令和の社会・ニュース通信所

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    カテゴリ:国内 > 歴史



    歴史から学ぶ

    『週刊プレイボーイ』でコラム「古賀政経塾!!」を連載中の経済産業省元幹部官僚・古賀茂明氏が、バイデン大統領ウクライナへ長距離ミサイル「ハイマース」の供与を決定したことから、岸田政権が保有を検討中とする「反撃能力」は「ゼロ戦の教訓」から学ぶべきだと指摘する。

    (この記事は、6月13日発売の『週刊プレイボーイ26号』に掲載されたものです)

    * * *

    5月31日、米バイデン大統領ウクライナへの高機動ロケットシステム「ハイマース」の供与を決定した。携帯式ミサイルスティンガー」などの短射程兵器と違い、ハイマースは最大で300km離れた標的を精密攻撃でき、その範囲はウクライナ国境からロシア領内の深い地点にまで及ぶ。

    この発表を受け、プーチン大統領6月5日に国営テレビを通じて「米が長距離ミサイルを供与すれば、ウクライナの新たな標的を攻撃する」と警告した。

    ただ、米バイデン政権はこうしたロシアの反発を織り込んで、ロケット砲の火薬量調整でハイマースの射程を80kmに制限する方針を打ち出した。また、ウクライナ政府からハイマースをロシア領内への攻撃に使わない約束も取りつけたことも公表している。

    バイデン政権がハイマースの射程に神経をとがらすのは、いたずらロシアを刺激することを避けるためだろう。長射程の武器はそれほどまでに相手に脅威を与えるのだ。

    ハイマースの供与をめぐる米ロの反応を見て思い出すことがある。軍事史に詳しい明治大学の山田 朗教授から聞いた話だ。

    1941年、日本はハワイ・真珠湾の米軍基地を奇襲攻撃した。太平洋戦争の開戦となるこの戦闘で日本軍は大戦果を収めたものの、その後は連合軍との全面戦争で消耗し、45年の無条件降伏へと追い込まれた。

    日本軍がなぜ真珠湾攻撃に打って出たのか。すでに多くの分析があるが、山田教授は、攻撃の前年にデビューした戦闘機ゼロ戦」の長い航続距離がひとつのカギになったと指摘する。

    それまで、欧米の戦闘機の航続距離はだいたい1000km台だった。これに対して、ゼロ戦の最大航続距離は3350kmと圧倒的な性能を誇った。

    これにより、日本軍の最南端にある基地からフィリピンなどの海域に飛行して戦闘を行ない、そのまま無着陸で基地に帰るという作戦が実行可能となった。

    そうなると、それまで南方戦線に配置されていた3隻の大型空母を、日本から東に約6600km離れたハワイへ展開することが可能になる。これにより合計6隻となった空母に大量の戦闘機を艦載し、真珠湾を総攻撃する一大作戦が軍部内で練られることになったのだという。

    もしゼロ戦が開発されていなければ、ハワイ向けには3隻の空母しか配備できず、戦力不足で「真珠湾攻撃は立案すらされなかったはず」と山田教授は言う。それは戦略によって使う兵器が決まるのではなく、新兵器によって当初考えられなかった新たな戦略が生まれることを示す。「兵器による戦略の追い越し」といわれる現象だ。

    岸田文雄政権は「反撃能力」の保有を「検討」中だ。反撃能力とは敵基地攻撃能力のこと。実際には、防衛省はすでに射程1500km超のスタンド・オフ・ミサイルの導入を決めている。

    それだけの長射程であれば、日本国内から中国の北京や海南島ロシア沿海部への攻撃も可能だ。当然、中国、ロシアは日本の先制攻撃も想定し、軍備を増強させ、日本も新戦略で応じるだろうが、その中に北京先制攻撃という「まったく新たな選択肢」が入る可能性が生じる。

    長距離攻撃を前提とする反撃能力の保有には、日本の防衛の基本戦略を根底から変えるリスクがあるということを「ゼロ戦の教訓」から学ぶべきだ。

    古賀茂明(こが・しげあき) 
    1955年生まれ、長崎県出身。経済産業省の元官僚。霞が関の改革派のリーダーだったが、民主党政権と対立して11年に退官。『日本中枢の狂謀』(講談社)など著書多数。ウェブサイト『DMMオンラインサロン』にて動画「古賀茂明の時事・政策リテラシー向上ゼミ」を配信中。最新刊『日本を壊した霞が関の弱い人たち 新・官僚の責任』(集英社)が発売中

    「長距離攻撃を前提とする反撃能力の保有には、日本の防衛の基本戦略を根底から変えるリスクがあるということを『ゼロ戦の教訓』から学ぶべきだ」と語る古賀茂明氏


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【歴史】ゼロ戦は日本の戦争を変えた。では「反撃能力」を保有したら、どうなる?】の続きを読む



    最後まで生き残った。

    1932年に就役した高雄型は、日本最後の重巡洋艦です。本型の後に造られたのは全て軽巡洋艦でした。ただ、旧日本海軍は本型を極めて重視していたようで、節々にその運用思想を感じ取れます。どのような巡洋艦だったのか見てみます。

    書類上、最後の日本製重巡となった高雄型

    いまから90年前の1932(昭和7)年5月31日、旧日本海軍の高雄型重巡洋艦(一等巡洋艦)の1番艦「高雄」が就役しました。ちなみに2番艦「愛宕」は「高雄」より2か月早い3月30日に、3番艦「摩耶」と4番艦「鳥海」は「高雄」就役の1か月後、6月30日に同日付けで就役しています。

    つまり、1932(昭和7)年は高雄型4隻がそろって就役した年といえるでしょう。なお、高雄型の次に建造された最上型や利根型は、書類の上では軽巡洋艦(二等巡洋艦)として計画され、戦没後も重巡洋艦に分類されることなく終わっているため、高雄型、とりわけ3番艦「摩耶」と4番艦「鳥海」は日本で竣工した最後の重巡洋艦とも言われています。

    ある意味、旧日本海軍重巡洋艦の集大成ともいえる高雄型、どのような軍艦だったのか改めて振り返ります。

    高雄型重巡洋艦のひとつ前のクラスというと、妙高型重巡洋艦になります。このクラスは、1928(昭和3)年から翌1929(昭和4)年にかけて「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」の4隻が竣工していますが、他国の重巡洋艦が主砲8門なのに対して、2門多い10門を搭載し、速力も、当時世界最速の35.5ノット(約65.7km/h)を発揮、さらに世界最大の61cm魚雷を12門装備した重雷装も有しており、それらの特徴から「世界最強の巡洋艦隊」と言われていました。

    その妙高型を改良したのが高雄型です。1番艦の「高雄」と2番艦の「愛宕」は、中止された八八艦隊計画で建造予定だった巡洋戦艦の名前を引き継いだことから、旧日本海軍の期待の大きさがうかがえます。

    なお、妙高型は「重巡に魚雷は不要」の信念を持つ平賀大佐の設計でしたが、高雄型では、妙高型に魚雷を装備する改設計を行った藤本大佐が設計主任となりました。

    当初は妙高型に分類

    当初、高雄型は妙高型の5~8番艦として建造される予定で、艦籍にもそう書かれていました。しかし、1928(昭和3)年に「妙高」の主砲公試をしたところ、砲弾の散布界が広い欠点が発覚します。

    主砲6門の青葉型と比べ、「妙高」は命中率が悪かったのです。原因は、細長い船体の両端に主砲塔を分散配置したため、発射の衝撃で船体がねじれ、射撃精度が悪化したからだとのこと。そのため、高雄型では前後の主砲塔間隔を8.5m短縮しました。

    このことは主砲弾の散布界縮小にあまり効果がなかったものの、主要防御区画が5.2m短縮されたことにより、弾薬庫と火薬庫の舷側装甲を妙高型の傾斜102mmから、傾斜127mmに増やせ、防御力を向上させることに貢献しています。

    また艦橋構造物を大型化し、射撃指揮所を四脚構造に改め、その架台も改良しました。これにより、射撃方位盤の左右振動を妙高型の8mmから、ほぼ0に抑え込むことに成功し、射撃精度の向上に寄与しています。

    主砲も妙高型の200mm砲を203mm砲に変更し、貫通力と射程に優れる九一式徹甲弾を撃てるようにした他、最大仰角も70度に上げて対空射撃をできるようにしました。しかし、同じ砲を搭載した空母「赤城」での主砲対空射撃試験は成績不良で終わったため(イギリスもカウンティ級重巡で同じ失敗あり)、4番艦の「摩耶」では仰角を55度に減らしています。

    なお、対航空機用の高角砲(高射砲)は妙高型と同じ12cm高角砲ですが、設計時に主砲による対空射撃が可能になったと判断されたことから、その数は6門から4門へと減らされています。

    水雷兵装は61cm連装魚雷発射管を4基8門搭載しています。妙高型の6基12門と比べると減少していますが、次発装填装置を搭載したことで次の魚雷を装填できるようになったため、戦力減は少ないと考えられていました。

    完成したら1万トン超えちゃった

    高雄型は、ほかにも妙高型と比べて航空兵装が強化されており、水上機射出用のカタパルトを妙高型の1基から2基へと増強、搭載機数も妙高型の2機から3機へと増やしています。

    ほかにも居住区の拡大や通風能力強化により、乗員の居住性も改善されました。また、高雄型は4隻全てに艦隊旗艦としての設備を備えていました。妙高型は4隻中2隻にしか旗艦設備が設置されていなかったことを鑑みると、本型が重要視されていたことが伺えるでしょう。

    ただ、運用するうえでの様々な要望を盛り込んだ結果、艦橋構造物が巨大化し被弾面積が増加するというデメリットも生じています。これについては、イタリアのプリエーゼ造船中将が「日本は要求を取捨選択できないから、このような巨大な艦橋になるのではないか」と、危惧したほどだったとか。

    こうした艦橋構造物の肥大化もあり、高雄型は完成時の基準排水量が1万1350トンと、ワシントン海軍軍縮条約で設けられていた制限1万トンを越えていました。その結果、諸外国からは「高雄型は条約型重巡で全般的に見て最強」としながらも、排水量オーバーを指摘されています。

    ただ、各国の重巡洋艦も、アメリカポートランド級は1万258トン、ウィチタは1万590トン。ヨーロッパに目を転じると、フランスのシュフラン級は1万1136トン、イタリアのザラ級は1万1680トン、ドイツアドミラル・ヒッパー級は1万4454トンと、排水量を超過した例が多々ありました。

    なお、イギリスでもケント級は排水量9750トンですが、軍縮条約がまだ有効であった1935(昭和10)年に、舷側装甲の厚さを25mmから114mmへと増やしているため、これにより1万トンを越えていた可能性は否定できません。

    就役後6年で大改装

    高雄型重巡洋艦は、完成時こそ優秀と認められていたものの、その後、生まれた最上型軽巡洋艦(後に重巡化)の方がより高性能だったこともあり、就役から6年しか経っていない1938(昭和8)年には早くも「高雄」「愛宕」に近代化改装が施されています。

    高角砲は12.7cm連装砲4基8門に換装、雷装も九二式4連装発射管4基16門に換装され、より高性能な酸素魚雷の使用も可能になるなど、大幅に強化されています。巨大な艦橋も容積比で従来と比べ4分の3に縮小され、被弾面積を減らしています。

    航空兵装もカタパルトと揚降用クレーンの強化、飛行機作業甲板の設置といった改良が行われ、搭載機数も4機に増えました。

    機関は、半数のボイラー(汽缶)に蒸気加熱機を装備し、出力を3000馬力増やした13万3000馬力へと向上させています。ただ、こうした改装によって基準排水量が1万3400トンに増加したことで、浮力を維持するために大型バルジを設置した影響などから、速力は35.5ノット(約65.7km/h)から34.25ノット(約63.4km/h)に低下しています。

    主砲も1931(昭和6)年に試作した、3号20cm砲(20.3cm55口径の長砲身新型砲)の試験結果が良好だったことで、換装が検討されましたが、予算の関係で断念されました。ただ、最新の九八式発砲遅延装置を装備したことで、命中率はやや向上したようです。

    太平洋戦争を生き抜いた「高雄」

    大改装は「鳥海」「摩耶」にも行われる予定でしたが、1941(昭和16)年12月太平洋戦争が始まった影響で間に合わず、この2艦については酸素魚雷の運用能力と航空艤装の改良という限定的な改装で終わっています。

    なお「摩耶」については、1943(昭和18)年の損傷復旧時に、主砲塔1基を降ろし、そのぶん対空兵装を強化して防空巡洋艦へと変貌を遂げています。具体的には、12.7cm連装高角砲6基12門、25mm機銃66門、13mm機銃36門を備えており、1944(昭和19)年6月に起きたマリアナ沖海戦では、空母「瑞鳳」「千歳」「千代田」らの護衛に就いて勇戦しました。

    しかし、その半年後に起きたレイテ沖海戦潜水艦の魚雷を受け、「高雄」が大破、「愛宕」「摩耶」は撃沈されます。「鳥海」も直後のサマール沖海戦で航空攻撃により失われ、高雄型は壊滅しました。

    ただ1隻、沈没を免れた「高雄」は、損傷しながらもシンガポールに到着。修理のためドックに入ったままで搭載する高角砲などを射撃し、来襲したアメリカ軍B-29大型爆撃機を撃墜するなどの戦果を挙げますが、そのまま終戦を迎えます。

    こうして、戦火を生き抜いた「高雄」でしたが、接収したイギリス海軍の手により、終戦翌年の1946(昭和21)年10月下旬、マラッカ海峡で処分されました。

    高雄型重巡は日米主力艦隊同士の艦隊決戦に向け、夜戦戦力の中核として建造され、同世代重巡で最強の艦型でした。ただ太平洋戦争中では、想定した艦隊決戦は発生せず、搭載魚雷の不備や消極的な戦闘指揮で、結果が出ない戦闘もありました。とはいえ、高雄型各艦とも水上戦闘で戦果を挙げており、建造目的を全うした艦型だったのではないでしょうか。

    太平洋戦争前に撮影された高雄型重巡洋艦4番艦「鳥海」(画像:アメリカ海軍)。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【艦橋は城郭のよう 日本最後の“重”巡洋艦「高雄型」は世界最強の条約型巡洋艦か?】の続きを読む



    公害も起きていた。

     修学旅行はどこに行かれましたか? 小、中、高、のいずれかで「京都・奈良・大阪に行きました」という人は多のではないでしょうか。そして、奈良に行ったならば、十中八九、いや、100%の確率で対面することになるのが、奈良の大仏と鹿でしょう。

    奈良の大仏
    ©Sakosshu Taro
     今回の記事では、歴史好き芸人・房野史典氏(@broadbouno)が超現代語訳で面白く、そしてNHK歴史探偵でおなじみ河合敦氏(@1ne15u)が最新歴史研究からアカデミックに洗いなおした『面白すぎる! 日本史の授業』(あさ出版)から「奈良の大仏」にまつわるエピソードを紹介します。

     なぜあんなにも大きな大仏を造る必要があったのか? 意外と知らないその理由を解説していきます(以下、同書より一部編集のうえ抜粋)。

    仏教推しの天皇が奈良の大仏を造った

    「奈良の大仏」は、正式には東大寺盧舎那仏坐像といって、この仏像を造立したのが、聖武天皇です。しかし、そもそも聖武天皇は、なぜあんなに大きな大仏と東大寺を造ったんでしょう? 

     簡単に言ってしまえば、聖武天皇が、「超の付くほど仏教推しの天皇だったから」なんですね。聖武天皇の在位期間に世の中が荒れすぎて、「もう仏教に頼らなやってられん」となってしまったから、奈良の大仏を造った。

     じゃあ一体、「何がどう荒れたのか?」というところをざっくりと解説していきましょう。まずはこちらをご覧ください。

    藤原不比等→長屋王→ 藤原四子→橘諸兄

     これは、奈良時代に天皇の下で政権を担当した人物の変遷で、長屋王のときからが聖武天皇の時代です。藤原鎌足の息子・藤原不比等が亡くなったあと、政権を担っていたのは皇族の長屋王でした。

     ところが、聖武天皇の第一皇子・基王が生後1年に満たず夭逝すると、「基王の夭逝は長屋王の呪詛(呪い)によるものだ! 長屋王は国家を傾けようとしている!」との密告があり、藤原四子(藤原四兄弟)の1人・藤原宇合(うまかい)が長屋王の邸宅を包囲し、長屋王を自殺に追い込んでしまうんです

    次から次へと事件が巻き起こる

    房野史典
    房野史典氏
     長屋王と政治的に対立していた藤原不比等の息子たち・藤原四子は、長屋王に謀反の罪を着せて政界からもこの世からも葬り去ってしまったんですね(長屋王の変)。

     こうして、政権の担当者は藤原四子に移るのですが、なんとこのとき流行していた天然痘で、四兄弟が相次いで亡くなってしまいます。そうなるとまたもや政権担当者が移り変わり、バトンは皇族の橘諸兄が受け取ることに。藤原氏(不比等)→皇族(長屋王)→藤原氏(四子)→皇族(橘諸兄)ときてますから、今度もまた藤原さんが事件を起こしそうな雰囲気ですが、そうですね、バッチリ起こします。

     前述の藤原宇合の長男・藤原広嗣が、橘諸兄に重用された吉備真備と玄昉の更迭(地位のある役目から降ろすこと)を求めて、九州の大宰府で反乱を起こすんです(藤原広嗣の乱)

    5年のうちに4度も都を変える!

     もしも、あなたが聖武天皇の立場だったらどうでしょう。最愛の息子を亡くし、政治のトップが自殺するという事件が起こり、それを実行した四兄弟も伝染病で亡くなったうえに、当然その伝染病が世の中的にも大流行……。一体自分の周りでは何が起きているんだと感じたところへ、ダメ押しと言わんばかりのデッケー反乱。おまけにこのときは飢饉です。平静を保っているほうが異常じゃないでしょうか。

     止まない政争、伝染病、反乱、飢饉。さまざまな災厄が重なった聖武天皇は、「都を移すぞ!」という決断を下します

     政治の安定を図るためなのか、疫病や反乱から逃れるためなのか。実は、決定的な理由はハッキリとわかっていないのですが、聖武天皇は遷都を決行。ただし、一度きりのお引越しじゃありません。5年の間に4度も都を変えます。

    平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京

     近畿地方の中をグルグルグルグルしたあと、最後はもとの平城京。朝廷の中の1人くらいは思ったでしょう。「いや戻るんかい」と。そして、聖武天皇はこの遷都と並行して、「この荒れた世の中を、仏教の力で護っていくぞ!」という政策を打ち出すんです。

    聖武天皇の「鎮護国家思想」とは

     そうして出された仏教政策の1発目が国分寺建立の詔(741年)で、各国の国府が置かれている地に、国分寺と国分尼寺を1つずつ建てなさいと命じたんですね(光明皇后のすすめがあったとも言われています)。東大寺は全国の国分寺の総本山、総国分寺です。

     そこから2年後には、大仏造立の詔(743年)が発布され、この詔勅によって造られたのが、ご存じ「奈良の大仏」だったんです

     当初、大仏は紫香楽宮に造られる予定だったのですが、事業は難航。平城京に都が戻ると造立が再開され、民衆から人気のあった行基の協力もあり、752年、孝謙天皇の代になって開眼供養会がおこなわれたのでした(聖武天皇は譲位して聖武太上天皇となっています)。

    お坊さん
    画像はイメージです
     世の中の乱れから「仏教の力で国を安定させ護まもっていく」という「鎮護国家思想」にたどり着いた聖武天皇。2つの詔では、自らの政治を反省して民衆の幸福を願ったり、造立を理由に民から無理な税を取り立てないよう役人に説いていたりと、文書から仁政を心掛ける真心が伝わってきます。

     ですが、大きな事業には民衆へのシワ寄せがつきもの。行基の力を借りたのも、裏を返せば、それまでは人々から満足な支持を得ることができていなかったと言えるわけです

    使用した錫は8.5トン、金は400キロ以上…!

    面白すぎる!日本史の授業: 超現代語訳×最新歴史研究で学びなおす
    面白すぎる!日本史の授業: 超現代語訳×最新歴史研究で学びなおす(あさ出版)
     当時の記録には残っていませんが、やっぱり弊害は確実にあったと思います。東大寺の大仏(盧舎那仏)は高さ16メートルもある巨大な像で、これを造るには約500トンの銅が必要だったのです。莫大な量ですよね。その多くは、長登銅山(山口県)の銅でまかなったことがわかっていますけれど、こうした銅のかたまりを運ぶ作業は、当時としては大変な労力だったと思います

     運ばされる庶民は、きっと大きな負担だったことでしょう。しかも大仏の本体は、そんな大量の銅と錫を火で溶かして混ぜ合わせ、青銅という合金にしたうえで鋳型に流し込んで造るのです。この鋳込み作業は、3年間で8回にわたっておこなわれ、使用された錫は8.5トンにのぼったと言います

     液体になった青銅の温度は1000度を超え、とても危険な作業でした。大失敗した痕跡も発掘調査で判明しています。きっとこの事故で、多数の死傷者も出たのではないでしょうか。ちなみに、完成した頃の東大寺の大仏は、金色に輝いていました。青銅製の大仏に金メッキを施ほどこしたからです。使用した金はおよそ400キロ以上! しかも、当時の日本列島は金が採れなかったのです。ですから聖武天皇は、お隣の中国(唐)や朝鮮半島から調達してくる予定でした。

    金メッキで大量の水銀が発生?

     そんな矢先「陸奥国(東北地方)から金が出たぞ!」という知らせが届いたのです。あまりのうれしさに聖武天皇は、時の元号を「天平」から「天平感宝」に改めるほどでした(同年の内に天平勝宝に改元)。

     しかし問題なのは、大仏に鍍金(金メッキ)をおこなう作業でした。大量の金は、水銀に溶かしてアマルガムと呼ぶドロドロのペースト状にしたうえで大仏に塗りつけます。そして、その作業が終わると、今度は表面を火で焼いて水銀を蒸発させ、金を大仏の身体に定着させるのです。

     この際、作業員や住民の多くが大量の水銀を吸い込んだと思われます。言うまでもなく、水銀は有毒物質です。ですから身体を壊して苦しんだ人が多数出たと推定されているのです。これは日本初の大規模公害と言えるかもしれませんね

     この造仏事業に動員された人数は、延べにして260万人以上。当時の人口は600万人程度と推定されていますから、単純計算で全人口の半数近くにあたります。スケールの大きさにビックリしますね!

     しかも同時進行で、聖武天皇は各国に国分寺や国分尼寺という馬鹿デカい寺を建てていますから、こうした仏教興隆事業は莫大な出費をともないました。仏教の鎮護国家の思想を信じてこの事業を進めた聖武天皇ですが、寺院や大仏の造立で世の中が平和になるどころか、多くの人々が困窮することになったのは間違いないでしょう

    大仏が未完成のまま開眼供養?

    奈良の大仏

     天平勝宝4(752)年4月9日東大寺大仏殿において「大仏開眼供養会」がおこなわれました。大仏に眼を描くことで魂たましいを入れて完成させる儀式です。でも、大仏はまだ完成しておらず、金メッキもあまり施されていなかったと言います。にもかかわらず開眼供養を急いだのは、聖武上皇が「自分が生きているうちに実施したい」と考えたからです。

     実は聖武上皇は体調が悪く、いつ没してもおかしくありませんでした。病気がちになり、天平感宝元(749)年に出家して新薬師寺を行在所(屋敷)とし、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に皇位を譲っています。

     ただ、譲位してからもたびたび造仏事業を見学に訪れる執心ぶりで、時には自らも作業に加わったと伝えられています。おそらく聖武上皇は、この事業に国の平和という大きな望みをたくしていたのでしょう。

    黒目を入れたのはインド人

     大仏開眼供養会で、大仏に墨で黒目を入れたのは聖武上皇ではなく、驚くことにインド人でした。菩提僊那という僧です。実はこの儀式には、インド人のみならず、中国やベトナム出身の高僧たちも多数参列していたのです。まさに国家的大イベントだったわけです。

     こうして無事、大仏開眼供養会が終わり、それから4年後、聖武上皇は56歳の生涯を閉じました。おそらく本人は本望だったかもしれませんが、仏教興隆事業の陰で、重税や強制労働を課された多くの庶民は、塗炭の苦しみを味わうことになったのです

     しかも大仏が完成してからも平和になるどころか、政変が続きます。聖武上皇が亡くなるとすぐに皇太子の道祖王(ふなどおう)が失脚、翌年、権力者だった橘諸兄の子・奈良麻呂とその一派が謀反の疑いで拷問されて殺され、数年後には奈良麻呂の乱を制した藤原仲麻呂が恵美押勝の乱を起こして敗死、乱後、権力を握った道鏡も数年後に失脚しました。

     蝦夷(えみし)との戦いも泥沼化状態(三十八年戦争)に陥っています。そういった意味では、聖武天皇(上皇)の願いは成就しなかったわけです。

    TEXT/河合敦 房野史典>

    房野史典(ぼうの ふみのり)
    1980年岡山県生まれ。名古屋学院大学卒業。お笑いコンビブロードキャスト!!」のツッコミ担当。無類の戦国好きで、歴史好き芸人ユニット「ロクモンジャー」を結成するなど、意欲的に歴史普及活動を行っている。子どもたちに歴史の面白さを教える授業(YouTube「STUDY FREAK」など)も好評で、歴史専門家からの信頼も厚い

    【河合 敦】

    歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。1965年東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。 早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。 Twitter:@1ne15u

    ©Sakosshu Taro


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【歴史】超ブラック労働だった「奈良の大仏」建立。多数の死者に“大規模公害”も】の続きを読む


    情報が漏れていた。

    1 朝一から閉店までφ ★ :2022/06/05(日) 21:44:56.99

    2022.06.05

    神立 尚紀カメラマン・ノンフィクション作家

    いまから80年前の昭和17(1942)年6月5日、それまで無敵を誇っていた日本海軍は、ミッドウェー海戦で、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母4隻を撃沈され、開戦以来はじめての大敗を喫した。
    圧倒的に優勢な戦力を擁しながら、劣勢のアメリカ艦隊に敗れたこの戦いが、「あの戦争」の一つのターニングポイントになったことに、議論の余地は少ないと思う。80周年を機にミッドウェー海戦を振り返るシリーズ、第1回は、この戦いについての総論である。
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95835?page=1&imp=0






    ミッドウェー作戦案

    昭和16(1941)年12月8日、日本陸軍のマレー半島コタバル上陸、次いで海軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争(大東亜戦争)の火ぶたが切られた。日本軍は緒戦で米英軍を圧倒、またたく間に東南アジア全域を制圧する。

    開戦の最大の目的であった蘭印(現・インドネシア)の資源地帯の確保はこれで果たされたが、いったん始まった戦争は簡単には終わらない。次の作戦をどうするのか、海軍部内でも議論が分かれていた。

    山本五十六聯合(れんごう)艦隊司令長官は、早期に戦争の決着をつけようと、積極的な作戦構想を抱いていた。ハワイと日本の中間点に位置するミッドウェー島を攻略することで米空母部隊を誘い出し、これを一挙に撃滅しようとの企てである。

    いっぽう、作戦全般をつかさどる海軍軍令部は、堅実な長期戦の態勢を作ろうと、サモア、フィジーとニューカレドニアを攻略して、アメリカとオーストラリア間の海上交通と航空路を遮断する作戦(FS作戦)を考えており、ミッドウェー作戦には消極的だった。

    だが結局、開戦以来強い発言力を持っていた山本長官に押し切られる形で、4月5日、軍令部はミッドウェー作戦案を承認する。このとき軍令部は、北からの脅威に備えるために、北太平洋の米領アリューシャン列島西部の要地をミッドウェーと同時に攻略することを提案し、聯合艦隊もこれに同意した。

    だがアメリカ軍も、反撃の機会を虎視眈々と狙っている。






    軍令部が態度を一変
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95835?page=2


    【【特集】 80年前の今日は「ミッドウェー海戦」…勝てるはずの戦いは、なぜ「無残な大敗」に終わったのか】の続きを読む


    歴史が変わるのかな?

    1 朝一から閉店までφ ★ :2022/06/02(木) 12:48:12.33

    2022.06.02

    科学の成果が、歴史を裏付けた
    藤田 達生歴史学者

    「通説」を「科学」の視点からくつがえして大反響を呼んだ『日本史サイエンス』は、このほど第二弾が刊行され、たちまち重版が決まるなど話題となっている。著者の播田安弘氏が試みる「数字」で歴史を読む手法は、専門家もその意義を認めるところで、
    なかでも織豊期研究の第一人者・藤田達生氏(三重大学教授)は、同書(第一作)で展開された「中国大返し」についての大胆な仮説におおいに共感し、ここに掲げる論考を執筆した。旧暦では本能寺の変から440年目にあたるきょう、改めて公開する。

    藤田氏自身、最新著『戦国日本の軍事革命』では信長・秀吉らの天下統一を火器と兵站システムに注目して読み解く新視点を展開しており、いま、戦国時代研究は新しいフェーズに入った!
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95480






    実際の行程を推定してみる

    本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城(岡山県岡山市)から、光秀との決戦の場となった山崎(京都府大山崎町)までの常識を超えた高速の行軍だったとされている。



    (写真)
    6月5日~13日、高松から山崎まで8日間で走破した「中国大返し」の行程図(筆者の推定)


    『日本史サイエンス』第2章「秀吉の大返しはなぜ成功したか」において著者の播田安弘氏はこの行軍を、読者が理解しやすいよう、約30kmをコンスタントに8日間歩いたという想定のもとで難易度を科学的に考察している。

    ただし実際の中国大返しは表に示したように、備中高松から秀吉の本城だった姫路城(兵庫県姫路市)までの前半と、姫路城から山崎までの後半では、異なる性格をもっていたと考えられる。


    (写真)
    中国大返しでの日ごとの移動距離と宿営地


    前半は、毛利軍の追尾を警戒して2~3日間で92kmを走破するという猛烈に速い進軍だったのに対し、後半は、明智光秀側の動きもにらみながら慎重に行軍している。たとえば、光秀と親しい土佐の長宗我部元親の摂津上陸を阻むため、別動隊が淡路を攻撃したのは効果的だった。

    筆者は、実際の1日あたりの平均行軍距離は、前半3日間は約30km、後半5日間は約20kmだったと判断する。また、前半の姫路城に帰るまでに必要な物資は、ふだんから用意されていたと考える。そして姫路城において、6月9日からの後半の行軍に必要な物資が、総がかりで準備されたとみるべきであろう。





    おにぎり20万個を用意できるか?
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