令和の社会・ニュース通信所

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    カテゴリ:国内 > 歴史


    徳川幕府は約260年も続いた。

    約260年つづく維持管理体制を築き上げた天下人・徳川家康。家康は長くつづく体制をどう築いたのか。作家の童門冬二さんは「安定を最も重要視した家康は『出る杭を“必ず”打つ』ために、人間の欲望を理解し、巧みな支配で人を操った」という――。

    ※本稿は、童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

    ■人間の切実なニーズを逆用する

    家康の、「人間の切実なニーズを逆用する方策」にはさまざまあるが、目に見えるものとしては藩をつくったことである。藩という言葉の意味は、もともと囲いとか垣根の意味だ。これは分断思想の表れである。

    そうなると交通も自由にさせない。関所を設けた。川の渡しには番所を設けた。日本人が旅行するのにはそれぞれ目的が必要とされた。目的いかんによっては旅行を認めない。特に庶民は伊勢神宮に行くとか、高野山にお参りするとか信仰上の理由や家族に病人が出た、などという他は全く身動きできなくなった。

    特に大都市の町々や各長屋では、入口に木戸が設けられた。午後6時に締まり翌朝午前6時に開けられる。したがって夜の12時間は完全に牢屋の中に入っているのと同じだ。檻の生活である。

    家康はこうして日本中に檻をつくった。檻の中に人びとを閉じ込めた。これが徳川家康における、「日本の維持管理体制の確立」の実態である。

    ■好都合な「武士の心構え」を植えつける

    徳川家への忠誠度を物差しに、また人間の欲望を抑えつけてその逆エネルギーによって体制を維持する、ということは終始守られた。そのことを最も端的に表したのは、

    「幕府の政策を批判してはならない」

    ということである。

    批判者はつぎつぎと罰された。もちろん、幕府に背くような大名は仮借なくその疑いだけで潰された。この物差しによって次々と滅ぼされた大名の家臣が失業して浪人問題を引き起こしたことは周知の通りだ。

    こういう幕政への批判をあまねく食い止めるために徳川幕府は教育を重視した。教育といっても後代に教えるべきことはもう決まっていて、中国の朱子学である。

    朱子学を持ち込んだ最大の理由は、

    「武士の心構え」

    が設定できたことである。

    武士の心構えが設定できたというのは、徳川時代に入って新しく忠義の観念を植えつけたことだ。

    ■「忠義」を生み出して乱世を統治

    忠義の観念とは、

    「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」

    という精神的な掟である。

    つまり江戸時代の前は忠義という観念はあまりなかった。元禄年間にはいってさえ赤穂浪士仇討ちが、堀部安兵衛によってはじめて君主の位置を父と同様に置き、仇討ちの対象にできるという理論構成をしたことでもわかる。

    戦国の気風を多く残す江戸時代初期はまだ下剋上の論理が横行していて、

    「部下の生活を保障できない主人は主人ではない」

    という現実重視の考え方が支配的だった。

    が、これでは困る。というのはもう日本の国を自由に切り取りできるような状況は去った。大名にしろ農民にしろ所有する土地は全部固定されてしまったのである。勝手に自由にはできない。そうなってくると、かつてあれほど一所懸命の思想で武士が目の色を変えていた土地を自由に与えたり取ったりすることもできない。全般が“固定社会”に移行しつつあった。

    ■「トップに都合の良い」精神を教育するシステム

    そういう中では物欲をおさえるためには精神力によらなければならない。その精神力をなににするか、という点で徳川幕府は、「武士における忠誠心」というものを考えだしたのである。それも、

    「たとえ主人が能力を欠いていても、主人は主人だ。臣下は忠節を尽くさなければならない」

    というトップにとってはなはだ都合の良い論理をつくりだした。

    こうしておけばたとえ生活の保障能力を欠いているトップでも、仕える部下は全能力を発揮してこれを支えなければならない。トップが充分に能力を発揮できないのは部下が仕事を怠けているからだ、それは忠誠心が足りないからだ、という論法である。

    この忠義を核にした武士道は武士だけに限らず、町人社会にも適用された。元禄期ころ、多くの商人が家訓をつくっているが、その根底にあるのは武士道と同じ考え方である。こうして子どものころからすべての日本人に、君に忠、親に孝という身分と長幼の序をシステム化した教育がおこなわれ、またそれを実行するシステムが強固につくられた。

    したがって徳川幕府における進行管理は、物心両面によって蟻の這い出る隙間もないような緻密な制度によっておこなわれたといえる。

    ■反乱者を挑発→弾圧して「見せしめ」

    が、それだけで足りず幕府は時折、大名や旗本や浪人や庶民を挑発した。つまりこんながんじがらめの社会制度の中で、これでもかこれでもかと人間一人ひとりの自己主張や人格尊重欲を抑圧するような政策をとれば反発する人間も出てくる。

    しかし幕府はそういう反発をすべて抑え込もうとして制度を厳しくしているわけではない。固い教育をしているわけではない。

    ときには、「反乱者が出たほうがいい」と思っていた。鎮圧を大々的にPRして弾圧の実績が示せるからである。これにひっかかって由井正雪や多くの浪人たちが乱を起こした。島原の乱も考えようによってはその例だ。抑圧と疎外に対する反抗心の爆発である。

    が、幕府はすでに強大な武力と権力を持っていたから、ものの見事にこれを鎮圧していよいよ幕府の勢威を固めた。

    これは生きた国民へのテキストであった。日本人はこういう実例を次々と見せられて、大名も旗本も浪人も庶民もすべて抵抗心という牙を失っていった。皆丸く摩滅していったのである。徳川時代の太平はそれで保たれた。

    ■足を引っ張りあう評価システムを確立

    戦国時代と違って太平時代の業績評価は、やはり民をどのように平穏に治め、また幕府をどのように富ませ、いかに大過なく毎日を過ごせるか、そういう施策をおこなった人間が優遇された。

    つまり人間を「小さく小さくなあれ」の境地に追い込み、また無事大過なく日常が過ごせるような連中が最も高く評価された。

    ことを起こす人間は嫌われた。出る杭も必ず打たれた。後世のお粥社会が巧妙に形成されていった。

    業績評価は鍋の中で煮られてアイデンティティを失ったふにゃふにゃのお粥たちがおこなうそれであった。お粥は米粒を嫌った。だから米粒が握り飯になるとすぐみんなで寄ってたかって足をひっぱった。徳川社会というのは、汁の中に権限と責任を吸いとられたふにゃふにゃの米粒の社会であった。

    したがって業績評価は、

    「無事大過なく生涯をまっとうできるかどうか」

    という物差しによって判断されたのである。

    ■常に全員を「慢性飢餓症」の状態にする

    徳川家康は人間を、「慢性飢餓症」の状態に置いて、逆流してくるパワーを国家経営のエネルギーに使った。かれは日本人を決して満腹にはさせなかった。お腹が満たされるとろくなことは考えない。

    「人間は常に飢えさせておくに限る、腹八分目にすべきだ」

    という考えだ。かれ自身がいつも粥ばかり食っていたからそういうことを他人に強いてもなんとも思わなかったのだろう。

    また、小さい時からかれは人質になって成人するまで他人の冷飯を食った。それだけに性格が暗くなり、他人をいじめてもあまり感じない人間になっていたのかもしれない。人質時代の報復を日本人全体に及ぼしたといってもいい。

    この辺に、かれの組織力の限界、あるいはマイナス面の原因があった。

    ■江戸幕府が260余年で限界を迎えた理由

    たとえ二百六十余年間維持されたとしても、結局、徳川幕府は潰滅してしまった。

    その原因は、幕末になって急に生じたのだろうか? そうではない。その原因ははじめからあったが、歴代の実権者がなんとか抑えてきたのだ。おもに制度と力によって。だから、「クサイものにはフタをする」という面もたくさんあった。

    これはやはり、徳川家康の組織力の限界であると同時に、“組織される側”から見ると、万人が家康の組織力、あるいは人物を全面的に支持していなかったことを示している。家康の組織力の限界つまり徳川幕府のマイナス面である。

    家康がつくりだした、日本の、「維持管理型組織」とは、「幕藩体制」である。幕府という親ガメと藩という子ガメで、日本の社会と人間を、中央=地方という体制内に全部封じこめようということだ。このため、家康は信長や秀吉が廃止した関所や番所を再び復活した。さらに藩をつくった。「藩」という「かこい」を列島上に二百数十つくった。

    が、こういう“容れもの”だけで、それまでに高まっている国民のニーズを抑えることはできない。よりよい生活を求める。解放された人間の欲望は無限の増殖作用を起こす。

    ■ハードとソフトで、欲望を抑え込む

    制度というハードな“容れもの”(環境・社会)への制約だけで、民衆の欲望が抑えきれない、とみた家康は、そこで今度はソフト面に目を向けた。つまり、「人間の意識の抑圧」である。

    このために、かれはどういう組織力を発揮したのか? 一言でいえば、そのためのかれの組織力は、「その時代に生きていた人々のニーズを逆に抑え込む」ということであった。

    その時代に生きていた人々のニーズを逆に抑え込むというのは、ニーズを実現しないということである。ニーズを否定する方向で組織づくりをし、否定されたニーズが頭をもたげようと壁を破り土を起こせないように、壁を厚くし、覆土してしまうということである。

    日本人の欲望を抑え込むことによって、「高密度管理社会」といわれる、「幕藩体制」を実現したのである。

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    童門 冬二(どうもん・ふゆじ)
    歴史小説家
    東京都企画調整局長、政策室長などを歴任し、1979年に作家として独立。著書は『小説上杉鷹山』『異説新撰組』『小説二宮金次郎』『小説立花宗茂』など多数。

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    狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【歴史】出る杭は100%打つ…家康が「無能なトップに忠誠を誓う部下」を大量生産するために考え出した驚きの屁理屈】の続きを読む


    調べているのかな?

     ロシアによるウクライナ進攻では、お金で雇われ戦地に赴く傭兵の存在が、クローズアップされている。

     日本の傭兵といえば、大量の鉄砲を使いこなし、石山本願寺側の人間として織田信長に立ち向かった「雑賀衆」と呼ばれる軍団が知られている。

    「雑賀衆」では雑賀孫一こと鈴木孫一が有名だが、もうひとり、忘れてはならない人物が佐武伊賀守義昌だ。はじめ佐竹姓を名乗っていたが、室町幕府15代将軍・足利義昭の命を受けて、佐武姓となったと伝わっている。

     天文7年(1538年)生まれ。伊賀守を名乗っているが、実は正式な官位はもらっていない。伊賀守は自称だ。

     紀州雑賀の鷺ノ宮の豪族だった伊賀守は雑賀衆にひとりで、幼少の頃から鉄砲の打ち方を学び、超一流の腕を身につけたとされている。スゴ腕のスナイパーだ。

     天文18年(1549年)、12歳で初陣を果たし、その後は根来寺の子院福宝院の行人となる。戦闘訓練に明け暮れ、さらに鉄砲の腕を磨いていった。

     傭兵として初めて出稼ぎに出たのは、永禄3年(1560年)。当時、土佐は長宗我部国と本山茂辰が舅と婿の関係ながら、争っていた。伊賀守はその腕を見込まれて両軍から誘いがかかったが、田畑70町歩(約69.4ヘクタール)の報償を条件に、本山方についた。詳しい計算は省くが、1町歩の4.7個分が東京ドームの広さに相当する。70町といえば、東京ドーム約15個分にも相当する広大な土地だ。だが、次第に本山方は長宗我部方に押され、戦況が悪化。伊賀守は土地を手にすることなく、土佐を去った。

     元亀3年(1570年)、三好家(大将は結城忠正と根来の玉宝)の織田家攻撃に参加。その後も石山本願寺に加担して、信長勢を相手に活躍した。

     宿敵・信長の死後は雑賀に戻ったが、豊臣秀吉が天正13年(1585年)に行った紀州攻めの際に降伏し、弟の豊臣秀長の家臣となったという。

     慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は、新たに紀州の領主となった浅野家に仕えて500石を与えられ、大坂の陣に従軍。元和5年(1619年)、浅野家の安芸移封にも、80歳の高齢ながら従っている。

    (道嶋慶)

    アサ芸プラス


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    世代交代をする。

    1 夜のけいちゃん ★ :2022/10/26(水) 22:52:39.39ID:j6si+k7O9
    2022年10月25日 16時43分

     徳川家康の子孫にあたる徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんがことしいっぱいで退き、長男の家広さんが19代当主として家督を継ぐことが関係者への取材でわかりました。

     徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんは昭和38年、先代の死去に伴い家督を継ぎ、平成15年には徳川家に伝わる資料や文化財を保存・展示するため徳川記念財団を設立するなど60年近くにわたり当主を務めてきました。

    関係者によりますと恒孝さんは82歳と高齢であることなどを理由にことしいっぱいで当主を退くことを決め、長男の家広さんが19代当主として正式に家督を継ぐことになったということです。
    徳川家広さんは東京都出身の57歳。

    アメリカの大学を卒業後、政治や経済、歴史の評論家などとして活動し、3年前の参議院選挙静岡選挙区に立憲民主党から立候補しました。

    現在は徳川記念財団の理事長を務め、来年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の「浜松大河ドラマ館」の名誉館長にも就任しています。

    家広さんは11月から久能山東照宮や栃木県の日光東照宮など徳川家ゆかりの6か所を訪れ、先祖に当主の交代を報告する法要を行ったあと、来年1月1日に正式に家督を継ぎ、徳川宗家19代当主となります。

    ソース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221025/k10013869731000.html

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    加害者でもある。

    1 蚤の市 ★ :2022/10/13(木) 07:10:43.93ID:KxeJUqXZ9
    ? 太平洋戦争の敗戦直後、太平洋中西部に浮かぶサンゴの島・オーシャン島で日本兵が行った住民虐殺について、元日本兵が書き残していた手記を本紙が入手した。これまで、虐殺事件の具体的経緯は不明な部分もあったが、上官の命令を受け自分が銃を撃つまでの一部始終を苦悩とともにつづっている。専門家は「太平洋地域で起きた紛れもない事実。ただ、この分野の研究者は少なく、一般的にはほとんど知られていない。大変貴重な資料だ」と語る。(山本哲正)
     オーシャン島 東京から南東へ約5100キロの太平洋上に浮かぶ、ほぼ赤道直下にある島。キリバスに属し、現地名はバナバ島。産出するリン鉱石の資源的価値から、英国領になった後、太平洋戦争中に日本が占領した。

    ◆晩年に執筆開始、未完のまま死去
     元日本兵は茨城県日立市の関利保としやすさん(1918?89年)。遺族によると、1980年代半ばから執筆に取り掛かり、入退院を繰り返しながら晩年まで書き続けたが、未完のまま89年に死去。焼香に訪れた戦友が未完原稿の存在を知り、2、3ページ書き添えて冊子にまとめた。
     「オーシャン島守備兵の参戦記」と題したその手記は、B5判約70ページ。約10部が親族らに配られ、首都圏在住の関さんの妹(85)が本紙に情報提供した。
     手記によると、関さんは徴兵検査で合格。1938年に海軍に入り、42年に陸戦隊の一員としてオーシャン島へ上陸した。
     当時、オーシャン島は英領で、リン鉱石の採掘が進んでいた。ただ、飛行場のある島でもなければ、大きな諸島でもなく、戦略的に重要な島々からも離れていたため、地理的な価値はほとんどなかったとされる。日本が上陸した際にはほぼ島民しかおらず、無血占領だったという。旧日本軍の目的は化学肥料などに使うリン鉱石の採掘で、海軍陸戦隊や労働者など約600人が常駐したとされる。
    ◆「早くやれ」と言われて引き金を
     同島では、戦局の変化で食糧補給が困難になった43年、独身男性の約160人以外の島民を別の島に移した。残った若者は部隊に配属され、軍事教練を受けた。「人間同士。おのずと互いの心と心は通じた」「道であっても気軽にあいさつする好ましい状況にあった」と関さんは書き残す。
     しかし、敗戦を迎えて3、4日たったころ。兵舎に総員20数人が集められ、思いも掛けない命令が小隊長から下る。「残した全島民を今から処分する」「コメを盗んだと理由をつけて後ろ手に縛り、海岸に連行してただちに射殺」「最後の指揮官命令だ。総員心して掛かれ」
     関さんは「一人一人の名前や顔まで互いに覚え心が通じ合うほどに親しくなったのに」「胸が急に締め付けられ全身の力が抜け、膝ががたがたと音が聞こえるくらいに震えだし」と当時の心境を表現する。
     この命令で約160人が殺害された。このうち、3人に対し、関さんら6人も射手に指名され、士官の「早くやれ」の言葉を受けて引き金を引いた。「ざんきにたえず、知ってるかぎり彼らの名を心の内で呼び、予想もしない命令で尊い命を奪いさり、許してもらえないだろうが冥福を祈るだけでした」
    ◆「つらいことだが残したい」*直前まで苦しみ
     関さんは「戦時平時を問わず軍人は、上官の命令はすなわち天皇陛下の命令であり絶対的なもの。命令に背いたことをすれば銃殺にあたいした」とつづる。とはいえ、「『(小隊長以上の会合で)多数の人が反対していたら』と今でも思い出すことがある」とも書き残している。
     関さんの妹は「『つらいことだが、残したい』と言い、苦しみながら書いていた。*直前までワープロに向かっていました」と生前の兄を振り返る。めいは「そういった現実が戦時下には存在するという事実が伝われば」と話している。
    ◆「*行軍」「ハンセン病」当時の軍隊生活も
     (略) 1943年、独身男性以外のオーシャン島民を別の島に移した時のことだ。「人に話せない、悲しい事実がある。一部の兵を含む上司だけが実行者として知っていた」と、他島に移されなかったハンセン病患者とその家族約40人について記している。
     関さんは間接的に聞いた話だとしながらも、「敵の攻撃があったら足手まといになると思ったのだろうか」と推測し、続けた。
     「他島に移すと偽って、エンジンの無い大型運搬船に乗せ大発(動)艇が曳航えいこうし沖に出てから曳航を放し秘密に積んだ速射砲と機銃で撃ち沈めた」
    ◆ほとんど知られていない虐殺 関与の手記は貴重(略)

    https://www.tokyo-np.co.jp/article/207808

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    明治時代の出来事

     選挙演説中に凶弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬儀が9月27日に迫ってきた。時事通信世論調査によると、「反対」が51.9%であるのに対し、「賛成」はわずか25.3%。岸田内閣の支持率は9月には発足以来最低の32.3%に落ち込むなど、国民から歓迎されないなかでの強行突破となる見通しだ。

     日本における「国葬」の萌芽は、1878年(明治11年)に「紀尾井坂の変」の暗殺で命を落とした大久保利通の葬儀にさかのぼる。葬儀が行われたのは、大久保が暗殺されてから3日後。巡査の初任給が6円であった時代に総経費15000円という莫大な費用が投入され、警備には警察ほか3500名が動員されるなど、国の威信をかけた大規模なものだった。

     大久保を含め、日本の国葬の歴史を研究してきた中央大学の宮間純一教授は「国葬の歴史からみると、安倍氏の事例は考えさせられることが多いです」と語る。

    「日本の国葬の原型」と呼ばれる大久保の葬儀と比較することで浮かび上がってきた、安倍元首相の国葬儀の特異性とは――。

    ◆ ◆ ◆

     大久保利通暗殺事件、通称「紀尾井坂の変」が起きたのは、1878年5月14日大久保は、出仕のために清水谷(千代田区)を走る馬車の中にいた。大久保を狙った暗殺の実行犯は石川県士族・島田一郎を中心とする6名。最年少の杉村文一はわずか17歳だった。彼らはカモフラージュのために花を持って大久保の馬車を待ち受けて襲撃し、殺害。犯行グループは直後に自首するが、落ち着き払った態度で、笑みを浮かべた者すらいたと伝えられている。

    暗殺は政府転覆の危険性をはらんでいた

    ――大久保の暗殺は、当時の日本社会にとってどれほどの出来事だったのでしょうか。

    宮間 内務卿を務めていた大久保利通は、この時の政府の最高実力者でした。当時は王政復古からまだ10年ほどしか経っておらず、前年には西郷隆盛を担いだ西南戦争が起きるなど、政権はまだまだ不安定な状態でした。そんな状況で政府のトップが暗殺されたのですから、さらなる反乱につながる可能性さえある大事件と認識されています。

    ――資料によれば、大久保は全身に14箇所の傷を受け、トドメで喉を突き刺した刃の先端は地面に刺さっていたとまであり、相当恨みを買っていたことが分かります

    宮間 新政府の重要人物だった大久保のことを、襲撃犯たちは薩摩・長州藩出身者を中心とした藩閥による専制政治の象徴とみなしていました。島田たちが暗殺時に所持していた「斬奸状」(暗殺の趣意を記した文書)には「公議」(おおやけに議論すること)を途絶えさせ、民権を抑圧し、政事を私物化しているなど5つの非難が記されていました。

    ――警備体制は十分だったのでしょうか。

    宮間 当時は、西南戦争や立志社の獄(高知県で西南戦争に呼応して旧土佐藩の士族が挙兵を企てたとされる事件)が片付いたあとで、警備に対する意識が緩んでいたことを指摘する史料が残っています。大久保の暗殺をきっかけに、政府は要人が外出する際の警護を厳重化していきます。

    ――そして、大久保の「国葬」が行われたわけですね。

    宮間 当時の日本には「国葬」という制度や前例がなかったため、大久保の葬儀は実は正式には「国葬」とは呼べません。ただ、大久保亡き後の政府の実力者だった伊藤博文らが国葬としての体裁を整えようとしていたことはたしかであり、国葬に準ずる規模で「天皇と国民が一人の人物を悼む儀式」として盛大に催されました。なので、正式な国葬は1883年の岩倉具視が初めてですが、大久保の葬儀が「国葬の原型となる葬儀」といわれています。

    ――国葬を巡っては現在、国会の審議を通さずに閣議決定で実行しようとする岸田文雄首相に批判が集まっています。大久保の時は、政府の中枢にいた伊藤博文らが強行したということなのでしょうか。

    宮間 当時は、大久保のような規模の葬儀は前例がなかったので、実施のための手続きは明確ではなく、曖昧でした。そしてポイントは「国葬」ではなく、「国葬に準ずる葬儀」であるということです。実質的には伊藤博文ら政府の関係者や大久保と同じ薩摩藩の出身者が仕切っていましたが、建前はあくまで大久保家の私的な葬儀だったのです。

    大久保の葬儀は暗殺のわずか3日後

    ――大久保の葬儀は、暗殺からわずか3日後に行われました。規模を考えるとかなり急な印象を受けますが、政府はなぜ国葬を急いだのでしょうか。

    宮間 国内の不平分子を押さえつけるためでしょう。大久保暗殺の主犯格である島田一郎は西郷隆盛が下野するきっかけとなった征韓論を支持し、西南戦争に呼応しようとしていました。また、斬奸状には明確に政権批判が記されています。そういった思想のもと、現政権を倒すというテロとしての政治的意図は明らかだったので、「犯人のような思想は許さないぞ」と主張するためにも葬儀を急いだのでしょう。天皇の哀悼の意思を示しながら盛大な葬儀を行ってみせることで、「政府は一切揺らいでない」ということを国内外に示そうとしたのです。それにはスピードが重要でした。

    ――それにしても3日間で準備をしたとなると、かなりのドタバタがあったのでしょうね。 

    宮間 まずは物品の準備が大変だったと思います。椅子250脚、馬車26輌などを、あちこちの省・部署からかき集めています。そのほか、西洋酒15箱、菓子折・赤飯折各1000個などが用意されました。あとは外国の公使などに送る招待状の文面なども、外国語でどういう表現をするのが相応しいかを判断できる人間が葬儀の実施チームにはおらず、事務方は相当苦労したようです。

    ――政府は国民に対して、半旗の掲揚や黙とうのような形で弔意を示すことを要求したりしているのですか?

    宮間 この時期には、国を挙げて半旗を掲揚するとか、決まった時刻に黙とうするという文化がまだ定着しておらず、大久保の葬儀に際して「弔意の強制」が問題になったという記録はありません。全国で追悼会とか遥拝祭が行われはじめるのは後のことです。弔意の強制があったとしても、必ずしも現代のように個人の思想の自由が重んじられる時代ではないので、内心の自由の侵害になるという話にはならなかったと思いますけどね。

    ――国葬に反対した勢力はいたのでしょうか。

    宮間 「なんで大久保の葬儀を盛大にやるのだ」と明確に主張した反対勢力がいたという記録は発見できていません。政府は反乱分子の出現を恐れて密偵(スパイ)を各地に派遣して情報を集めていましたが、そうした動向について伊藤は「心配していたほどではなかった」と述べています。また、大久保の葬儀は主権者である天皇の名のもとに行われたので、表立っては反対できない状態でした。犯人が出した斬奸状を掲載した新聞はありましたが、反政府分子のメッセージを発信したとして、発禁処分にされてしまいました。

    ――葬儀にあたって世論というか、国民の声を聞こうという意思は政府にはなかったのですか?

    宮間 当時の権力者たちは、そんなことは考えもしなかったのではないでしょうか。その後、戦前・戦中に行われた国葬も天皇から賜るものであり、国民主体の儀式ではありませんでした。

    天皇は参列しなかったが、使者を派遣

    ――国葬は天皇の名のもとで行われた葬儀とのことですが、実際に明治天皇は参列されたのでしょうか。

    宮間 先日のエリザベス女王の葬儀に参列したことが話題になりましたが、天皇が葬儀に出席するのは異例で、基本的に人の葬儀に参列しません。少なくとも近代以降、臣下の葬儀には参列したことがありません。なので、大久保の葬儀にも参列はしていません。ただ側近を現地に使者として派遣して「追悼しているぞ」という意思を示すとともに、祭粢料(香奠に相当するもの)や供物などを届けています。

    ――大久保の暗殺犯である島田一郎は元陸軍軍人です。安易な結びつけは避けるべきですが、安倍元首相を銃撃した山上徹也容疑者が自衛隊に所属していたことを想起させます。

    「国葬は、現在の多様性を重んじる社会には必要ないのではないか」

    宮間 島田一郎による大久保の暗殺は、政権を倒そうとして行われた明らかなテロです。一方、山上事件の場合はまだ全容は明らかになっていないものの、旧統一教会を巡る“私怨”に近い殺人事件と言われています。政治体制を壊すことや、いまの政権を打倒する目的であったわけではないとすれば、そこはまったく違うと思います。ただ、大久保の時の伊藤博文、今回の岸田総理など、残された権力者が主導して実施を決定した点は共通しています。

    ――安倍元首相の国葬は死亡から2カ月以上たって行われますが、それについてはどう思われますか?

    宮間 大久保の3日後は確かに相当急いだ印象がありますが、その後の国葬もほとんどは数日から10日程度で行われていて、戦後唯一の国葬である吉田茂元首相も11日後です。安倍さんの国葬が完全に例外なのです。

    ――歴史学者として、安倍氏の国葬をどう見られているのでしょう。

    宮間 大久保ケースを含めて、国葬というのはどこまで行っても「時の政権の思惑で人間の死を政治的に利用するもの」でしかありません。近親者での葬儀は弔いの場ですが、国が個人を弔い、褒め称える国葬という国家儀式は、政治的意図を伴って行われます。国民に1つの価値観を強いる国葬は、現在の多様性を重んじる社会には必要ないのではないかと私は思っています。

    (北山 円香,宮間 純一/Webオリジナル(特集班))

    左 安倍晋三元首相 ©文藝春秋 右・大久保利通肖像(『近世名士写真』近世名士写真頒布会、1935年)


    (出典 news.nicovideo.jp)

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