1万円の正体は“原価25円”の紙切れ?…現代の常識「貨幣・金融制度」の ... - Excite Bit コネタ 1万円の正体は“原価25円”の紙切れ?…現代の常識「貨幣・金融制度」の ... Excite Bit コネタ (出典:Excite Bit コネタ) |
「富国強兵」をスローガンに、近代化を目指した明治の日本。江戸時代までの“封建的な社会”ががらりと変わった時代ですが、この大きな変革のひとつが「貨幣・金融制度」です。原価25円の“紙切れ”である「1万円札」が、なぜ1万円の価値をもつようになったのでしょうか。有名予備校講師で『大人の教養 面白いほどわかる日本史』(KADOKAWA)著者の山中裕典氏が解説します。
産業の育成…「財閥」の誕生
政府の産業政策には、どのようなものがあるのか?
政府は、欧米と並ぶ国力を持つ富国強兵をスローガンに、欧米の資本主義システムを採用して殖産(しょくさん)興業を進め、「上からの近代化」を図りました。
政府主導による経済近代化の柱となったのは、御雇い外国人(外国人教師)の招聘(しょうへい)による欧米技術の習得と、中央官庁の設置(官営事業の経営を担当する工部省、地方行政や警察に加えて勧業政策も担当する内務省)でした。内務省は、明治六年の政変(1873)で征韓派が辞職した直後、内治優先派だった大久保利通が設置したもので、殖産興業政策を強力に推進しました。
政府は、旧幕府・諸藩の工場・鉱山を接収して官営としました。東京・大阪の砲兵工廠や旧幕府の横須賀造船所が軍事産業を支え、長崎造船所(のち三菱へ払下げ)に加え、エネルギー資源の中核となる石炭業(福岡県三池炭鉱[のち三井へ払下げ]・長崎県高島炭鉱[のち三菱へ払下げ])も経営しました。
また、政府は官営模範工場を設立し、機械制生産の様式を民間に普及させていきました。特に、幕末以来の輸出の主力である生糸を重視し、製糸業を輸出指向型産業として育成しました。その象徴が、フランスの技術を導入した群馬県富岡製糸場で、ここで技術を習得した「富岡工女」が各地に技術を伝えました。さらに、政府は国内技術を奨励し、内国勧業博覧会を開催しました。
「政商」を用いた明示新政府の意図とは
「政商」には特定の政治家と癒着する民間業者という悪いイメージがあり、規制緩和による外国資本の誘致が良いことのように言われたりします。しかし、明治初期の日本は外国資本を排除して列強の進出を防ぎ、経済面での対外的自立を図ろうとしました。
特に、水上交通を担う海運業は重要視され、政府は土佐出身の岩崎弥太郎が経営する三菱に手厚い保護を加える一方、それまで沿岸航路を独占していた外国の汽船会社を排除しました。こうした特権的な政商には江戸時代以来の三井などもあり、のちに財閥へと発展しました。
陸上交通では、官営鉄道が首都新橋と開港場横浜との間に開通し(1872)、これ以降各地に鉄道網が拡大することで、ヒトやモノの移動スピードが上昇していきました。通信では、前島密の建議によって江戸時代の飛脚に代わる官営郵便制度が発足し、電信線が設置されて内外の情報伝達が迅速化しました。
貨幣・金融制度
近代的な貨幣制度は、どのように始まったのか?
政府は、本位貨幣制(金本位制[金が正貨]・銀本位制[銀が正貨])を欧米にならって導入しようとしました。戊辰戦争の戦費のために政府が発行した太政官札などは不換紙幣で、江戸時代以来の金貨・銀貨・銭貨や藩札も流通したため、新貨条例(1871)で統一的な貨幣制度を整えました。
円・銭・厘(十進法)で単位を統一し、金本位制を採用したものの、貿易では銀も用いられ、兌換制度は確立しませんでした。
そこで、各地の民間資本に換紙幣を発行させるため、政府は渋沢栄一の推進のもとで国立銀行条例(1872)を制定しました。これは、アメリカのナショナル=バンク制度にならい(“National”は「国法に基づく」という意味であり、「国が経営する」という意味ではない)、民間銀行である国立銀行に換銀行券(国立銀行券)を発行させ、保有する正貨との兌換を義務づけました。
しかし、民間での正貨の確保は難しく、渋沢栄一が頭取となった第一国立銀行など4行しか設立されませんでした。兌換制度の確立は困難だったのです。
国立銀行による兌換制度の試みは、どのような結果を生んだのか?
そこで、政府は国立銀行条例を改正(1876)して、国立銀行の正貨換義務を廃止しました。正貨を確保しなくても良いので、国立銀行設立が容易になりました。また、この年は秩禄処分が断行され、金禄公債証書を得た華族・士族が銀行設立に参入しました。
その結果、国立銀行が各地で増えて第百五十三国立銀行まで設立されたものの、国立銀行が不換紙幣を大量に発行することで紙幣価値が下がり、物価が上がるインフレーションとなりました。これは、政府の歳出増につながり、財政難をもたらします。結局、国立銀行を用いた兌換制度の確立は失敗し、兌換制度は1881年に始まった松方財政で確立しました。
兌換(だかん)紙幣と不換(ふかん)紙幣
私が予備校の授業で貨幣制度を説明するとき、1万円札を生徒に見せて(眠そうな生徒も瞬時に目が覚めて全員が私の手を凝視します)、「原価はいくらでしょう?」「○円?」「正解は約25円!では、なぜこれを1万円だと思っているのかな?」「そう決まっているから…」「では、誰がそう決めたのかな?」などのやりとりをすることがあります。
極論を言えば、皆が「1万円の価値がある紙切れ」だと信用すれば、紙幣として機能します(実際は、紙幣価値の安定、法による強制通用、発行者の信頼性が紙幣の信用を生み出す)。
古今東西、貨幣は皆が価値を信用する物質で製造する場合が多く、その典型が金・銀です。しかし、近代の欧米では、重くて欠けやすく持ち運びに不便な金・銀よりも紙幣が望まれ、兌換制度が成立しました。これは、皆が価値を信用する金・銀を正貨(通貨価値の基準)とし、十分な正貨準備をもとに紙幣と同じ額の正貨(金・銀)と交換して、紙幣価値を保証するものです。
一方、正貨準備が不十分だと、紙幣は同じ額の金・銀と交換できません。それが不換紙幣で、紙幣価値が下がる可能性があります。図表3は概念の図式化です。実際は、グラフにあるぐらい多くの正貨を準備しなくても、紙幣価値と正貨価値が同じになれば兌換制度が可能です。
山中 裕典
講師
(出典 news.nicovideo.jp)
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