が含まれていた。
この薬を服用すると病人は必要な栄養素が奪われ、そのせいで数多くの死者が出たと見られる。軍医のエトリックは、後にこの航海中に病死することになるが、自分ができるどんな治療を施しても効果がなかったと悲観している。
柑橘類が壊血病の治療薬にところが、その治療法はとても簡単だった。壊血病はビタミンCの不足、つまり食事に生野菜や果物が不足すると起こる。ビタミンCが欠乏すると、コラーゲンという繊維性タンパク質が生成されなくなるのだ。コラーゲンは、骨と組織を繋ぎ合わせ、気分に影響を及ぼすドーパミンその他のホルモンを合成するのに使われる(アンソンの乗組員たちは、精神疾患の原因になるナイアシン不足や夜盲症を引き起こすビタミンA不足など、他のビタミンの不足にも悩まされていたと見られる)。
後に、海尉のソーマレズは、ある栄養素の効用を実感している。「はっきりわかった」とソーマレズは記している。「人間の体の仕組みには、地球上のある種の微細な要素の助けがないと再生できなかったり維持できなかったりする何とも言いがたい何か(ジュ・ヌ・セィ・クヮ)がある。わかりやすく言うと、大地は人間本来の要素であるのだから、野菜と果物が唯一の薬なのだ」
バイロンたち乗組員はみな、壊血病と闘うのに柑橘類が必要だった。物資を補給するためにサンタ・カタリナ島〔ブラジル南海岸沖〕に寄港した際、島にはライムがふんだんに実っていた。すぐ手の届く所に治療薬があったのだ。この禁断ではない果実は、数十年後、英国船の乗組員全員に与えられるようになり、英国の船乗りはライミーとあだ名される仕儀となる。
乗組員の半数近くを海葬艦隊の航行が続くにつれ、バイロンが目の当たりにする、空気を求めて苦しそうにあえぐ仲間の数は増えていった。水もないのに、まるで溺れているかのようだった。仲間たちは、家族からも先祖の墓からも遠く離れた場所で次から次に死んでいった。
中には、立ち上がろうとする者もいたとウォルター牧師は報告している。だが、「甲板まで行き着けないうちに死んだ。あるいは、甲板を歩いていて、あるいは何かの務めを果たしていて、ふいにばったり倒れて死んでしまうことも珍しくなかった」。
さらには、ハンモックに横たわったまま船内のある場所から別の場所に運ばれた者がふいに死ぬこともあった。「毎朝、各船で8人から10人の乗組員を葬るなど、そうあることではなかった」とミリチャンプは日誌に記している。
全体で見ると、センチュリオン号の点呼簿に並ぶ乗組員約500人のうち300人近くが、最終的に「DD」、つまり「死亡除隊〔Discharged Dead〕」と記入された。グロスター号は、英国を出航した時に乗り組んでいたおよそ400人のうち4分の3が海に葬られたと報告しており、その中には強制徴募されて死んだ者も含まれていた。グロスター号の艦長は自身も重症で、航海日誌に「あまりに悲惨な光景で、中には言葉では言い表せないほどの苦悶のうちに死ぬ者もいた」と記している。セヴァーン号は、大人の男も少年も含め290人を葬り、トライアル号は乗組員の半数近くを葬った。
ウェイジャー号では、バイロンによると、当初250人ほどいた士官たち乗組員は220人を下回り、その後200人にも満たなくなった。しかも、生きている者も死者とほとんど見分けがつかない有様だった。ある士官の言葉を借りれば、「ひどく弱っており、ずいぶん衰えてもいた」ので、「我々は甲板を歩くこともままならなかった」。
この病は、乗組員の体の結合組織だけでなく船団としてのまとまりもむしばんでいた。以前は勇壮だった艦隊は今や幽霊船の集まりさながらで、元気なのは害獣ばかりだった。ある記述によると、「船内にはすさまじい数のネズミがいて、目にした者でなければ信じられないほどだった」。ネズミは寝場所にはびこり、食卓を横切り、海葬を待って甲板に横たえられている死者の顔を食い荒らした。
ある遺体は目を、またある遺体は頬を食いちぎられた。
来る日も来る日も、バイロンたち士官は「この世を去った」仲間の名を点呼簿に書き入れていった。
どんな嵐よりも痛手だった甥っ子の死セヴァーン号の艦長は、海軍本部への報告書に、航海長の死後、キャンベルという名の乗組員を昇格させて穴を埋めたと記している。そのキャンベルは「どんな困難や危険にさらされても、すばらしい勤勉さと毅然とした振る舞い」を示したという。だが、それから幾ばくもなく、同じ報告書に「ミスター・キャンベルが本日死亡したと知らせを受けたところだ」と加えている。
センチュリオン号の士官候補生で、この病に罹って歯の抜けた口が暗い洞窟のようになっていたケッペルは、死者の名簿をまとめることが嫌になり、「死者の何人かについては、名簿に書き込むのを怠った」と申し訳なさそうに記している。
その後死んだある者は、名簿への記入を省かれずにすんだ。そこには「Able Seaman〔上等水兵〕」を意味する「AB」と「死亡除隊」を意味する「DD」という一般的な略語が記されている。今やインクは色あせてはいるが、消えかかった墓碑銘のようにまだ読み取ることができる。「ヘンリー・チープ、AB、DD、……海葬」と。見習いとして乗り込んでいたチープ艦長のまだ年若い甥である。
甥っ子の死は、ウェイジャー号の新任艦長チープにとって、どんな嵐よりも痛手だったに違いない。
バイロンは、死んだ仲間を海洋葬できちんと弔ってやろうとしたが、死者があまりにも多く、割ける人手がほとんどなかったため、たいていは弔いの儀式もせずに遺体を海に投棄するしかなかった。
詩人のバイロン卿は、「祖父の『物語』」に触れ、「墓もなく、墓参する者もなく、棺もなく、無名のまま」葬られたと詩に詠っている。
憧れのロジャーズ船長が立ち寄った島3月下旬を迎える頃、艦隊はドレーク海峡を通り抜けようと試みたものの3週間近く失敗し続け、ウォルター牧師の言う「全滅」の危機に瀕していた。一縷の望みをかけたのは、ホーン岬を素早く周り、最初に目に入るはずの島に向かうことだった。チリの西海岸から約670キロほどの太平洋の無人の島々、ファン・フェルナンデス諸島である。「我々が海の藻くずにならずにすむには、そこに到達するしかない」とウォルター牧師は記している。
海の物語をこよなく愛するジョン・バイロンにとって、これらの島はただの寄航地にとどまらず、伝説に彩られた場所だった。1709年、英国人船長のウッズ・ロジャーズが、乗組員が壊血病に冒されていた時に立ち寄った場所である。ロジャーズは日誌に詳細を書き留めている。その日誌は、後に『世界巡航記』として出版され、バイロンの愛読書となる。
日誌によると、ある島でロジャーズは、アレクサンダー・セルカークというスコットランド出身の船乗りに出会い驚いている。セルカークは、船に置き去りにされ、4年以上もそこで耐乏生活を送っていた。並外れた創意工夫によって何とか生き延びてきた。枝をこすり合わせて火を起こすことを学び、動物を狩り、野生の蕪を採った。「服が擦り切れると、彼は自分で山羊の皮を使い帽子兼コートを作ったが、縫い合わせるのに……針ではなく釘を使うしかなかった」とロジャーズは説明している。
さらに、セルカークは所持していた聖書を拾い読みしていたので、「この孤島にいるうちに、以前よりもましなキリスト教徒になったと語った」という。ロジャーズはセルカークを「この島の絶対君主」と呼んだ。物語というのは人から人へと伝えられ、やがて海のように広い地域に浸透して神話になるものだ。やはりセルカークの物語も、作家のダニエル・デフォーの手によりロビンソン・クルーソーの物語としてまとめられ、1719年に世に出ている。この物語は、英国人の創意工夫の才ばかりでなく、英国が遠い異国を植民地支配することへの賛歌でもあった。
バイロンと仲間たちは自然の力に打ちのめされながらも、まだ見ぬファン・フェルナンデス諸島の島影に焦がれたことだろう。壊血病が見せる幻覚のせいで、期待はいっそう募ったに違いない。ミリチャンプの言うその「待望の島」に、みなが思い描いたのはエメラルド色の草原が広がり、清らかなせせらぎが流れている様だった。教師のトマスは日誌で、その島をジョン・ミルトンの『失楽園』の楽園になぞらえている。
悪夢から逃れるため、艦隊が向かったのは…4月のある晩、バイロンたち艦隊の一行は、ドレーク海峡をかなり進みホーン岬のある島〔オルノス島〕の西側まで到達したので、いよいよ北上できると判断する。このまま北上すれば、無事にファン・フェルナンデス諸島に到達するはずだ。
ところが、風上に上タッキング手回しさせてから間もなく、アナ号の見張りが月明かりに照らされた奇妙な構造物に気づく。岩だ。アナ号の乗組員は警告のために大砲を2発発射した。おかげで、すぐさま他の船の見張りも風下側の岸(リーショア)にそびえ立ち、月明かりに輝いている岩を視認した。ある艦長は、「とてつもない高さにそびえる黒い二基の塔のよう」だったと日誌に記している。
またしても、航海長たちの推測航法の計算が間違っていたのだ。今回は、航路が数百マイル〔数百キロ〕もずれていた。艦隊が今進んでいるのは大陸南端の西側ではなく、風と海流によって東に流され、大陸に押し付けられていたのだ。ぎりぎりのところで方向転換し、難破はまぬかれた。だが、ドレーク海峡に入ってから1カ月経つというのに、いまだに「盲いしホーンの憎悪」から逃れることができずにいた。ミリチャンプは日誌に、「乗組員たちは今やほぼ全員が、陸に上がることを絶望視し、自ら進んで命にかかわる病に身を委ねている」。彼らは「先に死ぬことのできた幸運な者たち」をうらやんだ、と記している。
バイロンも気力を奪われていた。大陸から離れようと艦隊が向かったのは、ロビンソン・クルーソーの島とは反対方向の南だった。しかも、ようやく逃れた嵐の渦へとふたたび突っ込もうとしていた。
〈首の回りに奇妙なアザのある死体が…「仲間が絞め殺したのでは」海で遭難した145人の男たちによる“極限状態”の無人島生活〉へ続く
(デイヴィッド・グラン,倉田 真木/Webオリジナル(外部転載))
(出典 news.nicovideo.jp)
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