令和の社会・ニュース通信所

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    カテゴリ:国内 > 歴史



    この記事を読んで、お金の価値が信用に基づいていることを改めて感じました。貨幣制度が崩壊すると、紙切れの価値もゼロになるなんて考えると、国の経済や信用の大切さがよく分かりますね。

    「富国強兵」をスローガンに、近代化を目指した明治の日本。江戸時代までの“封建的な社会”ががらりと変わった時代ですが、この大きな変革のひとつが「貨幣・金融制度」です。原価25円の“紙切れ”である「1万円札」が、なぜ1万円の価値をもつようになったのでしょうか。有名予備校講師で『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者の山中裕典氏が解説します。

    産業の育成…「財閥」の誕生

    政府の産業政策には、どのようなものがあるのか?

    政府は、欧米と並ぶ国力を持つ富国強兵スローガンに、欧米の資本主義システムを採用して殖産(しょくさん)興業を進め、「上からの近代化」を図りました。

    政府主導による経済近代化の柱となったのは、御雇い外国人外国人教師)の招聘(しょうへい)による欧米技術の習得と、中央官庁の設置(官営事業の経営を担当する工部省、地方行政や警察に加えて勧業政策も担当する内務省)でした。内務省は、明治六年の政変(1873)で征韓派が辞職した直後、内治優先派だった大久保利通が設置したもので、殖産興業政策を強力に推進しました。

    政府は、旧幕府・諸藩の工場・鉱山を接収して官営としました。東京・大阪の砲兵工廠や旧幕府の横須賀造船所が軍事産業を支え、長崎造船所(のち三菱へ払下げ)に加え、エネルギー資源の中核となる石炭業(福岡県三池炭鉱[のち三井へ払下げ]・長崎県高島炭鉱[のち三菱へ払下げ])も経営しました。

    また、政府は官営模範工場を設立し、機械制生産の様式を民間に普及させていきました。特に、幕末以来の輸出の主力である生糸を重視し、製糸業を輸出指向型産業として育成しました。その象徴が、フランスの技術を導入した群馬県富岡製糸場で、ここで技術を習得した「富岡工女」が各地に技術を伝えました。さらに、政府は国内技術を奨励し、内国勧業博覧会を開催しました。

    「政商」を用いた明示新政府の意図とは

    「政商」には特定の政治家と癒着する民間業者という悪いイメージがあり、規制緩和による外国資本の誘致が良いことのように言われたりします。しかし、明治初期の日本は外国資本を排除して列強の進出を防ぎ、経済面での対外的自立を図ろうとしました

    特に、水上交通を担う海運業は重要視され、政府は土佐出身の岩崎弥太郎が経営する三菱に手厚い保護を加える一方、それまで沿岸航路を独占していた外国の汽船会社を排除しました。こうした特権的な政商には江戸時代以来の三井などもあり、のちに財閥へと発展しました。

    陸上交通では、官営鉄道が首都新橋と開港場横浜との間に開通し(1872)、これ以降各地に鉄道網が拡大することで、ヒトやモノの移動スピードが上昇していきました。通信では、前島密の建議によって江戸時代の飛脚に代わる官営郵便制度が発足し、電信線が設置されて内外の情報伝達が迅速化しました。

    貨幣・金融制度

    近代的な貨幣制度は、どのように始まったのか?

    政府は、本位貨幣制金本位制[金が正貨]・銀本位制[銀が正貨])を欧米にならって導入しようとしました。戊辰戦争の戦費のために政府が発行した太政官札などは不換紙幣で、江戸時代以来の金貨・銀貨・銭貨や藩札も流通したため、新貨条例1871)で統一的な貨幣制度を整えました。

    円・銭・厘十進法)で単位を統一し、金本位制を採用したものの、貿易では銀も用いられ、兌換制度は確立しませんでした。

    そこで、各地の民間資本に換紙幣を発行させるため、政府は渋沢栄一の推進のもとで国立銀行条例1872)を制定しました。これは、アメリカナショナル=バンク制度にならい(“National”は「国法に基づく」という意味であり、「国が経営する」という意味ではない)、民間銀行である国立銀行に換銀行券国立銀行券)を発行させ、保有する正貨との兌換を義務づけました。

    しかし、民間での正貨の確保は難しく、渋沢栄一が頭取となった第一国立銀行など4行しか設立されませんでした。兌換制度の確立は困難だったのです。

    国立銀行による兌換制度の試みは、どのような結果を生んだのか?

    そこで、政府は国立銀行条例を改正1876)して、国立銀行の正貨換義務を廃止しました。正貨を確保しなくても良いので、国立銀行設立が容易になりました。また、この年は秩禄処分が断行され、金禄公債証書を得た華族・士族が銀行設立に参入しました。

    その結果、国立銀行が各地で増えて第百五十三国立銀行まで設立されたものの、国立銀行が不換紙幣を大量に発行することで紙幣価値が下がり、物価が上がるインフレーションとなりました。これは、政府の歳出増につながり、財政難をもたらします。結局、国立銀行を用いた兌換制度の確立は失敗し、兌換制度は1881年に始まった松方財政で確立しました

    兌換(だかん)紙幣と不換(ふかん)紙幣

    私が予備校の授業で貨幣制度を説明するとき、1万円札を生徒に見せて(眠そうな生徒も瞬時に目が覚めて全員が私の手を凝視します)、「原価はいくらでしょう?」「○円?」「正解は約25円!では、なぜこれを1万円だと思っているのかな?」「そう決まっているから…」「では、誰がそう決めたのかな?」などのやりとりをすることがあります。

    極論を言えば、皆が「1万円の価値がある紙切れ」だと信用すれば、紙幣として機能します(実際は、紙幣価値の安定、法による強制通用、発行者の信頼性が紙幣の信用を生み出す)。

    古今東西、貨幣は皆が価値を信用する物質で製造する場合が多く、その典型が金・銀です。しかし、近代の欧米では、重くて欠けやすく持ち運びに不便な金・銀よりも紙幣が望まれ、兌換制度が成立しました。これは、皆が価値を信用する金・銀正貨(通貨価値の基準)とし、十分な正貨準備をもとに紙幣と同じ額の正貨(金・銀)と交換して、紙幣価値を保証するものです。

    一方、正貨準備が不十分だと、紙幣は同じ額の金・銀と交換できません。それが不換紙幣で、紙幣価値が下がる可能性があります。図表3は概念の図式化です。実際は、グラフにあるぐらい多くの正貨を準備しなくても、紙幣価値と正貨価値が同じになれば兌換制度が可能です。

    山中 裕典

    河合塾東進ハイスクール東進衛星予備校

    講師

    (※写真はイメージです/PIXTA)


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    その背景や具体的な関係性については、今後の研究によってより明らかにされることを期待したいと思います。

    1 樽悶 ★ :2023/09/28(木) 23:18:08.46 ID:CcPuE1PA9
    邪馬台国と大和王権はよく聞く言葉であり、古代日本を統治していたということは周知のとおりだが、改めてこのふたつの国、王権の関連性は、と聞かれると「?」マークがでざるをえない。このふたつのものに果たして関連性はあったのだろうか?

    ■邪馬台国と大和王権の関連性はあったのだろうか?

     古代に日本列島を統治した「倭国」のことを、国内では「やまとのくに」と呼んだ。

     漢字表記は、「大和」「倭」「日本」などいくつかあったが、これを当時「やまと」と読んだことは、たとえば『万葉集』の「山跡(やまと)乃国」とか「山常(やまと)」などといった表記や、『日本書紀』神代上・第四段に「大日本〔日本、此 耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に效へ〕」とあることによって知られている。「やまと」は元は大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市から桜井市)の地名であって、原義はここにそびえる三輪山(みわやま)の麓という意味であろう。もともとこのような小さな地名であったものが、のちに大和国(現在の奈良県)の国名となり、さらには国家の名前にまでなったのである。これはひとえにこの地域の政治勢力が、奈良盆地全体を治めるまでに成長し、さらにはこの列島の大半を統治し、都を定めるまでに発展したからに他ならない。

    「倭国」や「日本国」を普通には「やまと」と読めないにもかかわらず、そう読むのはこうした事情があるからである。 『魏志倭人伝』にみえる「邪馬台国」を、「ヤマト」、「ヤマタイ」国と読むこともほぼ異論はないだろう。3世紀初頭から半ばにかけて卑弥呼が中心地としていたのは、この邪馬台国であった。筑前国や筑後国、またそれ以外にも「ヤマト」という地名は存在しており、邪馬台国がこれらの地名に由来する可能性がないわけではない。

     しかし合理的に考えて、この邪馬台国と『記・紀』万葉にみえる「山跡乃国」「山常」が偶然の一致である可能性は、きわめて低いのではないだろうか。

     もちろんこの一事のみで邪馬台国=大和国説を唱えるのは早計だが、このことを軽視したり無視したりはできない。

     そして卑弥呼の時代にこの「ヤマト」一帯に広がっていた一大集落が纏向(まきむく)遺跡である。ここには最古の巨大前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳がある。その築造は3世紀半ば過ぎと推定され、卑弥呼の墓である可能性は十分にある。

     この周辺一帯には、箸墓を含む「オオヤマト古墳群」(あるいは「大和・柳本古墳群」)がある。箸墓古墳の後にも、西殿塚古墳、行燈山(崇神陵)古墳、渋谷向山(景行陵)古墳と当時最大級の巨大前方後円墳が造られていた。

     このうち西殿塚古墳を卑弥呼の後継者・壱与(いよ)の墓とする説がある。ただ行燈山古墳の被葬者を崇神天皇、渋谷向山古墳の被葬者を景行天皇と確定するには慎重な考察が求められる。(以下ソース)

    9/25(月) 17:40配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/4fcac89b433d4a7d61439cd653efa990692cd4b1

    (出典 newsatcl-pctr.c.yimg.jp)

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    「関ヶ原」が世界三大古戦場にランクインしているのは驚きです。

    関ヶ原は、ワーテルローナポレオン戦争)、ゲティスバーグ(アメリカ南北戦争)と並んで「世界三大古戦場」に選ばれている。なぜなのか。直木賞作家の今村翔吾さんは「あれだけ狭い場所に約17万の軍勢が集まったのは世界史的に稀有な出来事であり、海外では軍関係者を中心に関ヶ原の戦いを学んでいる人が少なくない」という――。

    ※本稿は、今村翔吾『教養としての歴史小説』(ダイヤモンド社)の一部を再編集したものです。

    ■ロシアのウクライナ侵攻の根はチンギス・ハンが作った

    2022年2月、ロシアウクライナに軍事侵攻して、世界に大きな衝撃を与えました。日本でもこの戦争への関心は高く、報道に心を痛めている人はたくさんいます。ニュースでは街頭インタビューなどで、「早く戦争が終わってほしい」と願う人の姿がたびたび報じられています。

    では、同じ街頭インタビューで、「なぜロシアはウクライナに軍事侵攻したのですか?」と聞いたとしたらどうなるでしょうか。70〜80点レベルの回答ができる人は、非常に限られるのではないかと思います。

    日本人は知的レベルが高いとされてきたはずなのに、情報があふれすぎているせいなのか、物事を深く知ろうとする意欲が薄れてきているように感じます。大切なのは「どうしてこうなっているのか」に関心を持って調べること。まずは知識を持つことが、深い議論につながります。

    私の解釈では、ウクライナ戦争に関わる発端の重要人物の1人は、チンギス・ハンです。「究極のところ、チンギス・ハンのせいで今、戦争していると思ってくれたらいいわ」というと、若い世代の人たちは、けっこう興味を持ってくれます。

    ■モンゴル帝国に叩きのめされた西洋の騎士

    チンギス・ハンは13世紀に騎馬民族同士の争いに終止符を打ち、民族を統一してモンゴル帝国を建設しました。モンゴル帝国は中国全土を支配しただけでなく、さらに遠方へと遠征を行い、北はモスクワ、南はベトナム、そして西はポーランドまで版図(はんと)を拡大。一時はドイツフランスに攻め込み、これを領土にしかねない勢いで世界地図を塗り替えていきます。

    このときにロシアウクライナモンゴル帝国の支配下に置かれていたのです。資料を見ると、西洋の騎士たちが団結してモンゴル帝国に立ち向かうものの、完膚なきまでに叩きのめされていることがわかります

    ■240年間もの従属が生んだ歪み

    一方で、モンゴル帝国の後裔(こうえい)の一国である元は、東側にも侵略を試み、海を渡って日本に上陸します。これが「元寇」の始まりです。日本は文永の役1274年)と弘安の役1281年)と二度にわたって元の侵略を受けますが、いずれも退けることに成功しています。元寇について教科書で学んで知っている人は多いのですが、西側はポーランドまで侵攻していたと知ると、モンゴル帝国の巨大さがイメージできます。

    また、ヨーロッパモンゴル帝国に蹴散らされていたのと比べて、日本がモンゴル帝国に勝利していたというのも見逃せないポイントです。「神風」といわれる大暴風が吹き荒れたなどの理由もありますが、結果的に見ると、当時の日本の軍事力が世界的に見て高い水準にあったことがわかります

    ロシアモンゴル帝国に征服されてから独立を回復するまでの、約240年にわたる時代を「タタールの軛(くびき)」といいます。これはモンゴル帝国に税金や貢租(こうそ)を納めさえすれば、ロシア人に一定の自立性を認める間接支配のことです。

    乱暴にまとめていえば、もともと別の国、別の文化圏であり、別の宗教であった場所を、モンゴル帝国が一緒くたに統一してしまったことが、ある種の歪みを生んだのではないかと思います。

    ■ロシアの行動の背景にあるトラウマ

    私たち日本人は、欧米人から中国・韓国人とほぼ一緒のように見られがちですが、実際には日本人中国人韓国人も、それぞれ別の文化を持つ独立した存在であると自覚しています。同じように、私たちは何となく「ヨーロッパの人たち」というイメージで一括りにしがちですが、ヨーロッパの人たちもそれぞれのアイデンティティを持っているわけです。

    そういったアイデンティティはたとえ他国に征服されたとしても、消えずに残っていて、どこかのタイミングで沸々と発芽するのかもしれません。

    ロシアにとって「タタールの軛」は大きなトラウマであり、これが周囲からの包囲を極端に恐れる臆病さや、攻撃的な姿勢を生み出しているともいえます。モンゴル帝国による支配の歴史を学ぶには『蒼き狼』(井上靖著)や『チンギス紀』(北方謙三著)のシリーズがおすすめです。特に『チンギス紀』ほど、チンギス・ハンという人物を掘り下げた作品を私は知りません。

    こうした作品を読んで知識を身につけておけば、さまざまな角度から議論ができます。戦争の問題については、ただ非難するだけでなく、歴史を学んで語ることも重要でしょう。

    ■グローバル時代だからこそ自国の歴史を学ぼう

    「もはや海外に出て働く時代だから、日本の歴史を学んでも仕方がない」。グローバル化が進んだ現在、日本国内でもそう考える人が増えているようです。

    しかし、海外の人と実際に交流してみると、みんな自分たちのルーツを大切にしていることに気づきます。自国の歴史を大切にしているからこそ、独自のアイデンティティを活かしながら世界に価値を発揮していけるわけです。

    私も海外の人と話をするときに、自然とお互いの国の歴史について意見交換をすることがあります。以前、アメリカの留学生から「なぜ日本に武士はいなくなったの? てっきり今もいると思っていたんだけど……」と聞かれ、説明に往生した経験があります。

    「武士は今から150年近く前にいなくなったんだよ」
    「じゃあ、いったい誰が武士を倒したの?」
    「明治という政府を作った人たちだよ」
    「その明治政府の人たちは、どこからやってきたの?」
    「彼らも武士だったんだよ」
    えっ? 武士が武士を倒したってこと? 武士を倒した武士は、いつから武士をやめたの?」

    ■自国の歴史を知らなすぎる日本人

    そもそも明治維新は、世界でもかなり稀有な革命です。海外の革命によくあるような時の権力者の命を奪うという形ではなく、強烈な自浄作用というか、自分で自分を食べて生まれ変わるような形で政治体制の変革がなされたわけです。海外の人にはイメージがつきにくく、わかりやすく説明するのは至難の業です。

    そう考えると、最低限の知識を学んでおかないと、海外で日本について教えることもできず、「自分の国のことも知らないの?」と軽蔑される可能性が高いです。

    日本ではよく、外国の人に対して「歴史認識の違い」という言葉を使うことがあります。もちろん歴史を十分に知った上で指摘している人もいるのでしょうが、他国と比較して日本人が歴史に詳しいかというと、そんなことはありません。

    むしろ日本人が自国の歴史に疎すぎるせいで、海外の人のほうが日本の歴史を知っているという逆転現象も起きているくらいです。

    世界ではいろいろなことが「3大○○」という括りで紹介されていますが、「世界三大古戦場」には、関ヶ原の戦いの「関ヶ原」がランクインしています。あれだけ狭い場所に約17万の軍勢が集まったのは世界史的に稀有な出来事であり、海外では軍関係者を中心に関ヶ原の戦いを学んでいる人が少なくないのです。

    関ヶ原の戦いは特異な戦いだと思うけれど、君はどう考えているの?」。海外の人からこんな質問をされたとしたら、あなたはどう答えるでしょうか。「答えられないのは日本人として恥ずかしい」とまでは言いませんが、歴史小説をある程度読んでいれば、それなりに自説を主張できるはずです。

    ■最低でも読んでおきたい歴史小説10冊

    海外に出る人こそ、日本の歴史を学んでおくべきだと思います。そこで外国の人と歴史の会話になったときに恥をかかないために、最低でも読んでおきたい歴史小説を10冊挙げてみました。

    1『国盗り物語』(司馬遼太郎著) 斎藤道三織田信長を扱った作品です。アメリカカナダなどでは織田信長の人気が高いのですが、これを読んでおけば信長について自信を持って語ることができるはずです。

    2『徳川家康』(山岡荘八著) アジア圏、特に中国や韓国では家康への関心が高いので、この作品を押さえておけば間違いないでしょう。

    3『翔ぶが如く』(司馬遼太郎著) 視点は薩摩に傾いていますが、幕末から明治期を通史的に知る上でぜひおすすめしたい作品です。

    4『沈黙』(遠藤周作著) 海外にもよく知られている日本の歴史小説の筆頭です。日本人キリスト教観をよく伝えており、読んでおいて損はありません。

    5『炎環』(永井路子著) 日本初の女性リーダーともいえる北条政子の生涯を描いています。

    6『平将門』(海音寺潮五郎著) 平安時代の中央主権を目指す朝廷と、日本の地方の実態を描いているという意味で、当時の日本という国をよく知ることができると思います。

    7『白村江』(荒山徹著) 「白村江の戦い」について、名前だけは聞いたことがあっても、詳しく知らない人が意外と多いはずです。この作品から古代の日本と中国の関わりが見えてきます。

    8『聖徳太子』(黒岩重吾著) 日本の国の成り立ちを知ることができる入門書ともよぶべき物語です。政治家として成長していく聖徳太子の姿を少年期から描いており、感情移入することができます。

    9『大義の末』(城山三郎著) 主人公第二次大戦期の軍国青年。近現代史に触れるならこの作品です。城山三郎は、この作品を通じて天皇制についても考察しています。

    10『樅ノ木は残った』(山本周五郎著) 江戸前期の仙台藩伊達家で起こったお家騒動を題材にした物語です。江戸時代の「藩」というものがどういうものであったかをつかむにはよい作品です。

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    今村 翔吾(いまむら・しょうご)
    小説家
    1984年京都府加茂町(現・木津川市)生まれ。関西大学文学部卒。小学5年生のときに読んだ池波正太郎著『真田太平記』をきっかけに歴史小説に没頭。32歳のとき『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』でデビュー2022年塞王の楯』で第166回直木三十五賞受賞。著書に『イクサガミ 天』『イクサガミ 地』(いずれも講談社文庫)、『八本目の槍』(新潮文庫)、『教養としての歴史小説』(ダイヤモンド社)など。

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    「関ヶ原合戦屏風」、江戸時代後期(画像=岐阜市歴史博物館蔵収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    豊臣秀頼の出生についてはいまだ謎があるようだ。

    16人以上の側室がいて女好きを自認していた豊臣秀吉だが、なかなか子供はできなかった。作家、歴史研究家の濱田浩一郎さんは「側室の淀殿が産んだ秀頼は、秀吉の実子ということになっているが、秀吉が淀殿の懐妊を知ったのは妊娠7カ月の段階と遅く、秀吉は正室に向けて『私たちは子供を欲しくないと思ってきた』という手紙を書いている」という――。

    ■秀吉存命時から噂されてきた「秀頼は秀吉の子ではない」説

    大坂夏の陣(1615年)で、徳川家康に滅ぼされた豊臣秀頼。秀頼は、豊臣秀吉の子である。教科書をはじめとする多くの歴史書には、そのように書かれていると思います。しかし、秀頼は、秀吉と淀殿(秀吉の側室。北近江の武将・浅井長政織田信長の妹・お市との間に生まれる)との間に生まれた子供ではないという「異説」もあるのです。しかも、その異説というのは、現代の一部の歴史家が書物に記しているというだけではなく、江戸時代の書物にも記されていたのでした。

    例えば『明良洪範』という書物がそうです。同書は、16世紀後半から18世紀初頭までの徳川氏や諸大名、その他の武士の言行・事跡などを収録した逸話集であります江戸時代中期頃に編纂されたと考えられ、著者は江戸千駄ヶ谷・聖輪寺の住持である増誉。同書の成立年代や性質からして、信用できる史料というわけではないのですが、そこに秀頼の出生に関して、次のような話が記されているのです。

    豊臣秀頼は、秀吉公の実子にあらずと密かに言っている者もいる。その頃、卜占(占い)に巧みな法師がいたのだが、その者が言い始めたとのこと。淀殿は、大野修理と密通し、捨君と秀頼君を産んだのだ。秀吉公の死後は、淀殿はいよいよ情欲に耽った。大野は、邪智で淫乱で、なおかつ容貌が美しかった。名古屋山三郎は美男であったので、淀殿は思いを寄せ、不義があった。大坂(豊臣家)が滅びたのは、ひとえに淀殿の不正より起こった」と。

    ■淀殿が側近の大野治長と密通していたという逸話集も

    この一文に登場する「大野修理」というのは、大野治長(生年不詳〜1615)のこと。淀殿の乳母で侍女ともなった大蔵卿局の子です。関ヶ原の戦いでは、東軍に属するも、戦後は淀殿の信任を得て、頭角を現し、大坂方の中心的な人物となりました。大坂夏の陣においては、秀頼や淀殿に殉じて、自害しています。ちなみに、彼には大野治房という弟がいて、治房は徳川に対する主戦論者として有名です(大坂の陣後は、消息不明となる)。

    文中に出てくる「捨君」というのは、秀吉と淀殿の間に最初に産まれたとされる男子・鶴松のこと。『明良洪範』の収録文によると、鶴松(1589〜1591)も、秀頼(1593〜1615)も共に、淀殿と大野治長の子だというのです。

    ■秀吉嫌いの宣教師フロイスは「秀頼誕生に世間は笑った」

    江戸時代中期成立の書物だけではなく、淀殿らと同時代人も、淀殿と大野治長の「密通」について書いています。毛利氏に仕えた内藤隆春の書状(1598年10月1日付)があって、そこに、お拾(秀頼の幼名)は淀殿が密通してできたのではないかとの風評が書き留められているのです。ただし、隆春は、鶴松や秀頼が治長の子とまでは書いてはおりません。

    秀吉の「子」に関しては、外国人も書物に記しています。戦国時代に来日し、信長や秀吉とも対面した宣教師ルイス・フロイス

    彼の著書『日本史』には、秀吉と鶴松について「かれ(筆者註=秀吉)には唯一の息子(筆者註=鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子どもを作る体質を欠いているから、その息子は彼の子どもではない、と密かに信じていた」「関白には信長の妹の娘、すなわち姪にあたる側室の一人との間に男子(鶴松)が産まれたということである。日本の多くの者がこの出来事を笑うべきこととし、関白にせよ、その兄弟、はたまた政庁にいるその二人の甥にせよ、かつての男女の子宝に恵まれたことがなかったので、子どもが(関白の)子であると信じる者はいなかった」と書かれているのです。

    ■秀吉には子種がないと言われる中、淀殿だけが2回妊娠

    秀吉と淀殿の間に生まれたはずの鶴松。しかし、秀吉には子種がないとして、多くの者が、秀吉の実子ではないと内心思っていたというのです。鶴松が生まれた天正17年(1589)当時は、秀吉の弟・秀長にはまだ子は生まれていなかったと推測されます(後に女子2人を授かる)。秀吉の甥の秀次には当時、女子はいましたので、フロイスの記述は正確ではありませんが、1589年段階の文章としては、大外れというわけではありません。

    しかし、秀長や秀次は、子供を作っていますので「その兄弟、はたまた政庁にいるその二人の甥にせよ、かつての男女の子宝に恵まれたことがなかったので、子どもが(関白の)子であると信じる者はいなかった」という部分は、間違いとしなければなりません。

    以上、資料から記したことは、世間の噂程度のものであり、そこからもってして、鶴松や秀頼が秀吉の「実子ではない」と結論付けることは慎重でなければいけません。秀吉は「女狂いは、自分の真似はするな」と甥・秀次に書き送るほど、女好きでした。側室も16人はいたとされます(もちろん、関係を持った女子の数はもっと多かったはずです)。にもかかわらず、正室・寧々(北政所)との間には子はできませんでしたし、多くの側室のなかで、秀吉の子を産んだとされるのは、淀殿だけです。

    ■秀頼の誕生日から逆算すると、受胎時に秀吉はいなかった?

    鶴松は、秀吉53歳の時の子、秀頼は57歳の時の子でした。多くの女性に囲まれていて、それまで全く子ができなかったのが、50代になって急に子宝に恵まれる。もちろん、世の中さまざまなことがありますので、そういったことを一概に否定はできませんが、不思議といえば不思議です(鶴松以前に、秀吉には男子・秀勝が生まれていたが夭折していたとの説もある。一方で秀勝は実子ではないとの説もあり)。

    また、淀殿が秀頼を受胎した際に、秀吉と淀殿は一つどころにいなかったとする見解もあります。歴史学者・服部英雄(九州大学名誉教授)によると、秀頼の受胎想定日は「文禄元年(1592)11月4日頃」(秀頼は1593年8月3日に誕生)。ところが、文禄元年10月1日には、秀吉は大坂から九州へ向けて出発。10月30日に博多到着、11月5日には、肥前(佐賀県)名護屋にいたのです。淀殿が秀吉と共に九州に下向したのなら話は別だが、一般的にはこの時、淀殿は大坂城にいたとされます(淀殿は九州に行ったとする説もあり)。よって、淀殿は秀吉の子(秀頼)を妊娠できるはずはないというのです。

    ■秀吉は正室への手紙の中で本音を漏らしたのか

    文禄2年(1593)5月には、秀吉は淀殿の妊娠を知るのですが、その時、彼は正室・北政所に宛てて、次のような書状(同年5月22日付)を書いています。

    「二の丸殿(淀殿)が懐妊したとのこと、めでたいことです。我々(秀吉と寧々)は、子供は欲しくないと思ってきた。太閤(秀吉)の子は、鶴松だが、既にこの世にはいない。(今度生まれてくる子は)二の丸殿一人の子で良いのではないか」

    亡き鶴松の生母は、淀殿であるが、秀吉が「両人の御かか様(お母様)」というように、鶴松には「二人の母」がいました。一人は当然、淀殿。もう1人は「政かかさま」(北政所)、秀吉の正室でした。鶴松は生まれてすぐ生母・淀殿の手から引き離されて、北政所のもとで養育されたと言われます。前述の書状に話を戻すと、今度生まれて来る子は、そのようなことをせず、淀殿1人の子で良いのではないかと、秀吉は正室に言っているのです。

    ■秀頼は実子ではないという説も否定しきれない

    秀吉が淀殿の妊娠を知ったのは、彼女が妊娠7カ月の頃。妊娠しているかどうかは、それよりも早くに分かるはずであり、「吉報」ならば、もっと早く知らされても良いはず。それが、なぜこのように遅くなったのかは、謎です。また、淀殿の妊娠を知った時の秀吉の書状の文面がどこか冷めていると感じるのは、筆者だけでしょうか。「めでたい」とは書いていますが「太閤子は、鶴松である」との文言も見え、今度生まれてくる子は「自分の子ではない」と言っているようにも聞こえます。

    拾(秀頼)が生まれたと聞いた時も、秀吉はすぐに大坂には戻っていません(母・大政所の危篤の報を得た時は、秀吉は大至急戻っています)。鶴松や秀頼が、秀吉の「実子」であったのか否か。そのことを明確にするのはなかなか困難とは言えます。が、実子でない可能性も、以上、見てきたような理由から、全く根拠のないものではないと思うのです。

    ■秀吉は秀頼を溺愛したが息子が5歳のときに死去した

    とはいえ、幼い秀頼を秀吉が溺愛したのもまた事実。拾(秀頼の幼名)宛の書状が残されており、その中には「やがてやがて参って、(拾の)口を吸いたい。しかし、私が留守の間に、他人に口を吸わせていることだろう」(1595年1月2日)との文言があります。拾に早く接吻したいとする秀吉の感情。また、秀吉は臨終間際(1598年8月5日。死去は8月18日)に「返す返す、秀頼のこと、頼み申し候」と徳川家康ら豊臣家重臣5人に手紙を残したことはよく知られています。

    「実子でないのに、ここまでの感情になることはあるだろうか」との疑問を持つ人もいるでしょう。しかし、秀頼の誕生前にも、秀吉は甥の秀次や豪姫(前田利家の四女)らを養子にしています(秀次は後に秀吉の怒りをかい切腹に追い込まれますが、豪姫は可愛がられたと言われます)。筆者は、たとえ実子でなくとも、秀吉がこのような想いになることは十分考えられると思うのです。実の子でなくとも、養子や里子でも、十分な愛情を持って、可愛がるという人は、今も昔もいるからです。

    参考文献
    ・桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川文庫、1965)
    ・服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012
    ・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)

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    濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
    作家
    1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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    歌川国政(五代)作「大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    桜井市の纒向学研究センターは、卑弥呼と邪馬台国に関する論争に新たな光を当てる素晴らしい研究を行っているようです。倭国の女王としての卑弥呼の地位や、纒向を都とする説が注目を集めています。今後の研究結果に期待しています!

    1 樽悶 ★ :2023/07/16(日) 19:33:23.80 ID:1WPlimQo9
    古代史最大の謎といわれる邪馬台国(やまたいこく)論争。畿内か九州か。魏志倭人伝に記された3世紀の女王・卑弥呼(ひみこ)の都はどこに-。江戸時代の朱子学者・新井白石(あらい・はくせき)以来300年以上にわたって議論されながら、決着していない。畿内説の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の研究・情報発信に取り組むのが同市纒向学研究センターだ。寺沢薫所長(72)は今春「卑弥呼とヤマト王権」(中公選書)を刊行。「邪馬台国論争に一つの区切りをつけたい」との思いだった。

    (省略)

    卑弥呼が統治した3世紀初め、突然出現したのが奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡だ。この地こそ倭国の大王都とみる。

    平成21年に発掘された大型宮殿群は、東西に軸をそろえ、飛鳥時代の宮殿を思わせる配置だった。東南アジア産とみられるバジルの花粉、中国の桃源郷を思わせる約2700個の桃の種も出土。シルクロードなどを通じて文物が持ち込まれた、まさに国際都市だった。

    「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、倭国の女王。卑弥呼のいた場所が邪馬台国。これを間違ってはいけない」と強調する。

    纒向遺跡に集中する最古級の前方後円墳にも、いち早く着目した。県立橿原考古学研究所に就職した昭和51年には纒向石塚古墳(墳丘長96メートル)を発掘。後円部と前方部の長さの比率が2対1で築かれ、「纒向型前方後円墳」を提唱した。

    この設計プランをもつ最古級の前方後円墳は、北部九州から千葉県まで100基に上るという。「ヤマト王権のシンボルの前方後円墳が纒向で誕生し、各地に広がった。地方との政治的関係がこの段階で形成された」とみる。

    (省略)

    卑弥呼は、北部九州や吉備などの勢力が話し合いで擁立し、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)に都を置いた-。邪馬台国畿内説ではあっても〝多数派〟と大きく異なる見解を示した。

    魏志倭人伝は卑弥呼誕生の経緯について「倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年。一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という」と記す。

    この記述をもとに畿内説の研究者の多くは、弥生時代に勢力を誇った北部九州と、大和を中心とする畿内勢力が戦い、勝利した畿内勢が卑弥呼を擁立したとの説をとる。あくまで戦争が前提だ。

    しかし、「遺跡の状況を見ると、西日本を巻き込んだ大規模な戦闘の痕跡はみられない」と反論。魏志倭人伝の「倭国乱」について、中国の別の歴史書に「歴年主(あるじ)無し」と記された点に着目する。「中国から見て、倭国の王が定まらず外交窓口がない状態を『乱』と表現した」とみる。

    遺跡の状況がそれを裏付けるという。「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本には独自の勢力が現れた。

    この頃、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の「一強体制」が崩壊。群雄割拠の状態になった。一方で、畿内の大和には際立った副葬品を持つ大型の墳丘墓もなく、とびぬけた権力を持つ王はいなかったという。

    新著を通じて「混沌(こんとん)とした状況を打破するため、北部九州や吉備などの勢力が話し合って卑弥呼を擁立。王都は、突出した既存勢力がいない纒向に置いた」と説く。

    (省略)

    「卑弥呼の時代は3世紀の昔の話と思ってほしくない」とも語る。卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは景初3(239)年。親魏倭王の称号と金印が授けられ、破格の待遇を受けた。

    この年は、朝鮮半島北部一帯の勢力「公孫(こうそん)氏」が魏に滅ぼされた翌年にあたる。「卑弥呼は激動する東アジア情勢をいち早くキャッチし、魏の脅威を感じて使者を送った」と解説。さらに当時の大陸は魏、呉(ご)、蜀(しょく)の三国志の時代。「魏にとって、ライバルの呉を牽制(けんせい)する意味で倭国との関係を必要とした」とみる。(以下ソース)

    7/9(日) 19:00配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/5d629aca32937916c57fe217ef6e77b9f5ccafaf

    ★1:2023/07/12(水) 23:23:47.30
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1689426746/

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