令和の社会・ニュース通信所

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    カテゴリ:国内 > 歴史


    幕末日本がロシアと結んだ外交関係の崩壊は、当時の政治状況や利害の衝突が要因とされていますが、それによって日本は国際政治の裏側に挑戦しようとした一瞬の輝きがあるとも言えます。日ロ蜜月外交が終わった後の日本の進化を見ると、さらなる変革が待っていることが分かります。

    (町田 明広:歴史学者)

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    ◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか①
    ◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか②
    ◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか③
    ◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか④

    オランダの鎖国日本における外交

     17世紀以降の江戸幕府の対外政略は鎖国であったが、世界に開かれた「四つの口」(蝦夷・対馬・長崎・琉球)を有していた。長崎の出島では、欧米諸国の中でオランダのみが、通商を許されていた。幕府は開国に踏み切るまで、オランダから世界情勢を見聞しており、最後まで友好関係を崩さなかったのだ。

     弘化元年(1844)、オランダ国王ウィレム2世は開国を勧告する国書を12代将軍徳川家慶に送付したが、幕府は拒絶している。また、嘉永5年(1852)、オランダ商館長クルティウスは別段風説書の中で、アメリカからペリー艦隊が派遣され、砲艦外交で通商を迫ることを幕府に事前通告した。

     その予告通りにペリーが来航し、嘉永7年(1854)には日米和親条約が調印され、続けてイギリスロシアとも条約を結んだ。オランダとはそれまでも通信関係があったため、やや遅れて安政2年(1855)12月に日蘭和親条約が締結されたのだ。

    日本海軍の創設とオランダの恩恵

     老中阿部正弘は、早くもペリー来航(嘉永6年6月、1853)の1ヶ月後には長崎奉行の水野忠徳を通じて、オランダ商館長クルティウスに軍艦を発注した。また、対外政策(海防問題)について意見を求め、スンビン号(幕府に寄贈され、観光丸と改称)艦長ファビウス中佐から海軍創設の提案を受け取った。

     ファビウスは洋式海軍の創設を促し、士官・下士官等の乗船員養成のための海軍伝習(教師団の派遣)および留学生受入れをオランダが請け負うとの提案を行った。これを受け、水野はオランダからの軍艦購入、幕府海軍の創設、長崎海軍伝習所の設置を阿部に打診し、その許可を得たのだ。

     ここに、日本海軍の黎明期が始まったが、それをサポートしたのが、鎖国時代も交流があったオランダであったことは、歴史の必然と言えよう。なお、幕府の留学生は諸藩がイギリスを中心に派遣したのに対し、当時欧米では弱小国であったオランダに集中した。これは、それまでの関係を重視し過ぎた結果である。

    日ロ関係の始まりと緊張関係の発生

     ここからは、ロシアとの関係に話を移そう。18世紀の後半以降、蝦夷地を中心とするロシアの脅威は、幕府にとっては回避できないレベルに達していた。寛政4年(1792)のラックスマンの来航時、老中松平定信は国法書を与え、国交がない外国船は捕らえるか、または無二念打払うのが祖法であると言明した。一方では、通商条約の締結をほのめかして、長崎入港の信牌(許可証)を与えたのだ。

     文化元年(1804)、レザノフはその信牌を持参して長崎に来航したが、無為に半年間も放置され、通商条約の拒否を申し渡された。そのため、レザノフの部下は文化3年(1806)に独断で樺太の松前藩番所を、翌年には択捉島の日本拠点を襲撃した(文化露寇)。日露戦争のおよそ百年前、最初の日露間の紛争であったのだ。

    プチャーチンによる日ロ蜜月外交の展開

     日露間の交渉はその後、約40年間途絶えていたが、イギリスの清(中国)、そして日本への勢力伸長によって、東アジアでの権益が脅かされることを危惧した。また、米国の捕鯨船はオホーツク海のロシア領沿岸に達していたが、さらに、ペリー艦隊派遣の一報はロシアに大きな衝撃を与えた。

     嘉永6年、ロシア使節プチャーチンは艦隊を率いて長崎に来航し、国境の確定と開港・通商を求めた。幕府の意向通りに長崎に来航し、穏健な対応をとるロシア一行に対して、幕閣内では好意的な感情が支配的であった。そのため親露論が台頭し、ロシアとのみ通商条約を結び、連携して英米を防ぐという政策すら登場したのだ。

     その後、クリミア戦争の勃発によって、交渉は中断を余儀なくされたが、戦時下の安政2年(1855)、下田で日露和親条約が締結された。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、国境は千島列島択捉島と得撫島の間とし、樺太はこれまで通りの雑居地とされた。さらに、プチャーチンは安政5年(1858)、再び長崎に来航して日露修好通商条約を結んだのだ。

    ポサドニック号事件の衝撃と日ロ関係の緊張

     文久元年(1861)2月、友好的な日露関係が破綻し、日本の主権が侵される危険性を露呈したロシア軍艦ポサドニック号による対馬占領事件が勃発した。いわゆる、ポサドニック号事件である。しかし、幕府はこの緊急事態に対して、何ら有効な解決方法を見出せないでいた。そこで、英国公使オールコックは幕府の依頼がなくても、イギリスは武力を使用してでも、ロシアを撤退させると言明した。

     オールコックは、このまま放置すればロシアは日本を併合する危険があり、一部の領有であっても、イギリス東アジア政策に大打撃を与えると判断した。諸説あるものの、イギリスの圧力に屈したとされ、ポサドニック号はようやく8月に退去した。ロシアの関心はこれ以降、北方の国境に限定され、幕末維新史からは一線を画することになったのだ。

     幕末維新史は、今回のシリーズで見てきたとおり、欧米列強との関係によって多大な影響を受け、方向性が規定されたとしても過言ではなかろう。しかし、明治国家はあっという間に欧米列強にあらゆる面で追いつき、さらに凌駕することによって、今度は日本が世界史に対して甚大な影響を及ぼすことになったのだ。

    [もっと知りたい!続けてお読みください →]  シーボルトの来日から200年、禁制品持ち出しによる国外追放と日本との関係

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    左から、ヘルハルドゥス・ファビウス、エフィム・プチャーチン


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【歴史】オランダ・ロシアからみた幕末日本、鎖国そして海軍創設、日ロ蜜月外交の破綻】の続きを読む


    本能寺の変についての文書が発見されたなんて驚きです!

    1 煮卵 ★ :2024/01/18(木) 14:48:44.67 ID:1ZBC6Mgv9
    明智光秀が織田信長を討った本能寺の変(1582年)を巡り、公家が後に天皇に語ったという体験談を記した文書が、旧公爵近衛家の史料を所蔵する「陽明文庫」(京都市)で見つかった。
    変から100年前後たった文書で真偽は不明だが、信長の長男・信忠が自害した様子が生々しく記されていた。江戸時代の公家社会で変が重大視されていたことがうかがえる。
    (多可政史)

    陽明文庫と東京大史料編纂(へんさん)所による調査で、同所の遠藤珠紀准教授(日本中世史)が確認した。

    史料には、当時、左近衛中将(さこのえちゅうじょう)として朝廷に仕えていた白川雅朝王(まさともおう)(1555~1631年)の体験談が記されていた。雅朝王が後水尾(ごみずのお)天皇(1596~1680年)に度々語っていたという話を、近衛家当主の基煕(もとひろ)(1648~1722年)が古参の女房から聞いて書き留めた。成立は変から約100年後の17世紀後半とみられる。

    信忠は本能寺の変の際、信長が造営し、後水尾天皇の祖父にあたる誠仁(さねひと)親王に譲った二条御所に籠城し、自害した。

    史料によると、雅朝王が誠仁親王を御所の外に逃した後、信忠は最期に、「かゝるふうんにあふはちからなし(このような不運にあったのは力ないことだ)」「神めい仏た御まもりおはしまして、つゝかなく内裏へ還御なしまいらさせ給へ(神や仏が親王をお守りくださって、つつがなく内裏にお戻りなさるように)」などと述べたという。

    このほか、親王が御所を出る際、敵方の武士も頭を垂れたことなどが記される。

    遠藤准教授は「雅朝王が後水尾天皇に誇らしげに繰り返し語っていたのでは」と推測。
    基煕は最後に「親しくない人に見せるべきではない」と記しており、「外に漏らすべきではない重要な情報と認識していたのだろう」と指摘する。文書の全文は昨年刊行された「陽明文庫講座図録5」で紹介している。

    続きは
    https://news.yahoo.co.jp/articles/137fbba735871c5ac2eb10671b1b534ee47ea9b2

    【画像】本能寺の変の体験談が記された文書。6行目以降、城介(信忠)が語った言葉が記される

    (出典 tadaup.jp)


    [読売新聞]
    2024年1月16日(火) 15:00

    【【発見】本能寺の変、織田信長の長男が自害する様子生々しく記す…江戸時代の文書に公家の体験談「かゝるふうんにあふはちからなし」】の続きを読む



    江戸時代の人々が「赤気」と呼んでいたオーロラは、彼らにとってはまさに未知の現象であっただろうと思います。彼らは驚きや恐れを感じたかもしれませんが、同時に美しさにも惹かれたのではないでしょうか。当時の人々は科学的な知識が乏しかったため、自然現象に対する解釈が現代とは異なる可能性もありますね。興味深い話題です。

    オーロラはアラスカやフィンランドなどで見ることができる現象であり、北海道でもまれに見ることができます。

    しかしごくごくまれに本州でも観測することができ、実際に江戸時代には日本各地でオーロラが現れたさえありました。

    果たして江戸時代の人々はオーロラに対してどのような反応をしたのでしょうか?

    本記事では1770年に日本各地で観測されたオーロラに、貴族や民衆がどのような反応を示したのかについて取り上げていきます。

    なおこの研究は國學院雑誌第123巻第2号に詳細が書かれています。

    目次

    • 日本でも見ることのできるオーロラ
    • 朝廷は大混乱、民衆はパニック
    • 最終的には幸運の前兆として捉えていた当時の民衆

    日本でも見ることのできるオーロラ

    2023年12月に北海道にて観測されたオーロラ、夜空を赤く染めている
    2023年12月に北海道にて観測されたオーロラ、夜空を赤く染めている / credit:北海道新聞

    そもそもオーロラはどのようなメカニズムで発生しているのでしょうか?

    オーロラはプラズマが地球の大気中の粒子と衝突した際に、大気の粒子が発光して発生しています

    このプラズマは太陽から太陽風として地球に吹きつけており、地球磁場と相互作用して磁気圏内に入っているのです。

    この中にあるプラズマが何らかのきっかけで高速で降下した時にオーロラが発生します。

    先述したようにオーロラはフィンランドやアラスカなどといった高緯度地域で観測することのできる現象です。

    しかし非常に強い太陽嵐によって太陽風が多く地球に吹きつけた場合、低緯度地域にも現れることがあります

    実際に北海道ではたびたびオーロラが観測されており、陸別町のようにオーロラを売りにしている自治体さえあります。

    朝廷は大混乱、民衆はパニック

    『星解』に描かれた1770年のオーロラ、このようにオーロラが夜空を赤く染めた
    『星解』に描かれた1770年のオーロラ、このようにオーロラが夜空を赤く染めた / credit:国立極地研究所

    このようにオーロラは北海道ではまれに観測されることがある現象ですが、本州で観測されることはほぼありません。

    しかし過去にそのような事例がなかったわけではなく、1770年7月28日には日本各地でオーロラが観測されました。

    なお日本のような低緯度の場所で観測されるオーロラは緑色ではなく赤色をしているケースが多く、それ故当時の人たちはオーロラのことを「赤気」と呼んでいました。

    このオーロラは京都でも観測されており、朝廷は突如夜空に現れたオーロラに対して対応を強いられたのです。

    今の私たちからすれば、災害でもない自然現象に公的機関が対応を強いられることは不可解な事のように捉えられます。

    しかし当時は科学が発展しておらず、また祈祷や占いが非常に強い力を持っていたので、陰陽師の土御門泰邦がオーロラ出現に対応するということになったのです。

    またその数日前には彗星が京都で観測されており、それに対して「何か悪い予兆なのではないか」ということで対策を練っていました。

    そのようなこともあってオーロラの出現に朝廷は大混乱に陥ったのです。

    しかし泰邦自身は意外なことに「オーロラよりも彗星の方が悪い予兆である」と捉えており、先述した彗星ほど悪いものであるとは捉えていませんでした。

    またオーロラを観測した他の知識人たちは歴史書や文献に基づいて、過去に似たような事例が発生していないかを確認しようとする動きが見られました。

    それに対し民衆は、口伝えや噂話を通じて情報を共有していました。

    民衆たちは「長老の話」「○○村の誰かの話」といった内容があり、民衆はオーロラの情報について口伝えで情報を集めようとしていたことが窺えます。

    天変地異や山火事か何かなのではないかと捉えた民衆も多く、神仏に祈りを捧げたり家が燃えない様に屋根に水をかけたりする人々もいました。

    さらに当時の知識人の記録には「東大寺の大仏堂が焼失したので空が赤くなった」といった荒唐無稽のデマが流れていたことが書かれており、混乱していた様子が窺えます。

    最終的には幸運の前兆として捉えていた当時の民衆

    オーロラ、ちなみにイヌイットの伝説では生きている間に善行を積んだものは死後オーロラの国に行けると語り継がれている。
    オーロラ、ちなみにイヌイットの伝説では生きている間に善行を積んだものは死後オーロラの国に行けると語り継がれている。 / credit:wikipedia

    このように貴族も民衆も大パニックになったオーロラですが、当時の人々はこれをどのようなものであったと結論づけたのでしょうか?

    先述した陰陽師の泰邦はこのオーロラについて占い、最終的に当時日本全体で深刻だった旱魃(かんばつ)によってオーロラが発生したと結論付けました。

    それに対して民衆は、オーロラを吉兆と結びつけ、社会の豊作や安定の兆しと見たのです。

    というのも先述したように当時日本全体では旱魃が深刻でしたが、史料によると、「オーロラの発生の数日後に降雨があり、それによって旱魃が解消された」と記されています。それ故民衆の多くはオーロラを降雨による吉兆として解釈したのです。

    また当時の記録の中には、「オーロラの形状を稲穂に見立て、その年が豊作である」と解釈した長老の言葉もあり、オーロラをいいものであると捉えていた人が多かったことが窺えます。

    これらの認識や解釈は、民衆の実際の生活状況や社会の安定に密接に結びついており、彼らがオーロラに対して持っていた独自の視点を反映しているのです。

    現在の私たちからすればオーロラは非常に幻想的であり、もし日本で見られるようなことがあれば、多くの人々が「一生に一度見られるかどうか分からない天体イベント」として写真に収めようとするでしょう。

    しかし科学が発展しておらずオーロラという概念さえ持ち合わせていなかった江戸時代の人々にとっては、真夜中に空が赤く染まるオーロラはこの世の終わりみたいに感じたのかもしれません。

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    参考文献

    國學院大學学術情報リポジトリ (nii.ac.jp)
    https://k-rain.repo.nii.ac.jp/records/717

    ライター

    華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

    編集者

    海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

    「赤気」と呼ばれた江戸時代のオーロラ出現に当時の人々はどんな反応をしていたのか?


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    「初詣」は明治時代に創られた伝統とは驚きですね。国民的行事に発展するまでの経緯について知りたいです。

     新年になると、多くの人が神社や寺に参拝し、1年の幸せを祈願します。こうした習慣は「初詣」と呼ばれており、古くからある伝統文化だと認識している人は多いと思います。

     しかし、現在のように、人々が正月に一斉に神社や寺に参拝する様式が確立されたのは、明治時代以降であることが歴史学者の研究によって、明らかになっています。今回は、さまざまな社会問題を論じてきた評論家の真鍋厚さんが、歴史学者の研究を基に、初詣が国民的な行事に発展した経緯を紹介します。

    鉄道の整備が一因

     世界規模の宗教行事といわれることもある日本の「初詣」。警察庁2009年に発表したデータによると、実に1億人近い人出があったことが分かっています(※1)。まさに国民的行事と言っても過言ではないでしょう。

     しかし、その成り立ちはあまり知られていません。例えば、現在のように、人々が元日に一斉に神社に参拝するスタイルは、明治の後半にでき上がったもので、国の政策や鉄道会社の取り組みがかなり影響していたことなどです。

     後で説明しますが、明治以前の東京や京都などの地域では、元日は外出せずに家で神様を迎えることが一般的でした。同時に「恵方詣り(恵方参り)」と呼ばれる、その年に「恵方」(自宅から見て縁起の良い方角)にある社寺に参拝することも、広く行われていました。

     具体的に見ていきましょう。

     日本近代史(天皇制度・文化史)が専門の歴史学者である高木博志氏によると、現在のような初詣のスタイルが成立したのは、明治20年代1887年~1896年)だといいます(※2)。

     これには明治維新に伴う国民国家の形成が深く関係しています。高木氏は、それまで庶民の慣習にはなかった宮中(皇室)での新年拝賀が、官公庁への拝賀、学校教育の新年節(1月1日)を通じて浸透したことが背景にあるとしています。

     このことは、明治政府が天皇を頂点とする新しい国家体制を整備し、寺院(仏教)よりも神社(神道)を重視する政策を徹底したことと切り離せません。数ある神社の中でも、いわゆる国営神社だった「官国幣社」(戦後に廃止)の存在は大きかったといえます。

     高木氏は、明治期に起こったこれらの一連の動きについて、「つまるところ、官が上から、宮中儀礼と連動させて、正月元日に特別の意味を持たせたかったからといえよう」と述べています(※2)。

     江戸時代の庶民にとって、「寝正月」という言葉が象徴的なように、元日は家で静かに過ごすものでした。地方はさらに多様でした。

     交通網の発達という視点から初詣の出現を指摘したのは、鉄道と社寺参詣の関わりを研究している歴史学者の平山昇氏です。鉄道の積極的な乗客吸引策が参詣客数だけでなく、社寺参詣のあり方そのものを変えたといいます(※3)。

     平山氏も、神奈川県川崎大師の例を挙げながら、縁日にも恵方にも関係なく、毎年元日に参詣することが習慣化し始めたのが明治20年代だと述べています。そして、これは都市から郊外へと延びる鉄道が整備されたことによって誕生した「『近代的』な参詣行事」だと断言しました。

     平山氏によると、鉄道会社は収益を上げるために宣伝を盛んに打ち出し、列車の本数を増やすなどして、当時まだ非日常的な乗り物だった列車に、ハレの日の行楽をうまく組み合わせたということです。これが見事に起爆剤になったのです。

     このため、平山氏は、高木氏とやや異なり、当初はナショナリズムとは別の文脈で、庶民の娯楽行事として初詣が生まれたと考えます。それが大正期以降に知識人にも波及し、彼らによってナショナリズムの文脈で捉え直されるようになり、その言説が社会に還流して娯楽とナショナリズムの二面性を持つ行事に変化したというのです(※4)。

     いずれにしても重要なのは、高木氏、平山氏ともに初詣が明治の後半に「創られた伝統」だったと認識していることです。これは余談ですが、現在の神社に置かれているおみくじも明治以前は存在しませんでした。初詣と同様、明治の後半に新たに創られたのです。

     それでは、江戸時代の正月はどのようなものだったのでしょうか。現在の東京や京都などの地域では、元日は恵方に棚を作って、「年神様」(歳徳神)を迎えることが一般的で、家にこもっていました。

    「年神様」とは、新しい年の福徳を持って訪れる神様のことで、「正月様」とも呼ばれ、陰陽道的な側面があります。民俗学者の折口信夫が提唱する「来訪する神(まれびと)」の一種とされています(※5)。

     人々の活動が始まるのは元日の翌日以降で、書き初めあいさつ回りなどが行われていました。「恵方詣り」として、その年の「恵方」にある社寺に参拝することが多く、これが初詣の原型といわれています。ただし、恵方は毎年変わるため、いつも同じ社寺に参拝するわけではありません。

     地方については、もっと複雑なようです。先述の高木氏は、多くの民俗学資料から「村の構成員全体が鎮守社へ参拝する村から、年男のみ参拝する村、あるいは家で静かに歳徳神を迎える村まで、正月のありようは多様だった」と結論付けています(※2)。

     簡単にまとめますと、まず元日に神様を家で迎え入れるスタイルや、年ごとに変わる「恵方」の社寺に参拝するスタイルなどが親しまれていたものの、明治以降、国策による新年行事の開催や神社の地位向上、鉄道の発展、庶民のレジャー意識の変化などが複合的に影響し、元日に一斉に参拝する初詣文化を形づくっていったといえます。

     このように見てみると、今と昔とではずいぶんと違うことに驚くのではないでしょうか。私たちは、初詣といえば、昔から連綿と続いてきた伝統と思い込んでいるところがあります。しかし意外と歴史は浅く、近代化が関わっています。

     きちんと検証されたわけでもないのに、一方的に「これが正しいから」とか「これが正統だから」といった決まり文句が飛び出すことが少なくない昨今。さまざまな時代を振り返りながら、その根拠とされるものの変遷を眺めてみることも重要かもしれません。

    参考文献
    (※1)警察庁「新年の人出と年末年始の登山者に対する警察措置について」(2009)。2009年を最後に公表されず。

    (※2)高木博志「近代天皇制の文化史的研究 天皇就任儀礼・年中行事・文化財」(校倉書房)

    (※3)平山昇「鉄道が変えた社寺参詣 初詣は鉄道とともに生まれ育った」(交通新聞社新書)

    (※4)平山昇「初詣の社会史 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム」(東京大学出版会)

    (※5)山から人里に訪れるご先祖様なども「来訪する神」に含まれるという。「折口信夫全集」(中央公論社


    評論家、著述家 真鍋厚

    多くの参拝者でにぎわう千葉県成田市の成田山新勝寺(2023年1月1日、時事通信フォト)


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    吉良上野介が本当に「悪人」だったのかは、史料や研究者の見解により意見が分かれるようです。忠臣蔵の敵役として描かれることが多い彼ですが、その背後には何かしらの事情があったのかもしれません。

    1 朝一から閉店までφ ★ :2023/12/29(金) 18:43:10.83 ID:uSTN1gee9
    12/29(金) 8:55配信

    デイリー新潮

     2023年も暮れが押し迫っているが、年末のこの時期に放送される時代劇の風物詩といえば『忠臣蔵』だろう。江戸城の松の大廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(以下、浅野内匠頭)が、吉良上野介義央(以下、吉良上野介)に対して刃傷に及び、
    浅野内匠頭は切腹させられることに。主君の無念を晴らすため、大石内蔵助ら47名の赤穂浪士が吉良邸に潜入して敵討ちをする物語である。だが、世の中に広く語り継がれているストーリーには史実と異なる点も存在しているようだ。【白鳥純一/ライター】

     吉良家と深いつながりを持ち、子爵家(米沢新田藩)9代目当主としてさまざまな講演を行う上杉孝久さんと妻のみすずさんに、“吉良上野介の視点”で見た赤穂事件についてお話を伺った。




    吉良上野介の華麗な系譜

     時代劇では「浅野内匠頭をイジめる嫌味な人物」として描かれることが多い旗本・吉良上野介の歴史を遡ると、上杉謙信、足利尊氏、藤原鎌足といった“歴史上の超有名人物”との色濃い関係性が浮かび上がってくる。

     まず孝久さんは、上杉家の歴史と、吉良上野介との関係について言及する。

    「元々は藤原家だった上杉家の始まりは、藤原重房が上杉姓を名乗った1252年に遡ります。重房の孫娘が足利家に嫁ぎ、子供の足利尊氏が室町幕府の初代将軍になったため、上杉家は関東管領に就き、一時は越後から伊豆半島周辺までを治める大勢力を築いたのですが、
    北条氏の台頭によって、徐々に勢力圏が奪われていきました。そんな危機的な状況で上杉家の家督を譲られた長尾景虎が、後に上杉謙信を名乗って上杉家の再興に多大な貢献をすることになるんです」

     その後、時は流れ、上杉家の姫と吉良上野介の間に生まれた綱憲が、上杉家の養子となり、4代目を継いだ。つまり、姓は異なるが、上杉綱憲にとって吉良上野介は父親にあたるのだ。





    「吉良上野介は刀に手をかけなかった」

    『忠臣蔵』の作中で吉良上野介が“悪役”として描かれているのはご承知の通り。吉良からの賄賂の支払い要求を断った浅野が、陰湿ないじめを受けたり、「鮒侍」などと罵倒されたりしたことに腹を立て、江戸城の松の大廊下で感情を抑えられずに吉良を斬り付けたとストーリーは進んでいくが……。

     実際は「これらのほとんどがフィクションで、浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた理由については、未だに明らかになっていないんです」(孝久さん)という。

    「年末のドラマでは、強面の俳優が演じることが多い吉良上野介ですが、吉良家はもともと源氏の名家として名を馳せ、室町時代には足利御三家筆頭の家柄。事件が起こった当時も、
    吉良家は天皇の使節を接待するための作法を、各大名に教える“高家筆頭”の立場にありました。大名からはいまで言う“授業料”を受け取りながら、厳しく指導を行っていたそうなんですけど……」

     つまり、この“授業料”を賄賂と誤解し、厳しい指導をイジメと捉えられたのかもしれない、というわけである。

     ただ、「江戸城松の廊下事件」(1701年3月14日)を巡っては、旗本の梶川与惣兵衛による「あの時、吉良上野介は一切刀に手をかけなかった」という証言の記録や、
    天皇の勅使が「松の大廊下で大騒動が起きたと聞いている」という書簡を京都に送ったことは明らかになっているものの、浅野内匠頭が吉良上野介を斬った理由については、ほとんど資料が残っていないという。

     みすずさんによれば、

    「改めて考えてみると、徳川幕府がもう少し丁寧に浅野内匠頭を取り調べてから処罰を下せばよかったんでしょうけど、事件後すぐに切腹させてしまった。
    結果として、これが大きな判断ミスだったように思います。吉良が刀を手にしていないことから“喧嘩”に該当しなかったという可能性もありますが、『喧嘩両成敗』が原則だった当時の世の中で、事情を知らない庶民は“不公平”に感じたのかもしれません。
    また、情報が少ないことでかえってさまざまなフィクションを作りやすくなってしまった気がするんです。一度お芝居などで人気の作品になってしまうと、それらのイメージを払拭するのはなかなか難しいですからね」

    https://news.yahoo.co.jp/articles/05f34222ab512630eaf4ad6eb8bf69b48bbe1bf8

    次ページは:「赤穂事件」に残る疑問点
    https://news.yahoo.co.jp/articles/05f34222ab512630eaf4ad6eb8bf69b48bbe1bf8?page=2

    【【歴史】「いまも墓に石を投げられます…」時代劇きっての敵役「吉良上野介」は本当に“悪人”だったのか? 知られざる「忠臣蔵」の謎】の続きを読む

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