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    カテゴリ:国内 > 歴史



    日本史の闇に目を向けることは勇気が必要ですが、その闇を掘り下げることで過去に学び、未来を切り開いていくことができるでしょう。大吉原展が社会に深い影響を与えることを期待しています。

    江戸幕府公認の遊廓であった「吉原」と、そこで生まれた文化・芸術にスポットを当てた「大吉原展」が東京藝術大学大学美術館にて開幕した。

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    文=川岸 徹

    約250年にわたって続いた遊廓

     吉原は1618(元和4)年に日本橋葺屋町に開設された幕府公認の遊廓。1657(明暦3)年の明暦の大火直後には、浅草寺北の日本堤へ移転した。以前の遊廓は元吉原、新しい遊廓は新吉原と呼ばれた。ここでは両方を合わせて、「吉原」と総称する。

     吉原の基盤産業は言うまでもなく「売買春」だ。遊廓開設当初の遊女の数は1000人以下だったが、移転後に急増。1855(安政2)年には3731人を数えたという (小野武雄氏の著書『吉原と島原』より)。遊女たちの身は遊女屋によって徹底的に管理され、遊廓自体も四方を堀に囲まれていたため、逃げ出すことはできない。遊女が書いた日記には「腐ったご飯しか食べさせてもらえない」「瀕死になるほどの折檻を受けた」などの凄惨な様子が記されている。

     この日本史の闇ともいえる「吉原」に真っ向から挑む展覧会「大吉原展」が東京藝術大学大学美術館にて開幕した。

     

    「大吉原展」開催で伝えたいこと

     本展の開催をSNSでの騒動やニュースで知ったという人も多いだろう。当初の展覧会タイトルは「大吉原展 江戸アメイヂング」。チラシには“イケてる人は吉原にいた”“ファッションの最先端”などのコピー踊っていた。「負の歴史を美化するな」「女性の性的搾取が行われていた事実に触れていない」。そうした批判を受け、主催者側は広報のあり方などを見直して開幕する運びとなった。

     開幕にあたって、本展の学術顧問を務める田中優子氏は以下の文章を発信している。

    「本日から開催する「大吉原展」は、吉原を正面からテーマにした展覧会としては初めてなのではないかと思います。もちろん、本日ご覧いただく喜多川歌麿の浮世絵などは、浮世絵展として展示されたことはありますが、それを吉原というテーマのもとに、遊女の姿や着物、工芸品、吉原という町、そこで展開される年中行事、日々の暮らし、座敷のしつらいなどを含めて、一つの展覧会に集めたことは、今までありませんでした。

     なぜかというと、吉原の経済基盤は売春だったからです。吉原を支えた遊女たちは、家族のためにやむを得ずおこなった借金の返済のために働いていたわけで、返済が終わらない限り、吉原を出ることはできませんでした。そのことを忘れるわけにはいきません。これは明確な人権侵害です。ですから、吉原をはじめとする「遊廓」という組織は、二度と出現してはならない場所です。

     江戸時代に「人権」思想はありませんでした。そして明治以降、解放令が出されたにも関わらず遊廓は1958年に売春防止法が実施されるまで存続しました。その後も現在に至るまで、日本社会に売買春が存在する理由の一つは、吉原をはじめとする各地の遊廓が長い間存在し続け、それが、「女性」についての固定観念を作ったからだ、と認識しています。」(前半部分を抜粋)

     展覧会は、「美術作品を通じて江戸時代の吉原を再考する機会」という位置づけ。決して吉原を美化するものではない。約230点の展示品を通して、約250年続いた“幕府公認の遊廓”の真の姿を探っていく。

    文化・芸術の発信地としての吉原

     吉原は性的搾取の場であったが、文芸やファッションなど流行発信の場になっていたこともまた事実。3月の花見、遊女を供養する7月の玉菊燈籠、吉原芸者が屋外で芸を披露する8月の俄。吉原は季節ごとの演出に彩られ、地方からも見物客が訪れる人気スポットになった。

     そんな華やかな吉原に浮世絵師たちも心惹かれた。展覧会では国内外の美術館から集めた「吉原」をテーマにした浮世絵を鑑賞できる。遊女・花紫がなじみ客に送る文を記す様子を描いた喜多川歌麿《青楼七小町 玉屋内花紫 せきや てりは》、遊女の突き出し(デビュー)を記念して出版された「若那初衣装」シリーズの一枚・鳥文斎栄之《若那初衣装 かなや内ときわき はるの ときわ》、歌川国貞が座敷持ちの高位の花魁から下級の遊女まで5人の女性を描いた《北国五色墨》。喜多川歌麿の肉筆画で最大級といわれる《吉原の花》も、米国ワズワース・アテネウム美術館から里帰りし展示されている。

     こうした珠玉の名品に、いつもであればワクワクさせられるのだが、今回ばかりはまったく心が弾まない。華やかな作品の裏側にはどんな物語が隠されているのだろうか気になってしまい、純粋に作品を楽しむ気にはなれないのだ。

     展覧会には浮世絵以外も展示されている。才色兼備三味線の名手でもあった遊女・玉菊が使っていたとされる《伝 玉菊使用三味線》。多くのなじみ客に愛された人気者だったが、わずか25歳でこの世を去ったという。

     日本近代洋画を代表する一枚、高橋由一《花魁》(1872年)もいつもと見え方が異なった。当時、人気絶頂であった花魁・小稲をモデルにした肖像画。これまで作品から小稲がもつ力強さ、逞しさを感じていたが、実は彼女の心中はそうでなかったらしい。小稲は錦絵の美人画特有の理想化されたビジュアルを期待していたが、完成品はそうはならなかった。出来上がった作品を見て、「私はこんな顔じゃありません」と泣いて怒ったそうだ。

     

    日本は「売買春」と真剣に向き合うべき

     展覧会の開催にあたって本展学術顧問・田中優子氏が発表した文章は以下のように結ばれている。

    「ところで、この4月からは「女性支援法」が施行されます。これは、売春女性を「更生させる」という従来の考え方から、女性たちを保護するという「福祉」へ、制度の目的を変える法改正です。しかし女性が人権を獲得するには、それだけでは足りません。女性だけが罪を問われることは、一方的すぎます。北欧やフランスでは、「買春行為」をも処罰の対象とする法律が制定されています。日本もまたその成立を目指すべきだと思っています。

     私はこの展覧会をきっかけに、そのような今後の、女性の人権獲得のための法律制定にも、皆様に大いに関心を持っていただきたいと思っています。」

     田中優子氏が述べる通り、日本は「売買春」について深く考えなければならない。日本の性風俗関連産業の市場規模は7兆6636億円(門倉貴史氏の著書「世界の下半身経済がわかる本」より)にも及び、日本は海外から性産業大国として認識されている。「援助交際」や「パパ活」といった言葉も一般的に使われている。どう考えても、異常だ。

     純粋な気持ちでアートを楽しめる展覧会であるかどうかはわからない。ただし確実に「考えさせられる展覧会」ではある。

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    喜多川歌麿《吉原の花》寛政5年(1793)頃 ワズワース・アテネウム美術館 Wadsworth Atheneum Museum of Art, Hartford. The Ella Gallup Sumner and Mary Catlin Sumner Collection Fund


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    (出典 d.hatena.ne.jp)


    モンゴル帝国の拡大政策は本当に恐ろしいですね。日本も危なかったのかもしれませんね。

    1 昆虫図鑑 ★ :2024/04/05(金) 16:34:57.20 ID:cvINhEfx
    (略)

    後継争いに勝ち、5代皇帝に就いたフビライは1271年、国号を「元」に改めた。朝鮮半島の高麗を制圧するとともに、南宋を支配すべく南下政策を取った。その際、元にとって目障りだったのが、南宋と文物交流が盛んな日本の存在だった。元は「日宋の同盟関係にくさびを打ち込みたかったのではないか」と、蒙古襲来の研究で知られる元九州大学大学院教授の服部英雄氏は話す。

    服部氏によると、中でも元が神経を尖らせていたのは、日宋貿易だ。火山国の日本は火薬の原料となる硫黄の産出量が多かった。南宋はこれを輸入し、火器を装備して元と闘っていた。元としては軍事上の観点から日宋貿易を遮断する必要に迫られたし、自らも日本との交易を望んでいた。

    元は「てつはう」という火器を作り出している。直径13センチ程度の陶器製の球体に、硫黄を使った火薬が詰められ、さく裂する仕組みだ。

    また、「黄金の国・ジパング」観が日本に触手を伸ばした理由との説もある。13世紀に生まれたベネチアの商人マルコ・ポーロはアジアに進出し、『東方見聞録』を著わしたことで知られる。マルコはフビライに仕えていた時期があり、「日本は黄金の島といえるほどに金銀を産出する、といった誤った情報を、フビライは確固として信じ」ていたと、作家の司馬遼太郎は『街道をゆく11 肥前の諸街道』(朝日文庫)の中で記している。

    広大な版図内で交易が活発になるにつれ、元では貨幣制度が発達していった。「紙幣の濫発によるインフレを鎮静させるには国家が銀を大量に獲得せねばならず」、日本を征服するのが手っ取り早いと考えたと司馬は推測する。

    親交か侵攻か

    蒙古国牒状写本(国立公文書館所蔵)

    元を中心とした東アジアの国際情勢に当時の日本は巻き込まれようとしていた。鎌倉幕府や朝廷は、思いもよらなかったのではないか。

    1268年にはフビライ名で日本に国書「蒙古国牒状」が届いた。

    (略)

    この国書は、元には日本と友好関係を結びたい意思があるようにも読める。その半面、元が朝鮮半島の高麗を攻めて属国化したことをさりげなく伝えるとともに、求めに応じなければ日本へ武力行使も辞さない構えを示している。

    元の使者から国書を受け取った幕府は判断を朝廷に託したが、朝議の結果、返書は出さないこととなり、使者も引き返させた。服部氏は「日本の主な海外情報源は南宋から渡ってくる禅僧だ。彼らは(侵略者の)元について、よくは言わなかったのだろう。日本としても南宋と手を組んでいるつもりだった」とみる。

    一方、アジア史の専門家の間では、元の国書にしては「実に穏やかな文面である。一種の挨拶状に近い」(杉山正明著『モンゴル帝国の興亡(下)』、講談社現代新書)と受け止められている。国書を無視した態度は「普通の外交ならば、向こう(元)は面白くないはず。執権の北条時宗が使者を出していたら、事態はどうなったかは分からない」と服部氏は言う。幕府は、元の硬軟織り交ぜた姿勢の意図を慎重に探るところまで考えが及ばなかったようだ。

    ひょっとしたら戦争は起きずに済んだかもしれないが、「外交」経験のない幕府には限界があった。元は計6回も国書や使者を送ってきたのに対し、幕府は一度たりとも返答をしなかった。そして、1271年には日本侵攻の最後通告が送られてきたのである。

    全文はソースで

    持田 譲二(ニッポンドットコム)
    https://news.yahoo.co.jp/articles/f9e0e0179e37e2fb53fc9debcfa905b4cf940dfe?page=1

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    幕末日本がロシアと結んだ外交関係の崩壊は、当時の政治状況や利害の衝突が要因とされていますが、それによって日本は国際政治の裏側に挑戦しようとした一瞬の輝きがあるとも言えます。日ロ蜜月外交が終わった後の日本の進化を見ると、さらなる変革が待っていることが分かります。

    (町田 明広:歴史学者)

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    ◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか①
    ◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか②
    ◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか③
    ◉欧米列強と幕末日本ー日本はどのようにグローバル化したのか④

    オランダの鎖国日本における外交

     17世紀以降の江戸幕府の対外政略は鎖国であったが、世界に開かれた「四つの口」(蝦夷・対馬・長崎・琉球)を有していた。長崎の出島では、欧米諸国の中でオランダのみが、通商を許されていた。幕府は開国に踏み切るまで、オランダから世界情勢を見聞しており、最後まで友好関係を崩さなかったのだ。

     弘化元年(1844)、オランダ国王ウィレム2世は開国を勧告する国書を12代将軍徳川家慶に送付したが、幕府は拒絶している。また、嘉永5年(1852)、オランダ商館長クルティウスは別段風説書の中で、アメリカからペリー艦隊が派遣され、砲艦外交で通商を迫ることを幕府に事前通告した。

     その予告通りにペリーが来航し、嘉永7年(1854)には日米和親条約が調印され、続けてイギリスロシアとも条約を結んだ。オランダとはそれまでも通信関係があったため、やや遅れて安政2年(1855)12月に日蘭和親条約が締結されたのだ。

    日本海軍の創設とオランダの恩恵

     老中阿部正弘は、早くもペリー来航(嘉永6年6月、1853)の1ヶ月後には長崎奉行の水野忠徳を通じて、オランダ商館長クルティウスに軍艦を発注した。また、対外政策(海防問題)について意見を求め、スンビン号(幕府に寄贈され、観光丸と改称)艦長ファビウス中佐から海軍創設の提案を受け取った。

     ファビウスは洋式海軍の創設を促し、士官・下士官等の乗船員養成のための海軍伝習(教師団の派遣)および留学生受入れをオランダが請け負うとの提案を行った。これを受け、水野はオランダからの軍艦購入、幕府海軍の創設、長崎海軍伝習所の設置を阿部に打診し、その許可を得たのだ。

     ここに、日本海軍の黎明期が始まったが、それをサポートしたのが、鎖国時代も交流があったオランダであったことは、歴史の必然と言えよう。なお、幕府の留学生は諸藩がイギリスを中心に派遣したのに対し、当時欧米では弱小国であったオランダに集中した。これは、それまでの関係を重視し過ぎた結果である。

    日ロ関係の始まりと緊張関係の発生

     ここからは、ロシアとの関係に話を移そう。18世紀の後半以降、蝦夷地を中心とするロシアの脅威は、幕府にとっては回避できないレベルに達していた。寛政4年(1792)のラックスマンの来航時、老中松平定信は国法書を与え、国交がない外国船は捕らえるか、または無二念打払うのが祖法であると言明した。一方では、通商条約の締結をほのめかして、長崎入港の信牌(許可証)を与えたのだ。

     文化元年(1804)、レザノフはその信牌を持参して長崎に来航したが、無為に半年間も放置され、通商条約の拒否を申し渡された。そのため、レザノフの部下は文化3年(1806)に独断で樺太の松前藩番所を、翌年には択捉島の日本拠点を襲撃した(文化露寇)。日露戦争のおよそ百年前、最初の日露間の紛争であったのだ。

    プチャーチンによる日ロ蜜月外交の展開

     日露間の交渉はその後、約40年間途絶えていたが、イギリスの清(中国)、そして日本への勢力伸長によって、東アジアでの権益が脅かされることを危惧した。また、米国の捕鯨船はオホーツク海のロシア領沿岸に達していたが、さらに、ペリー艦隊派遣の一報はロシアに大きな衝撃を与えた。

     嘉永6年、ロシア使節プチャーチンは艦隊を率いて長崎に来航し、国境の確定と開港・通商を求めた。幕府の意向通りに長崎に来航し、穏健な対応をとるロシア一行に対して、幕閣内では好意的な感情が支配的であった。そのため親露論が台頭し、ロシアとのみ通商条約を結び、連携して英米を防ぐという政策すら登場したのだ。

     その後、クリミア戦争の勃発によって、交渉は中断を余儀なくされたが、戦時下の安政2年(1855)、下田で日露和親条約が締結された。これにより、下田・箱館・長崎の3港が開かれ、国境は千島列島択捉島と得撫島の間とし、樺太はこれまで通りの雑居地とされた。さらに、プチャーチンは安政5年(1858)、再び長崎に来航して日露修好通商条約を結んだのだ。

    ポサドニック号事件の衝撃と日ロ関係の緊張

     文久元年(1861)2月、友好的な日露関係が破綻し、日本の主権が侵される危険性を露呈したロシア軍艦ポサドニック号による対馬占領事件が勃発した。いわゆる、ポサドニック号事件である。しかし、幕府はこの緊急事態に対して、何ら有効な解決方法を見出せないでいた。そこで、英国公使オールコックは幕府の依頼がなくても、イギリスは武力を使用してでも、ロシアを撤退させると言明した。

     オールコックは、このまま放置すればロシアは日本を併合する危険があり、一部の領有であっても、イギリス東アジア政策に大打撃を与えると判断した。諸説あるものの、イギリスの圧力に屈したとされ、ポサドニック号はようやく8月に退去した。ロシアの関心はこれ以降、北方の国境に限定され、幕末維新史からは一線を画することになったのだ。

     幕末維新史は、今回のシリーズで見てきたとおり、欧米列強との関係によって多大な影響を受け、方向性が規定されたとしても過言ではなかろう。しかし、明治国家はあっという間に欧米列強にあらゆる面で追いつき、さらに凌駕することによって、今度は日本が世界史に対して甚大な影響を及ぼすことになったのだ。

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    左から、ヘルハルドゥス・ファビウス、エフィム・プチャーチン


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    本能寺の変についての文書が発見されたなんて驚きです!

    1 煮卵 ★ :2024/01/18(木) 14:48:44.67 ID:1ZBC6Mgv9
    明智光秀が織田信長を討った本能寺の変(1582年)を巡り、公家が後に天皇に語ったという体験談を記した文書が、旧公爵近衛家の史料を所蔵する「陽明文庫」(京都市)で見つかった。
    変から100年前後たった文書で真偽は不明だが、信長の長男・信忠が自害した様子が生々しく記されていた。江戸時代の公家社会で変が重大視されていたことがうかがえる。
    (多可政史)

    陽明文庫と東京大史料編纂(へんさん)所による調査で、同所の遠藤珠紀准教授(日本中世史)が確認した。

    史料には、当時、左近衛中将(さこのえちゅうじょう)として朝廷に仕えていた白川雅朝王(まさともおう)(1555~1631年)の体験談が記されていた。雅朝王が後水尾(ごみずのお)天皇(1596~1680年)に度々語っていたという話を、近衛家当主の基煕(もとひろ)(1648~1722年)が古参の女房から聞いて書き留めた。成立は変から約100年後の17世紀後半とみられる。

    信忠は本能寺の変の際、信長が造営し、後水尾天皇の祖父にあたる誠仁(さねひと)親王に譲った二条御所に籠城し、自害した。

    史料によると、雅朝王が誠仁親王を御所の外に逃した後、信忠は最期に、「かゝるふうんにあふはちからなし(このような不運にあったのは力ないことだ)」「神めい仏た御まもりおはしまして、つゝかなく内裏へ還御なしまいらさせ給へ(神や仏が親王をお守りくださって、つつがなく内裏にお戻りなさるように)」などと述べたという。

    このほか、親王が御所を出る際、敵方の武士も頭を垂れたことなどが記される。

    遠藤准教授は「雅朝王が後水尾天皇に誇らしげに繰り返し語っていたのでは」と推測。
    基煕は最後に「親しくない人に見せるべきではない」と記しており、「外に漏らすべきではない重要な情報と認識していたのだろう」と指摘する。文書の全文は昨年刊行された「陽明文庫講座図録5」で紹介している。

    続きは
    https://news.yahoo.co.jp/articles/137fbba735871c5ac2eb10671b1b534ee47ea9b2

    【画像】本能寺の変の体験談が記された文書。6行目以降、城介(信忠)が語った言葉が記される

    (出典 tadaup.jp)


    [読売新聞]
    2024年1月16日(火) 15:00

    【【発見】本能寺の変、織田信長の長男が自害する様子生々しく記す…江戸時代の文書に公家の体験談「かゝるふうんにあふはちからなし」】の続きを読む



    江戸時代の人々が「赤気」と呼んでいたオーロラは、彼らにとってはまさに未知の現象であっただろうと思います。彼らは驚きや恐れを感じたかもしれませんが、同時に美しさにも惹かれたのではないでしょうか。当時の人々は科学的な知識が乏しかったため、自然現象に対する解釈が現代とは異なる可能性もありますね。興味深い話題です。

    オーロラはアラスカやフィンランドなどで見ることができる現象であり、北海道でもまれに見ることができます。

    しかしごくごくまれに本州でも観測することができ、実際に江戸時代には日本各地でオーロラが現れたさえありました。

    果たして江戸時代の人々はオーロラに対してどのような反応をしたのでしょうか?

    本記事では1770年に日本各地で観測されたオーロラに、貴族や民衆がどのような反応を示したのかについて取り上げていきます。

    なおこの研究は國學院雑誌第123巻第2号に詳細が書かれています。

    目次

    • 日本でも見ることのできるオーロラ
    • 朝廷は大混乱、民衆はパニック
    • 最終的には幸運の前兆として捉えていた当時の民衆

    日本でも見ることのできるオーロラ

    2023年12月に北海道にて観測されたオーロラ、夜空を赤く染めている
    2023年12月に北海道にて観測されたオーロラ、夜空を赤く染めている / credit:北海道新聞

    そもそもオーロラはどのようなメカニズムで発生しているのでしょうか?

    オーロラはプラズマが地球の大気中の粒子と衝突した際に、大気の粒子が発光して発生しています

    このプラズマは太陽から太陽風として地球に吹きつけており、地球磁場と相互作用して磁気圏内に入っているのです。

    この中にあるプラズマが何らかのきっかけで高速で降下した時にオーロラが発生します。

    先述したようにオーロラはフィンランドやアラスカなどといった高緯度地域で観測することのできる現象です。

    しかし非常に強い太陽嵐によって太陽風が多く地球に吹きつけた場合、低緯度地域にも現れることがあります

    実際に北海道ではたびたびオーロラが観測されており、陸別町のようにオーロラを売りにしている自治体さえあります。

    朝廷は大混乱、民衆はパニック

    『星解』に描かれた1770年のオーロラ、このようにオーロラが夜空を赤く染めた
    『星解』に描かれた1770年のオーロラ、このようにオーロラが夜空を赤く染めた / credit:国立極地研究所

    このようにオーロラは北海道ではまれに観測されることがある現象ですが、本州で観測されることはほぼありません。

    しかし過去にそのような事例がなかったわけではなく、1770年7月28日には日本各地でオーロラが観測されました。

    なお日本のような低緯度の場所で観測されるオーロラは緑色ではなく赤色をしているケースが多く、それ故当時の人たちはオーロラのことを「赤気」と呼んでいました。

    このオーロラは京都でも観測されており、朝廷は突如夜空に現れたオーロラに対して対応を強いられたのです。

    今の私たちからすれば、災害でもない自然現象に公的機関が対応を強いられることは不可解な事のように捉えられます。

    しかし当時は科学が発展しておらず、また祈祷や占いが非常に強い力を持っていたので、陰陽師の土御門泰邦がオーロラ出現に対応するということになったのです。

    またその数日前には彗星が京都で観測されており、それに対して「何か悪い予兆なのではないか」ということで対策を練っていました。

    そのようなこともあってオーロラの出現に朝廷は大混乱に陥ったのです。

    しかし泰邦自身は意外なことに「オーロラよりも彗星の方が悪い予兆である」と捉えており、先述した彗星ほど悪いものであるとは捉えていませんでした。

    またオーロラを観測した他の知識人たちは歴史書や文献に基づいて、過去に似たような事例が発生していないかを確認しようとする動きが見られました。

    それに対し民衆は、口伝えや噂話を通じて情報を共有していました。

    民衆たちは「長老の話」「○○村の誰かの話」といった内容があり、民衆はオーロラの情報について口伝えで情報を集めようとしていたことが窺えます。

    天変地異や山火事か何かなのではないかと捉えた民衆も多く、神仏に祈りを捧げたり家が燃えない様に屋根に水をかけたりする人々もいました。

    さらに当時の知識人の記録には「東大寺の大仏堂が焼失したので空が赤くなった」といった荒唐無稽のデマが流れていたことが書かれており、混乱していた様子が窺えます。

    最終的には幸運の前兆として捉えていた当時の民衆

    オーロラ、ちなみにイヌイットの伝説では生きている間に善行を積んだものは死後オーロラの国に行けると語り継がれている。
    オーロラ、ちなみにイヌイットの伝説では生きている間に善行を積んだものは死後オーロラの国に行けると語り継がれている。 / credit:wikipedia

    このように貴族も民衆も大パニックになったオーロラですが、当時の人々はこれをどのようなものであったと結論づけたのでしょうか?

    先述した陰陽師の泰邦はこのオーロラについて占い、最終的に当時日本全体で深刻だった旱魃(かんばつ)によってオーロラが発生したと結論付けました。

    それに対して民衆は、オーロラを吉兆と結びつけ、社会の豊作や安定の兆しと見たのです。

    というのも先述したように当時日本全体では旱魃が深刻でしたが、史料によると、「オーロラの発生の数日後に降雨があり、それによって旱魃が解消された」と記されています。それ故民衆の多くはオーロラを降雨による吉兆として解釈したのです。

    また当時の記録の中には、「オーロラの形状を稲穂に見立て、その年が豊作である」と解釈した長老の言葉もあり、オーロラをいいものであると捉えていた人が多かったことが窺えます。

    これらの認識や解釈は、民衆の実際の生活状況や社会の安定に密接に結びついており、彼らがオーロラに対して持っていた独自の視点を反映しているのです。

    現在の私たちからすればオーロラは非常に幻想的であり、もし日本で見られるようなことがあれば、多くの人々が「一生に一度見られるかどうか分からない天体イベント」として写真に収めようとするでしょう。

    しかし科学が発展しておらずオーロラという概念さえ持ち合わせていなかった江戸時代の人々にとっては、真夜中に空が赤く染まるオーロラはこの世の終わりみたいに感じたのかもしれません。

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    参考文献

    國學院大學学術情報リポジトリ (nii.ac.jp)
    https://k-rain.repo.nii.ac.jp/records/717

    ライター

    華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

    編集者

    海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

    「赤気」と呼ばれた江戸時代のオーロラ出現に当時の人々はどんな反応をしていたのか?


    (出典 news.nicovideo.jp)

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