令和の社会・ニュース通信所

社会の出来事やニュースなどをブログに書いて発信していきます。あと、海外のニュースなども書いていきます。

    カテゴリ:国内 > 歴史


    戦国武将

    1 樽悶 ★ :2021/07/15(木) 19:45:06.46

    豊臣秀吉もフロイスからボロカスに批判された1人である。

    (出典 newsbyl-pctr.c.yimg.jp)


     戦国大名の人格を知るうえで、貴重な史料とされるのがポルトガルの宣教師フロイスの『日本史』である。フロイスは多くの大名と接して、その人格を評価した。しかし、その評価基準は明確に偏っており、キリスト教を信仰している(あるいは理解を示す)戦国大名を高く評価した。

     逆に、信仰するどころか弾圧するような戦国大名については、ボロカスのけちょんけちょんにその人格を批判した。そのような偏りがあるものの、非常にユニークでもあるので、私的に5人を選び出してみた。

    ■龍造寺隆信(1529~84)

     龍造寺隆信は肥前国の戦国大名として知られているが、キリスト教の布教には否定的だったという。それゆえ、フロイスの評価も芳しくなかった。「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」との言葉は、フロイスが隆信を蛇蝎のごとく嫌っていた証左となろう。

     隆信はあまりの巨漢だったため、フロイスは隆信が6人担ぎの駕籠に乗っていたと記す。宗龍寺(佐賀市)に残る「龍造寺隆信像」(享保4年:1719)は、隆信の肥満ぶりを後世に伝えている。フロイスの感想は、あながち否定できないのかもしれない。

    ■武田信玄(1521~73)

     武田信玄は甲斐の戦国大名として知られ、フロイスが言うには「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。「戦争においてはユグルタ(紀元前2世紀のヌミディア王で戦争が得意だった)に似たる人」と評価されていた。

     とはいいながらも、信玄は出家していたにもかかわらず、「毎日仏像を拝むが、信仰の願いは他国を支配する事」が日常だったという。また、信玄は家臣から畏怖されたものの、「わずかの失敗でも容赦なく*恐るべき人物」とフロイスは記す。いずれにしても、信玄はバリバリの仏教徒だったので、フロイスは嫌いだったようだ。

    ■織田信長(1534~82)

     フロイスの信長に対する評価は、愛憎半ばである。「きわめて稀に見る優秀な人物」、「大いなる賢明さをもって天下を統治した者」という言葉は、キリスト教の布教を許可した信長への最大の賛辞である。

     一方、信長は禅宗、法華宗を信仰しており、それがフロイスにとって我慢ならなかった。フロイスが信長が神になろうとしたこと、本能寺の変後に信長の死体が見つからなかったことを批判して書いているのは、天罰が当たったとでも言いたげである。

     信長の人物像についても「自分以外の全ての者を見下しており上から物を話す」、「家臣の進言などはほぼ聞き入れず、それでいて決断力に優れ、多くの者が絶対君主かのように彼を畏れ従っている」とフロイスは独裁者ぶりを強調する。

     信長はキリスト教への良き理解者だったが、十分な支援が得られなかったので、フロイスは許せなかったのだろう。

    ■明智光秀(?~1582)

     光秀と言えば、連歌や茶道に優れていたので、あたかも教養人のように思われている。しかし、フロイスの評価は、「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」、「裏切りや密会を好む」、「刑を科するに残酷」、「独裁的でもあった」などと評価が芳しくない。

     フロイスは本能寺の変直前において、信長が光秀を足蹴にしたとの記述を残す。しかし、その内容をつぶさに読んでみると、密室で行われたこと、秘密だったと書かれており、世上の噂を単に書き留めたにすぎない。

    ■豊臣秀吉(1537~98)

     秀吉は天正15年(1587)に伴天連追放令を発布し、宣教師を日本から追放しようとしたのだから、その評価が低いどころか、ボロカスなのはいたしかたない。

     秀吉については「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた」、「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」、「抜け目なき策略家であった」、「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」など、何一つ良いことが書かれていない。

     おまけに、秀吉はわざわざ遠方から招き寄せた兄弟姉妹を惨*た。この秀吉の兄弟姉妹とは、母・大政所が別の男と結ばれて誕生した子供だった。このことを記すのは『日本史』だけであるが、秀吉に対する執拗なまでに悪罵を放っているのは、悪意すら感じるほどだ。(続きはソース)

    7/12(月) 6:00
    https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210712-00245644/


    【【歴史】「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」 宣教師からボロカスに人格を批判された戦国大名5選】の続きを読む



    (出典 4.bp.blogspot.com)


    近畿説

    1 樽悶 ★ :2021/07/11(日) 15:21:26.16

    考古学ファンから邪馬台国所在地論争の盛り上げ役としても親しまれてきた石野さん=奈良県橿原市(柿平博文撮影)

    (出典 imgur.com)


    江戸時代からいまなお続く邪馬台国の所在地論争。歴史ロマンあふれる論争の盛り上げ役として知られるのが、畿内説を唱える考古学者の石野博信さん(87)。邪馬台国の最有力候補地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の最初の調査員だ。半世紀前の昭和46年、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)から出向していた奈良県庁で開発計画を知り、調査の必要を訴えて自ら発掘に乗り出した。若き日のすさまじい考古学熱が周囲を動かした。

    前方後円墳が日本で最初に出現した纒向遺跡は、倭国女王・卑弥呼(2世紀後半~248年頃)の活躍期と重なる。平成19年に3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡が見つかったことで、「大和説(畿内説)」が盛り上がった。

    古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され、国の始まりを知るのに極めて重要な存在だ。しかし半世紀前、重要性の認識は薄かったという。

    「当時奈良県庁の遺跡調査室に出向しており、纒向に炭鉱離職者のアパートを建てる国の計画が持ち上がったことを知りました。上の人に調査をしたいと相談すると、『やめとけ、調査はいらん』と」

    そこで、建設事業担当者を説得しにいった。

    ※省略

    しかし、調査では期待した集落の遺構は出ず、川の跡と土器片がでてくるだけ。このままで遺跡調査は中止されるかもしれない…。

    「研究所のそばに県の図書館の分館があって、万葉研究家の吉岡義信さんがおられ、柿本人麻呂の万葉歌がぴったり合う場所だと教えてもらった」

    《巻向の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む》

    歌に詠まれた巻向川のせせらぎはここだと発表したところ、「万葉の川発見」と報道され、次の年からも調査ができるようになった。「このときばかりは神の導きを感じました。吉岡さんは纒向遺跡の命の恩人。あそこに銅像を立てるべきですね」

    ■発掘現場で恩師と出会い

    半世紀前、粘り強い執念で、後に邪馬台国畿内説のシンボルともなった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の存在を世に知らしめた石野博信さん。考古学者としての原点は、出身地の宮城県渡波(わたのは)町(現在は宮城県石巻市に編入)で過ごした少年時代にさかのぼる。

    ※省略

    奈良に来て2年目。纒向遺跡という「運命」の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする2~3世紀(邪馬台国時代)の考古学研究がライフワークとなる。

    橿考研を定年退職し、初代館長に就任した奈良県香芝市二上山博物館では、全国から著名な考古学者や研究者を呼び、自らが司会を務める「邪馬台国シンポジウム」を開催し、所在地論争を盛り上げた。

    シンポは博物館とその友の会「ふたかみ史遊会」の共催。平成13年7月の「邪馬台国時代の近江と大和」というテーマを皮切りに、29年3月の「魏都・洛陽から『親魏倭王』印の旅―楽浪・帯方・三韓から邪馬台国へ」まで17回に及び、2日間で500人以上が参加する恒例の考古学イベントとして全国に知られた。

    邪馬台国の所在地論争では畿内(大和)説か九州説かをめぐっていまだに決着を見ないが、石野さんは「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」と話す。

    「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている。「でも決定打がない。わからないから面白いんだよね」

    寝食を忘れ、発掘に没頭したという若き日の面影がよぎった。(聞き手 川西健士郎)

     ◇

    【プロフィル】いしの・ひろのぶ 昭和8年、宮城県生まれ。関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長(平成4~23年度)、兵庫県立考古博物館初代館長(19~26年度)。『邪馬台国の考古学』『古代住居のはなし』『大和・纒向遺跡』など著書多数。奈良県桜井市纒向学研究センター顧問を務める。

    産経WEST 2021/7/9 16:00
    https://www.sankei.com/article/20210709-UHODKYA3RBPL5LUKMFBYBZMMYM/
    2021/07/10 19:18
    https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/n0d6db7cc0b70

    ★1:2021/07/10(土) 23:20:25.25
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1625959148/


    【【歴史】邪馬台国「大和説」、最有力候補地「纒向遺跡」調査の考古学者・石野博信さん「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」】の続きを読む


    大きいしくじりから学ぶところはあります。

    ■太平洋戦争を感情的に論じても意味がない

    昨年、筆者はプレジデントオンラインに、「『なぜ日本は真珠湾攻撃を避けられなかったのか』そこにある不都合な真実」という記事で、日本の太平洋戦争の原因を進化政治学(evolutionary political science)の視点から論じた。

    この論考では、多くの日本人が、太平洋戦争日中戦争、あるいはそれに至る戦前の日本外交が「道徳的に間違っていた」と教えられてきたことを指摘した。歴史を道徳で論じるのは思考停止に他ならない。そうではなく、われわれはなぜ、いかにして任意の歴史的事象が起きたのかを客観的、理性的、科学的に考察する必要がある。

    そこで本稿では「進化政治学」に依拠して、日中戦争がなぜエスカレーションしたのか、という歴史のパズルを解きほぐしてみたい。

    1937年7月7日、北平近郊の盧溝橋付近で日中両軍が衝突した(盧溝橋事件)。7月9日、近衛内閣は現地解決を促し、軍交渉を通じた停戦協定により事態は収束するかに思われたが、陸軍中央では対中制裁の機運が高まり、事態はエスカレーションの様相を呈し始める。

    7月11日、近衛内閣は不拡大方針を撤回して、「今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし」と、中国側の悪意を誇張する華北派兵声明を発表した。またその裏で近衛は首相官邸に政・財・言論界の代表を招待し、華北派兵への「国論の統一」を要請して、拡張的政策への支持を得ることに成功した。

    同時期の状況をより良く理解する上で、この時各界代表の会合に出席していた、石射猪太郎東亜局長の回想が有益であろう。

    官邸はお祭のように賑っていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ。事件があるごとに、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近(風見書記官長:筆者注)の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだといわれた。冗談じゃない、野獣に生肉を投じたのだ。

    上記の石射の回顧録を検討した上である歴史家の筒井清忠は、「風見は、近衛の先手論の先手を取ったのか、危険な戦争型ポピュリズムの道に日本を導いた」、「現地の和平の努力を『新聞記者出身で』『ジャーナリズムの利用が上手な』『風見書記官長』を軸とする内閣が潰して戦争を拡大させていった面は、やはり否定できない」と論じている。

    ■日中戦争が泥沼化したのは偶然ではない

    日中戦争がエスカレーションし始めたことは偶然の産物ではない。

    日中戦争がその典型的な事例であるように、国家の安危に関わる和戦の決定をめぐり、権謀術数に長けた指導者が操作するナショナリズムは戦争の重大な原因とされている。

    このことはジョン・J・ミアシャイマー(John J. Mearsheimer)、スティーヴン・ヴァン・エヴェラ(Stephen Van Evera)、ジャックスナイダーJack Snyder)、バリー・R・ポーゼン(Barry R. Posen)、ジェフリー・W・タリアフェロ(Jeffrey W. Taliaferro)をはじめとする有力なリアリストらに指摘されてきた。

    とりわけ、ナショナリズムと戦争の問題をめぐり、これまでリアリストは一つの普遍的な現象に言及してきた。それは、指導者がしばしば国民のナショナリズムを喚起して、拡張的政策への支持を調達しようとするというものである。

    理論的に言えば、この時に用いられるのがナショナリスト的神話づくり(nationalist mythmaking)という、自己賛美(self-glorifying)・自己欺瞞(self-whitewashing)・他者悪意(other-maligning)からなる、排外主義的なレトリック(政治的プロパガンダメディア操作など)である。

    近衛内閣のナショナリスト的神話づくりという意図的な政治的説得・動員戦略の結果、一時は軍交渉により停戦も見込まれた日中戦争は、再び熱を帯びてエスカレーションしていった。政府のナショナリスト的神話づくりは成功して、国民は近衛内閣に日中戦争拡大という拡張的政策の支持を与えたのである。

    ■愛国主義的な報道で国民は加熱

    7月28日日本軍が北平・天津で攻撃を開始すると、新聞は「皇軍・破竹の猛進撃」との号外を発した。近衛らの狙い通り、政府の拡張的政策を支持するような愛国主義的報道は過熱し、「検閲を経た報道によって、国民の戦意は急速に高まっていった」。

    8月15日、日中間の衝突が不可避となると近衛内閣は、「帝国としてもはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲(ようちょう)し、もって南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとるのやむなきにいたれり」と、「暴支膺懲」声明を発表する。

    ここでは日本の戦争目的が「日満支三国間の提携融和」にあることが明らかにされた。こうした自己賛美や他者悪意を特徴とするナショナリスト的神話づくりが続き、8月17日、ついに不拡大方針放棄の正式決定に至る。

    9月11日、近衛は日比谷公会堂で行われた国民精神総動員大演説会で、ナショナリスト的神話づくりの一つとして、満員の聴衆に向け国民一丸となり戦うことを求めた。

    東洋百年の大計の為にこれ(中国――筆者注)に一大鉄槌を加へまして、直ちに抗日勢力の依つて以つて立つ所の根源を破壊し、徹底的実物教育に依つてその戦意を喪失せしめ、然る後に於て支那の健全分子に活路を与へまして、これと手を握って俯仰天地に愧(は)じざる東洋平和の恒久的組織を確立するの必要に迫られて来たのであります

    ■排外的なナショナリズムを抑えられなかった日本政府

    12月13日午後、南京陥落を受け日本中は歓喜の渦に包まれた。

    12月22日、広田外相はディルクセン駐日ドイツ大使(Herbert von Dirksen)に新たな和平四条件を提示したが、それには満州国の正式承認と対日賠償という中国にとって容認し難い条件が含まれていた。

    蔣介石が敗戦国のような扱いを受け入れるとは思われないので、相手のメンツを保ちつつ和平交渉を進めるべきだったが、日本は飛躍的に条件をつり上げたのである。

    つり上げられた和平条件は12月26日ごろ、中国側に伝わり大きなショックを与えた。ところが蔣介石はそれに速やかに回答しなかったので、日本側は回答期限を1938年1月15日に定めた。期限前日の1月14日、新たな和平条件の詳細を説明してほしいとの中国側の回答が、ディルクセンを通して日本側に伝わった。

    だがそれを近衛や広田は、中国側が講和に誠意を持たず遷延に出ているものと判断した。結局、期限内に回答は得られず交渉は打ち切られた。1938年1月16日、近衛は「対手とせず」声明を発し国民政府と断絶して、傀儡政権の中華民国臨時政府に肩入れすることを説くに至る。

    しかしなぜ日本政府は「対手とせず」声明という、国民政府の悪意を誇張するナショナリスト的神話を掲げ、交渉条件つり上げや交渉打ち切りといった失敗を犯したのだろうか。

    その一つの説明は、この時日本政府は湧き上がる国民の排外的ナショナリズムを既にコントロールできなくなっていたというものである。

    ナショナリズム諸刃の剣である。当初、排外的ナショナリズムを煽って好戦的世論を焚きつけたのは近衛だったが、この期になるとそれが跳ね返ってきて、政府の対外政策の自律性が脅かされるに至っていたのである。

    ■政治的な党派性の根底にある「部族主義的メカニズム」

    なぜ、近衛内閣は国民の排外主義的ナショナリズムコントロールできなくなってしまったのだろうか。

    この問いを答えるうえで重要な役割を果たすのが、部族主義の心理メカニズム(部族主義的メカニズム)という進化論的な知見である。

    人間の脳は直感的にわれわれ(we)と彼ら(they)をわけ、彼らよりわれわれをひいきするように設計されている。こうしたシステムが部族主義的メカニズムであり、それは国家レベルではナショナリズム、民族レベルでは自民族中心主義(ethnocentrism)といった政治学的現象を生みだす。

    一部の自然科学的知見は、ナショナリズムやエスノセントリズムが人間に備わった普遍的特性であることを明らかにしている。たとえば、幼児は言語の手掛かりを頼りに内集団のメンバーを特定し、彼らに対して好意をいだく。

    また、潜在的連合テスト(implicit association test)は大人、子供、そして人間と同じ霊長類のサルにおいて、外集団のメンバーに対する広範なネガティブな連合があることを明らかにしている。

    あるいは政治的イデオロギーについていっても、心理学ジョナサン・ハイトらが論じているように、そもそもリベラルや保守といった党派性はそれ自体、部族主義に由来するものである。

    すなわち、リベラルリベラル陣営という部族主義的な感情に従って動いており、保守もまたしかりということになる。ここからわかることは、部族主義は時としてイデオロギーを凌駕して、内集団を結束させるということである。

    ■独裁者は部族主義を直観的に理解していた

    そしてその結果、以下のナショナリスト的神話モデルにかかる三つの仮説が導きだされる。第一に、指導者はしばしばナショナリスト的神話づくりで国民の排外的ナショナリズムを駆りたて、拡張的政策への支持を調達しようとする(仮説①)。

    第二に逆にしばしば国民は、指導者のナショナリスト的神話づくりで排外的ナショナリズムを駆りたてられ、指導者に拡張的政策への支持を与える(仮説②)。

    第三に指導者はしばしば、自らが引き起こした排外的ナショナリズムに対外政策の自律性を拘束される(仮説③)。

    上記の仮説①と仮説②を導きだす上で重要なのは、人間には生来、部族主義の心理メカニズムが備わっているので、指導者はそれに乗じて排外的ナショナリズムを喚起するような好戦的政策をとり、国民から政治的支持を得ようとするということである。

    旗の下での結集効果(rally-round-the-flag)の論理が、部族主義をめぐる進化政治学的知見で裏付けられているのはこうした理由による。

    政治的指導者は国民やエリートが部族主義的であることを直感的に理解しているので、このことに乗じてナショナリスト的神話づくりに勤しむ。こうした意味において、国民の心に潜んでいる部族主義に乗じていたヒトラーや松岡洋右といった扇動的指導者は、直感的な進化政治学者だったのである。

    こうした点について、リアリストのミアシャイマーは実に鋭い指摘をしている。

    ナショナリスト的な神話」を作る行為というのは、単にエリートがニセの話をでっち上げて国民に広めるだけのものではない。実際のところ、国民というのはこのような神話に飢えているのであり、彼らは自分たちが善なる存在で、敵対する国が悪の権化であるような、過去についての話を聞きたがるものだ。よって、「ナショナリスト的な神話」というのは、実質的には社会の階層の上にいるエリートからだけでなく、下にいる国民の側からも促されるものなのだ。

    ■ナショナリズムを適度にコントロールするのは困難

    仮説③の論理を理解するためには、必要かつ適切な量のナショナリズムを生みだすという巧妙な策を講じるのは通常困難だということを踏まえる必要がある。

    つまるところ、しばしばナショナリスト的神話づくりは横滑りして、国民は指導者が志向するレアルリティーク(理想ではなく、利害によって行使される政治権力の在り方)を阻害するほどの過度な排外的ナショナリズムに熱狂するに至るのである。

    たとえば中国政府は普段、学校教育やメディア操作を通じて反日・反米感情や領土をめぐる愛国主義的感情を煽っているが、国民の排外的ナショナリズムが政府のレアルリティークを阻害するようになると、それをコントロールして国民の怒りを鎮めようと熱心になるのである。

    ■「世論の圧力」を受けて対外政策を誤ってしまった

    メディア操作やプロパガンダといったナショナリスト的神話づくりを通じて、国民に日中戦争が大きな優勢の下で進んでいるとの認識を与えていたため、交渉を成立させるならばその条件は圧倒的に有利なものでなければ、国民からの支持が得られないと近衛内閣は認識していた。

    実際、広田外相は交渉条件のつり上げが「世論の圧力」によるものだったことを認めている。すなわち12月14日の大本営政府連絡会議での「和平条件」は、「国民の期待」「国内の要求」「かかる条件にて国民はこれを納得すべきか」を考慮せざるを得ないものになっていたのである。

    史実は、近衛内閣が排外的ナショナリズムに熱狂する国民に拘束され、対外政策の自律性を拘束されていたことを示唆している。

    近衛内閣による一連のナショナリスト的神話づくりが最高潮に達したのが、1938年11月に提唱された自己賛美と自己欺瞞に満ちた東亜新秩序声明である。そこで近衛内閣は、「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」を戦争目的に規定するに至る。

    この時点で戦争目的は、「対支一撃論」により華北問題の全面解決を目指す軍事的目標から、東亜新秩序創設を目指す政治的・道徳的目標に置き換えられる。

    ■ナショナリズムが戦争拡大に影響した“科学的根拠”

    以上、近衛内閣のナショナリスト的神話づくりという視角から、日中戦争をめぐる日本外交を検討してきた。これらをまとめると、ここでナショナリスト的神話モデルを例示するために行った事例研究で重要だったのは、以下の点にあるといえよう。

    第一に日中戦争拡大の過程で、近衛内閣はしばしばナショナリスト的神話――この際、華北派兵声明、「暴支膺懲」声明、東亜新秩序声明など――に訴えて国民の排外的ナショナリズムを喚起し、日中戦争拡大への支持を調達しようとしていた(仮説①)。

    第二に国民はしばしばこうした政府のナショナリスト的神話づくりに呼応して、近衛内閣に日中戦争拡大への支持を与えていた(仮説②)、第三に近衛内閣はしばしば自らが喚起した国民の排外的ナショナリズムに拘束されて、日中交渉における政策の自律性を拘束されていた(仮説③)。

    仮に人間に部族主義の心理メカニズムが備わっていなければ、近衛内閣がナショナリスト的神話づくりで排外的ナショナリズムを駆りたてても、国民はそれに応じなかっただろう。

    また、そもそも風見や近衛は国民が排外的ナショナリズムに熱狂して、日中戦争を支持するとは考えなかったため、ナショナリスト的な扇動策をとることはなかっただろう。

    一見すると、日中戦争の拡大にはナショナリズムが大きくかかわっている。しかし、なぜ、いかにしてナショナリズムが戦争拡大に寄与したのかを科学的根拠が備わった形で説明するためには、理論家は部族主義という人間本性をめぐる科学的知見を理解する必要がある。

    こうした進化政治学の知見を踏まえることではじめて、社会科学者は、ナショナリズムが戦争を起こる論理について、実在論的な意味での科学的妥当性を備えた因果メカニズムを与えられるようになるのである。

    ----------

    伊藤 隆太いとうりゅうた
    広島大学大学院人間社会科学研究科助教
    コンシリエンス学会学会長。博士(法学)。2009年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科前期および後期博士課程修了。同大学大学院研究員および助教、日本国際問題研究所研究員を経て今に至る。政治学、国際関係論、進化学、歴史学、政治思想、哲学、社会科学方法論など学際的な研究に従事。主な著作は、『進化政治学と国際政治理論 人間の心と戦争をめぐる新たな分析アプローチ』(芙蓉書房出版、2020年)。

    ----------

    日中戦争中の1938年10月、武漢に迫る日本軍とその近くの町で発砲する歩兵 - 写真=ullstein bild/時事通信フォト


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【「なぜ日本は中国との泥沼の戦争を選んだか」84年前の日本政府が間違った根本原因】の続きを読む


    都合の悪いところは教えないことになっている。

    (花園 祐:上海在住ジャーナリスト

    JBpressですべての写真や図表を見る

     短期集中連載「覆される元寇の常識」の第3回をお届けします。前回、前々回は、中世日本における唯一の国際戦争である元寇(1274年、1281年)について、近年の研究を紹介するとともに、従来説が見直されていることを解説しました。

     最終回となる今回は、現代中国人が元寇をどのように見ているのかについて紹介したいと思います。

    中国ではほとんど知られていない

     日本人にとって元寇は、承久の乱1221年)とともに鎌倉時代における2大事件の1つです。また、台風が結果的に日本に味方したことから、後年の「神風」信仰の発端ともなりました。そうした背景もあり、日本では小学校の段階から元寇が教えられ、元寇を知らない日本人はほとんどいないと思われます。

     では、もう一方の当事者である中国側はどうなのか?

     筆者は友人の中国人に「元寇(中国語では「元日戦争」)を中国人はどう見ているの?」と尋ねてみました。すると、友人の反応は、あまりにも意外なものでした。「元寇って何?」と逆に聞き返してきたのです。

     戸惑いを覚えつつ「元朝が日本に侵攻した時の戦争だ」と説明しても、「本当にそんなことがあったの?」と真顔で言い返されました。その友人は、「日清戦争日中戦争があったことはもちろん知っているけれど、中国が鎌倉時代の日本へ攻め込んだなんて一度も聞いたことがない」とのことでした。

    義務教育では一切教えず

     友人の思わぬ反応に筆者は戸惑い、すぐさま他の中国人の知人たちにも、元寇について尋ねてみました。結果から言えば全滅でした。元寇について知っている中国人は、少なくとも筆者の周りには誰一人としていませんでした。ある友人は両親に「元寇を知っているか」と尋ねてみてくれましたが、年配の両親も知らなかったそうです。

     友人曰く、元朝ことモンゴル帝国ヨーロッパ東南アジアを征服したという事実は、確かに学校の授業で習ったそうです。しかし、「日本にまで攻め込んだという事実はこれまでまったく習ったことがない」「義務教育ではまず教えられていない」とのことでした。

     またその友人によると、そもそも中国の学校で教える歴史は中国共産党の設立(1921年)以降が中心とのことです。それ以前となると、比較的時代の近い明朝や清朝を取り扱うことはあっても、他の時代はごくあっさりとしか教えていないそうです。つまり、元寇は、中国の学校では基本的に教えられていないのです。

     筆者が思うに、中国の王朝の中で元朝は人気が低いということも影響しているかもしれません。漢民族ではなくモンゴル民族による王朝ということもあり、現代中国人は「元朝は別枠」と捉えているようにも見受けられます。そのため、元朝の歴史自体にあまり関心がない、ということはあり得ます。

    ゲームをきっかけに元寇を知った人も

     身近な中国人で元寇を知っている人はいませんでしたが、インターネットの世界ではどうか。ネット上で中国人の元寇への反応を探ってみました。

     さすがにネットの世界には歴史マニア中国人ごろごろおり、元寇について解説しているサイトもいくつか存在しました。

     中には、ゲームゴースト・オブ・ツシマGhost of Tsushima)」に絡めて元寇を紹介しているサイトもみられました。「ゴースト・オブ・ツシマ」とは、ソニー・インタラクティブエンタテインメント2020年7月に発売したプレステ用のアドベンチャーゲームです。文永の役1274年)で元軍の侵略を受けた対馬を舞台としており、世界的に大ヒットして中国でも人気を博しています。

     このゲームをきっかけに元寇を初めて知ったという中国人は少なくないようです。実際にゲームを紹介しながら元寇を解説する新聞記事もみられました。

     なお「ゴースト・オブ・ツシマ」の中国語タイトルは「対馬島之魂」です。筆者は個人的に、日本語もこっちの方が良かったのではないかと思います。

    「神風」は鎌倉幕府が喧伝?

     さて、ゲーム紹介サイトも含めて元寇に言及している中国語サイトを見渡してみると、現代中国人が元寇をどう捉えているかが見えてきました。

     結論から言えば、「日本への遠征は大失敗だった」という見方が大半のようです。失敗の原因としては、「神風」こと台風によって致命的な被害を受けたこともありますが、最大の原因は日本武士団の頑強な抵抗だと指摘する意見が多いようです。

     その神風について、あるサイトでは「鎌倉幕府が喧伝したのではないか」という指摘がありました。鎌倉幕府は元軍を追い払ったものの、新たに獲得した領土がなく恩賞のやり繰りに困り、意図的に流布したのではないか、という意見です。つまり「元軍に勝てたのは神風のおかげである」という雰囲気を作ることで、恩賞を与えられない武士の不満を鎮めようとしたのではないか、ということです。

     実際、神風信仰は、元軍に勝利した直後ではなく、しばらく経ってから徐々に広まったという研究もあります。「幕府が『神風』を喧伝した」という説は十分に検討に値する興味深い指摘だと思います。

    范文虎はスケープゴート?

     もう1つ、中国語サイトの元寇に関する記述を読んでいて興味を引かれたのは、「范文虎(はん・ぶんこ)スケープゴート説」です。

     范文虎は南宋の元将軍で、南宋の滅亡時に元に降伏しました。その後の「弘安の役」では旧南宋軍(江南軍)を率いる司令官となり、日本に侵攻しました。しかし台風に見舞われた後、鷹島(長崎県松浦市)に残った多くの将兵を見捨てて、わずかな手勢とともに逃げ帰ったことが史料に記されています。

     この范文虎の行動について、ある中国語サイトでは「滅亡した南宋の将軍だった范文虎が、並み居るモンゴル人大将を差し置いて撤退の決断を行えただろうか」という疑問が呈されていました。また、逃げ帰った范文虎はなぜか処罰されることはなく、その後も出世を果たしています。それはあまりにも不自然であり、「将兵を見捨てる決断をした他の将軍のスケープゴートにされたのではないか」とも推論していました。

     范文虎は「兵を見捨てた、だらしがない武将」として伝えられていますが、そういう見方もあるのかと感心させられました。中国人による元寇の論考はあなどれません。

    もっと知られてほしい元寇

     以上、中国で元寇がどう認知され、評価されているかについて紹介しました。前述の通り、中国では一般的に元寇はほとんど知られていません。

     なにも日本を侵略しようとした歴史を忘れるなと言うつもりはさらさらありませんが、やはり、現代中国人にも元寇をもっと知ってほしいところです。元寇が中国で広く知られるようになれば、研究がもっと深まるはずだと思うからです。

     元寇に限らず、日本の鎌倉時代戦国時代江戸時代ほど人気がありません。しかし研究が深まれば、もっと面白い事実が出てくるはずです。日中双方で鎌倉時代の研究が広く行われ、新たな事実が発見されることを願っています。

    ◎「覆される元寇の常識」バックナンバー
    (第1回)元寇『幕府軍が一騎打ちボコボコにされた』は本当か
    https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65695
    (第2回)元寇「神風のおかげで日本がミラクル大勝利」は本当か
    https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65791

    [もっと知りたい!続けてお読みください →]  名君?暗君?評価が分かれる「最後の将軍」徳川慶喜の実像

    [関連記事]

    結局、あの将軍は名将だったのか?愚将だったのか?

    生涯でたったの2敗?「戦国最強」上杉謙信が敗戦した理由

    中国の学校で「元寇」はどう教えられているのか?(写真はイメージです)


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【元寇をどう思う? 中国人に聞いたら誰もが見せた意外な反応】の続きを読む



    (出典 livedoor.blogimg.jp)


    決断した豊臣秀吉

    1 砂漠のマスカレード ★ :2021/06/11(金) 16:43:34.46

    当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは?  作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える!  日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。

    【写真】「世界で一番強い国はどこか? 」中国製AIの衝撃回答

     日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。

     このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。

     この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。

     秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。

    ■最初は布教を許していたが…

     秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。

     この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。

    https://news.yahoo.co.jp/articles/18eb9427a939883a22f35c495b73131d05897f21?page=1

    6/8(火) 15:01
    配信

    前スレ 2021/06/11(金) 14:13
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1623388395/


    【【歴史】「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断、被害者の数はなんと5万人】の続きを読む

    このページのトップヘ