令和の社会・ニュース通信所

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    カテゴリ:国内 > 歴史



    徹底に検証して、ドイツのように学校教育に取り入れていくべきです。

    ■約8倍の国力を有するアメリカに宣戦布告

    1941年12月8日ハワイの真珠湾に停泊するアメリカ太平洋艦隊に、350機の日本海軍攻撃機が奇襲を開始した。太平洋戦争の開戦である。

    しかし、なぜ日本は日中戦争の泥沼にはまる中、天然資源の最大の輸入国であり、約8倍の国力を有するアメリカに対する負け戦を始めたのだろうか。日本人にとって特別な意味を持つ戦争である、この太平洋戦争の原因について、国際関係理論(international relations theory)は興味深い示唆を与えてくれる。

    リベラリズムの視点からすると、戦前の日本の国内体制は未成熟な民主主義で、好戦的な軍人に文民政府がハイジャックされた結果、非合理的な拡張主義的戦争が起きたということになる。

    ドイツの哲学者カントは『永遠平和のために』で、平和の条件として、民主主義(共和政)、経済的相互依存、国際制度の3点を挙げたが、少なくとも、当時の日本はそのうちの一つの条件(この際、民主主義)を十分に満たしていなかったということである。

    ■石油全面禁輸で「戦争をするしかない」と考えるように

    政治学者のジャックスナイダーJack Snyder)が的確に指摘しているように、早熟な民主主義国の日本が現状打破的な政策を明示的に打ち出したターニングポイント満州事変1931年)であり、そこから太平洋戦争にいたる日本の拡張主義的政策がエスカレーションしていったのである。

    また、リベラリズムによれば、逆説的だが、経済的相互依存も太平洋戦争の一つの原因になっていたといえる。

    政治学者のデール・C・コープランド(Dale C. Copeland)は貿易期待理論(tradeexpectationtheory)というリアリズムリベラリズムを混合した理論を提示する中で、「日米間の戦争は……高度な依存状況のもと、次第に増していく悲観的な貿易の見込みという一つの主な原因に駆り立てられていた」と結論づけている。

    すなわち、石油等の天然資源の大部分をアメリカから輸入していた日本は、アメリカからの石油全面禁輸を受けて、経済的相互依存について暗い見通しを抱くに至り、戦争をするしか国家の生存を確保することはできない、と考えるようになったというわけである。

    ■帝国主義化が太平洋戦争の原因なのか

    コンストラクティヴィズム(構成主義)の視点からすると、明治維新以降、日本は「社会化(socialization)」によって、西洋列強の帝国主義を内面化するに至り、その一つの帰結が太平洋戦争だったということになる。

    江戸幕府による鎖国政策が続いた後、ペリーの黒船来航を契機として、日本は国際システムの社会化の波にさらされることになった。当時の国際政治では権力政治がスタンダードな規範であり、西洋列強は帝国主義を掲げて、アジアアフリカ等の非西洋圏の国々を次々と植民地化していった。

    その結果、植民地を保有して、領土を拡大していくことが国際的地位の確立にとって重要となり、日本も脱亜入欧、富国強兵を掲げて、先進的な西洋列強の帝国主義を模倣していったのである。

    このようにして、リベラリズムコンストラクティヴィズムは太平洋戦争の原因について、各々興味深い説明を提供してくれるが、戦争の原因について、これまで最も多くの研究を残してきたのはリアリズムである。

    リアリズムは、トゥキュディディディス、マキャベリ、ホッブズ、モーゲンソー、ウォルツ、ミアシャイマーと連なる国際政治学におけるもっとも有力なパラダイムである。

    リアリズムにおいては、国際システムのアナーキー(無政府状態)、権力政治(権力をめぐる闘争)、部族主義(tribalism:個人でなく集団が主要単位)といった考え方が前提とされる。そこで、本稿ではこのリアリズムの視点から、なぜ日本は太平洋戦争に踏み切ったのか、という重要な問いを再考していきたい。

    ■戦前にとりえた3つのオプション

    1937年に盧溝橋事件が勃発すると、近衛政権はそれをエスカレーションさせて、終戦の1945年まで続く日中戦争の泥沼にはまった。これにより、日本は中国への進出を本格化させたのだが、同時に、中国国民党を支持するアメリカと外交的に対立することになる。

    1940年、フランスヒトラーに敗れた後、日本はその機会に乗じて仏領インドシナへの支配を拡大した。この時、日本がとりうる戦略には、大別すると、3つのオプションがあった。

    第一のオプションは北進、すなわち、対ソ侵攻である。既に満州の国境沿いでは、ノモンハン事件として知られる、日本軍とソ連軍の間に軍国主義的な衝突が起きていたため、日本のエリートたちは、満州の国境沿いで日ソ戦争が再び起きるのではないかと心配していた。

    もっとも、こうした懸念が1940年から1941年に松岡外相により追求された四国協商構想(日本、ドイツ、ソ連、イタリア四国の間の協商)の背後にあったのだが、1941年6月22日ヒトラーがソ連に対して不可侵条約を無視して侵攻を始めたことで、日本の対ソ和解の戦略的意義は事実上失われることになる。

    第二と第三のオプションは実際に採用されたものである。第二のオプションは、南進して、日本が必要とする石油を持つオランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領することである。

    第三は、対米開戦という最もリスクが高いオプションである。それでは、なぜ日本は約8倍の潜在国力を有するアメリカに対する、勝ち目のない戦争に踏み切ったのだろうか。以下では、太平洋戦争の起源をめぐる、①国際システムの三極構造、②脅威に対するバランシング、③ログローリングと「帝国の幻想」、という三つのリアリスト的説明を紹介したい。

    ■アメリカ・ソ連・ドイツの三つ巴になっていた太平洋戦争前夜

    1920年代におけるワシントン体制下の相対的安定期の後、ソ連は大幅な軍拡(1928~1935年)を図り、1933年にドイツでは現状打破志向のヒトラー政権が誕生した。

    1935年になると国際システムは、現状打破の極(独・ソ)が現状維持の極(米)に対して、優位でかつ不安定な三極構造に変化する。すなわち、太平洋戦争に至るこの時、国際システムの相対的パワーの分布についていえば、アメリカとソ連とドイツが三つ巴の状況にあったのである。

    新古典派リアリストランドール・シュウェラー(Randall L. Schweller)によれば、国際システムにおける三極構造(tripolarity)は本質的に危険である。なぜなら、三極構造においては、二極が手を組んで、残りの一極を攻撃するインセンティブが高いからである。

    このことを論証したシュウェラーの著書『致命的な不均衡(Deadlyimbalance)』は、そのタイトルからして、まさに三極構造の危険性を的確に表していよう。なお、シュウェラーは、①国際システムの三極構造と、②ヒトラーの現状打破的動機が組み合わさって、第二次世界大戦が勃発したと論じている。

    国際システムの三極構造の下、日本は日独防共協定1936年11月25日)と日独伊防共協定1937年11月6日)を締結して諸外国に対して、国際協調路線を捨てて枢軸陣営へ参入した印象を強く与えていく。

    ■太平洋戦争を決定づけた日独伊三国同盟

    その後、日本の東亜新秩序声明(1938年11月)および北部仏印進駐(1940年9月)、アメリカの日米通商航海条約廃棄通告(1939年7月)および石油と屑鉄の輸出許可制(1940年7月)を経て、日独伊三国同盟(1940年9月27日)、日ソ中立条約(1941年4月13日)が締結され、真珠湾奇襲に至る。

    ここで注目したいのは、日独伊三国軍事同盟が形成された時点で、国際システムは日本、ドイツイタリア枢軸国側と、アメリカイギリスフランスの連合国側に明示的に二分されたということである。

    このことから、国際システムの構造レベルで考えたとき、太平洋戦争の回帰不能点(point of no return)の一つは、日独伊三国軍事同盟が締結された時点にあったと考えられる。つまるところ、システムレベルでいえば、①三極構造が本質的に不安定であることに加えて、②1940年の時点で、国際政治の勢力図が枢軸国側と連合国側に明示的に分かれたことが、太平洋戦争の原因と考えられるのである。

    ■アメリカという脅威に対抗するための同盟締結

    他方、国内の指導者たちの認識に視点を移せば、日本のエリートたちは、国内経済を維持するために、原材料・資源へのアクセスを維持することに苦心していた。世界恐慌で日本の貿易が減少すると、日本人はこのままでは将来が暗いと心配した。

    この点をもってコープランドが、貿易に関する将来の悲観的な見込みが、太平洋戦争の主な原因だったと論じていることは、冒頭に示した通りである。この経済的苦境を打破すべく、日本は「大東亜共栄圏」構想を提唱して、アジアの地域覇権を掌握しようとした。

    日本の指導者たちは、この地域覇権を確立するというグランドストラテジーによって、太平洋の主要な海軍力を持つ英国や米国などの西側諸国からの脅威に対抗できると考えたのである。

    こうした点について、リアリストの川崎剛は、スティーブン・ウォルトStephen Martin Walt)の脅威均衡理論(balance of threat theory)に基づいて、当時の日本はアメリカという脅威にバランシングbalancing)を図っていたのだと説いている。バランシングとは、敵国に対して、同盟形成や軍事拡張などを通じて対抗することを意味する。

    たとえば、松岡外相は日独伊三国軍事同盟締結に向けて、国内の反対派を説得するために、9月14日の大本営政府連絡懇談会で以下のように説いている。

    独伊と英米と結ぶ手も全然不可能とは考えぬ。しかしそのためには支那事変は米のいうとおり処理し、東亜新秩序等の望みはやめ、少なくとも半世紀の間は英米に頭を下げるならいい。それで国民は承知するか、十万の英霊は満足できるか。かつまた仮りに英米側につくと、一時は物資に苦しまぬが、前大戦のあとでアンナ目に会ったのだから、今度はドンナ目に合うかわからぬ。いわんや蔣は抗日でなく、侮日排日はいっそう強くなる。ちゅうブラリンでは行かぬ。すなわち米との提携は考えられぬ。残された道は独伊提携以外になし。

    ここから読みとれることは、松岡外相は英米という脅威に対してバランシングするために、独伊と同盟を締結することを主張していた、ということである。

    ■国内的な要因を論じる「防御的リアリズム」

    もっとも、歴史的に見れば、太平洋戦争の起源は国際システムレベルのみならず、国内的にも見出すことができるかもしれない。

    日本は東アジアに重点を置き、ヨーロッパの問題には深く関与しておらず、1920年代に議会民主主義を発展させたが、1930年代になると、軍部と好戦的な文民が政府において大きな力を占めるようになり、彼らの帝国主義的な拡大政策は、広く大衆の支持を得た。

    ここで重要なことは、戦争は、国際システムの構造的要因——相対的パワーの分布、同盟関係など——のみならず、国内要因によっても引き起こされるということである。

    場合によっては、システムレベルから考えたら、非合理的な国家行動が、国内における様々な歪み——軍国主義、陸海軍間抗争、官僚政治、誤認識、その他——によっても引き起こされる。こうした点を論じるのが、リアリズムの一派、防御的リアリズム(defensive realism)である。

    ■民衆の前で「帝国の幻想」を語った近衛文麿

    防御的リアリストスナイダーは、戦前の日本では好戦的なエリートが「帝国の幻想(myth of empire)」を喧伝し、陸軍と海軍の間で予算獲得をめぐるログローリングlogrolling)がなされていたと論じている。

    たとえば、1937年9月11日日中戦争が拡大していくなかで、近衛首相は日比谷公会堂で行われた国民精神総動員大演説会で、以下のような「帝国の幻想」を誇張して、満員の聴衆に向け国民一丸となり戦うことを求めている。

    東洋百年の大計の為にこれ(中国——筆者注)に一大鉄槌を加へまして、直ちに抗日勢力の依(よ)つて以(も)つて立つ所の根源を破壊し、徹底的実物教育に依(よ)つてその戦意を喪失せしめ、然(しか)る後に於(おい)て支那の健全分子に活路を与へまして、これと手を握って俯仰天地に愧(は)ぢざる東洋平和の恒久的組織を確立する必要に迫られて来たのであります

    以上、なぜ日本が太平洋戦争という負け戦に踏み切ったのかというパズルに、リアリズムの視点——①国際システムの三極構造、②脅威に対するバランシング、③ログローリングと「帝国の幻想」、から答えてきた。

    ところが、ここで読者の中には、第二次世界大戦で日本が勝つシナリオはあったのか、あるいは対米戦争を回避する手立てはあったのだろうか、といった素朴な疑問を抱くものもいるかもしれない。

    こうした問いに答えるのが、政治学者のリチャード・ネッド・ルボウらが提示する「反実仮想(counterfactual thought)」という方法論である。そこで、最後に、この反実仮想に基づき、第二次世界大戦の帰趨(きすう)について想定されるオルタナティブを一つ考えてみよう。

    ■太平洋戦争を回避できるシナリオはあったのか

    すなわち、対米戦が回避されたというシナリオである。これはリアリズムでいえば、「同盟分断理論(wedge theory)」が想定するものであり、日本が同盟分断戦略(wedge strategy)——敵対同盟国間に楔を打ち込む——をとって、アメリカと他の連合国(英仏蘭)の間の分断を図ったというシナリオである。

    たとえば、南進や対中進出をするにあたり、英米可分論——アメリカイギリスを分断できるという戦略的前提——に立ち、アメリカとの直接的な対決を忌避していれば、第二次世界大戦に対するアメリカの介入を防げて、これにより、日本はアジアにおける地域覇権を確立できたかもしれない。

    植民地主義を長年とっていたイギリスオランダフランス等の伝統的な西欧列強に対して、アメリカという国際政治における後発の大国には反植民地主義のイデオロギーが根付いていた。さらにはアメリカには、西半球の地域覇権を維持しつつも、他国とは積極的にかかわらないという孤立主義の伝統もあった。

    この反植民地主義と孤立主義が蔓延(まんえん)する国内政治・社会的状況の下、真珠湾奇襲のような日本からの直接的な攻撃なくして、イギリス植民地支配を擁護するために極東の地で日本と戦争することに、アメリカの国民がどこまで賛意を示したのかは疑わしい。

    具体的にいえば、インドシナをはじめとする伝統的西洋諸国の植民地を日本が攻撃していったからといって、アメリカの指導者は旧大国の植民地を守るために、コストのかかる対日参戦に向けて国民を説得することはできなかった可能性があるということである。

    ■植民地の勢力拡大に焦点を当てていれば「勝者」になっていた可能性も

    そこで、仮に日本がこの同盟分断理論のロジックに基づき、アメリカイギリスの間に楔を打ち込む形で、西洋列強の保有する植民地にもっぱら焦点を当てた形で勢力拡大を図っていたら、第二次世界大戦は日本に有利な形で終わった可能性もある。

    その際、イデオロギー的な観点で、アメリカ第二次世界大戦介入を抑止するならば、大東亜共栄圏構想における政治的大義——アジアを西欧列強の支配から解放する——を強調するのが有効な政治的レトリックになったであろう。

    実際、これが近衛の提唱した大東亜共栄圏構想の中核にある思想の一つだったのだが、日本はこの思想を同盟分断戦略と接合することに失敗したのである。

    つまるところ、国際システムにおける勢力均衡という観点からすると、第一次世界大戦がそうであったように、第二次世界大戦の帰結にもアメリカの参戦というものが、決定的な重要性を持っていた。

    とりわけ三極構造のもとで、熾烈(しれつ)な独ソ戦により独ソ両国が消耗していく状況においては、国際システムにおけるアメリカの相対的パワーはますます大きくなっていた。

    歴史家のウォーレン・キンボール(Warren F. Kimball)が「ジャグラー(Juggler)」と呼ぶように、巧妙な政治的手腕を有していたフランクリン・ルーズベルトは、このことを一定程度自覚していたため、日本の真珠湾奇襲に乗じて、第二次世界大戦への「裏口からの参戦(back door to war)」を図ったのであろう。

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    伊藤 隆太いとうりゅうた
    広島大学大学院 人間社会科学研究科助教
    コンシリエンス学会学会長。博士(法学)。2009年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科前期および後期博士課程修了。同大学大学院研究員および助教、日本国際問題研究所研究員を経て今に至る。政治学、国際関係論、進化学、歴史学、思想、哲学、社会科学方法論など学際的な研究に従事。主な著作は、『進化政治学と国際政治理論 人間の心と戦争をめぐる新たな分析アプローチ』(芙蓉書房出版、2020年)、『進化政治学と戦争 自然科学と社会科学の統合に向けて』(芙蓉書房出版、2021年)。

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    1941年12月、ハワイの真珠湾を攻撃する前に、空母から離陸する準備をする日本の飛行機。 - 写真=GRANGER/時事通信フォト


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    (出典 blogimg.goo.ne.jp)


    謎?になっている?

    1 みの ★ :2021/11/18(木) 15:30:36.98

     13世紀後半、鎌倉時代中期に起こったモンゴル帝国による日本侵略、いわゆる「元寇」がいま、世界中のゲーム愛好家や映画ファンから注目されている。ソニー・インタラクティブエンタテインメントが2020年夏に発売した、蒙古襲来をテーマにしたアクションゲーム『ゴースト・オブ・ツシマ(Ghost of Tsushima)』が発売後8か月で累計実売650万本を突破。その人気を受けてハリウッドでの映画化も決まった。そこで、新たに「元寇」に“はまった”人、これから“はまろう”という人向けに、当時「世界最強」と謳(うた)われた蒙古軍と鎌倉武士の戦いを近年の新説も交えて解説する。

     元寇の様子を描いた絵巻物『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』の中でも、最大の見せ場となる至近戦の場面。鎧兜(よろいかぶと)に身を固めて馬に乗り、敵兵めがけて突撃する竹崎季長(たけさき/たけざき・すえなが)。元の兵士たちは布や革で作られた動きやすい服を着て、集団戦法を用いている。

    ★「親交を結ぶか、さもなくば戦(いくさ)か」

     1274年(文永11年)10月(旧暦)、元(モンゴル帝国)は約3万人の軍勢で九州・博多湾に攻め寄せてきた。

     モンゴル帝国とは、13世紀初頭にテムジンが遊牧民諸部族を統一してモンゴル高原を制圧し、1206年にチンギス・ハン(チンギス・カンとも言う)の称号を得て創立した国である。その後、中央アジアまで勢力を広げると、1259年には高麗(朝鮮)も服属させ、やがて西アジア、ロシア、中国北部、朝鮮半島にまたがる大帝国を築き上げた。

     モンゴル帝国の本拠地を南方に求め、1264年、都をカラコルムから大都(現在の北京)に移したのが第5代皇帝フビライ・ハン(クビライ・カンとも言う)。チンギス・ハンの孫にあたる。フビライは、1271年に国号を元と改めた。

     この頃フビライは、臨安(現在の杭州)を首都とする中国王朝・南宋に侵攻しており、同国と親しい日本を引き離して南宋の経済力を削ぐために、日本に使者を派遣した。

     フビライからの国書には「日本は昔から中国に使いを遣(つか)わしてきた。しかし私の代になってから音沙汰がない。きっと元を知らないのだと考え、使いを派遣した。今後は互いに訪問し、親睦を深めよう」と、修好を求める内容が書かれていた。つまり、フビライには当初、日本を軍事占領しようという意図はなかったと思われる。ただ、国書の最後には「私は兵を用いたくはない。どうかそのことをよく考えてほしい」とも記されていた。これは、要求に応じないのなら武力で服属させるぞ――との脅しに受け取れる。

     幕府は、外交を担う朝廷に国書を送達し、朝廷側は返書を送らないことを決めた。幕府もこれを了承し、九州・大宰府に滞在中の元の使者に伝え、帰国させた。

     しかしフビライは、その後もたびたび使者を派遣してきた。幕府はこれを黙*続ける。かたくなに元との外交を拒絶したのはなぜだったのか。

     日本史学者の新井孝重氏(獨協大学名誉教授)は次のように見ている。

     「この時代の為政者はまったく国際情勢にうとく、また諸国間の接触経験については、なきに均しい状態であった。いわば無知と外交の未経験が国書を前にして、かれらを硬直させてしまったのである。なにしろ、これまでの外交の経験がないのであるから、仕方のないことであるが、外交上の技術にも暗かった」(『戦争の日本史7 蒙古襲来』吉川弘文館)

     つまり、日本は「外交音痴」だったというのだ。確かに、元の国土の広大さや日本との国力の差を知っていたら、さすがに幕府も無視できなかっただろう。ただ当時、幕府は南宋の禅僧やその弟子たちをブレーンとしており、彼らは元に攻撃されている祖国を守るため、意図的に元の実体を矮小(わいしょう)化するような情報を伝え、為政者たちの判断を曇らせたという可能性も考えられる。

    …続きはソースで。
    https://news.yahoo.co.jp/articles/5073a45565d554f9b1bc34e30511a1f02ba1ad2d
    2021年11時15分 16時09分


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    (出典 afpbb.ismcdn.jp)


    歴史の貴重なもの

    1 水星虫 ★ :2021/11/14(日) 06:52:06.84

    小郡の遺跡で発掘の「かまど跡」公開

    *ソース元にニュース画像あり*

    http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukuoka/20211113/5010013898.html
    ※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を

    飛鳥時代から奈良時代にかけての集落の跡が確認されている小郡市の遺跡で見学会が行われ、
    住居で使われていた「L字形かまど」と呼ばれるかまどの跡などが紹介されました。

    小郡市にある干潟猿山遺跡は飛鳥時代から奈良時代にかけての集落の跡が確認されています。
    ことし2月からの発掘調査を受けて、きょう、現地で見学会が行われ、担当者から
    竪穴住居で使われていた「L字形かまど」の跡が見つかったことなどが紹介されました。
    このかまどは排出された煙などの通路となる「煙道」が、L字形に壁に沿って取り付けられていて、
    担当者は周辺に残った土や炭からかつての姿が確認できることや
    朝鮮半島で見られるかまどと共通し、2つの地域のかかわりがわかる発見だと説明していました。

    小郡市埋蔵文化財調査センターの山崎頼人主査は「朝鮮半島から技術を持って渡ってきた人たちが、
    この地域でどのような役割を担っていたのか調査していきたい」と話していました。

    11/13 19:41


    【昔人が住んでた竪穴の朝鮮と共通のかまど跡公開 朝鮮から技術を持って渡ってきた人たちがどのような役割担っていたのか調査・小郡】の続きを読む


    いろいろ言われている。

    1 ボラえもん ★ :2021/10/30(土) 21:40:27.97

     北野天満宮(京都市上京区)は、慶長12(1607)年に豊臣秀頼(秀吉の子)から奉納された鏡を発見したと発表。
    大いに盛り上がっているが、秀頼は秀吉の子でなかったという説がある。真相はいかに。

    ■実子がいなかった豊臣秀吉
     豊臣秀吉の正妻は、おね(ねね)である。しかし、2人の間に実子は誕生しなかった。
    秀吉は側室を迎えるものの、やはり子は誕生しなかった。秀吉にとって、実に憂鬱なことだった。

     戦国時代にあって、後継者たる男子が生まれないことは致命的なことだった。
    そこで、秀吉は甥の秀次を養子に迎え、後継者に据えることで問題を解決しようとした。

     しかし、男子をもうけて後継者に据えることは、秀吉の悲願だったに違いない。そして、秀吉の悲願は見事に実現するのである。

    ■茶々(淀殿)との結婚
     秀吉と茶々(淀殿。以下、淀殿で統一)を側室に迎えたのは、天正16年(1588)のことである。淀殿を側室に迎えたことは、秀吉を幸運に導いた。

     文禄元年(1593)、秀吉の念願が叶って、2人の間に秀頼が誕生した。
    なお、慶長3年(1598)の秀吉没後、秀頼は豊臣家を継承したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で徳川家康に敗れて自害した。

    ■秀頼は秀吉の実子ではない
     ところが、秀頼に関しては、古くから秀吉の実子ではなく、淀殿と大野治長の間の子であるといわれてきた(『萩藩閥閲録』)。
    秀頼は、淀殿と治長が密通してできた子だというのである。

     フロイスの『日本史』にも秀吉に子種がなかったことや、夭折した長男・鶴松が実子でないと明確に書き残している。
    こうした点は誠に興味深いところであるが、未だ検討の余地があるといえよう。

     余談ながら、姜沆の『看羊録』には興味深いことが書かれている。秀吉の死後、徳川家康は秀吉の遺命に従って、淀殿を妻に迎えようとした。

     しかし、淀殿は治長の子を宿していたので、これを拒否。家康は治長を流刑にして*たと記している。しかし、これは虚説であろう。

     現在でも、秀頼が秀吉の実子であるか否かに関しては、論争が続いている。
    実子でないという説を唱える羽鳥英雄氏は、以下の理由を挙げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。

    ①根本的に秀吉には子種がなかったと考えられること。

    ②秀頼が誕生する10ヵ月前に秀吉と淀殿は同じ肥前名護屋(佐賀県唐津市)にいなかったこと。

     では、秀頼は誰の子だったのか。

     当時、参籠の場が男女の交情の場となっており、そこで子供が授かることがあった。そこで、聚楽第あるいは大坂城内の城内持仏堂を参籠堂とし、
    宗教者(僧侶あるいは陰陽師)と淀殿が交わって誕生したのが秀頼であるという。大胆な説であるが、さらに検討を要しよう。

    ■まとめ
     一ついえることは、秀頼が実子であったか否かは別として、秀吉の後継者になったことが重要という点である。このことで、豊臣家は存続するのであり、仮に他人の子であっても関係ない。

     そのことを言い出すと、多くの戦国大名は養子を受け入れていたので、当時の世情にあわなくなる。真相は不明であるが、これ以上詮索しても史料的な裏付けは得られないだろう。
    https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20211027-00264232


    【【日本史】豊臣秀頼は、豊臣秀吉の実子ではなかったのか。】の続きを読む



    歴史探求

    NO.9895961 2021/10/06 10:44
    幕末のイケメンが最期に立ち寄った場所
    幕末のイケメンが最期に立ち寄った場所
    政府は2024年、20年ぶりにデザインを新しくした紙幣の発表をしました。新しい一万円札に描かれる渋沢栄一は数多くの企業の設立に関わり、日本の資本主義の父と呼ばれています。その渋沢栄一の養子となり、激動の幕末に数奇な運命を辿ることになった男の最期の足跡をたどってみました。NHK大河ドラマ【青天を衝け】で脚光を浴びた武士です。

    ■幕末のイケメン渋沢平九郎(尾高家の末っ子)

    弘化4年(1847)現在の埼玉県深谷市の下手計(しもてばか)で生まれました。お母さんのやえさんが栄一のお父さんと姉弟で、栄一とは7歳違いの従兄弟同士です。平九郎は幼いころからを学問や剣術を始め18歳の頃には剣術を教授するなど、名主の末っ子らしく何不自由ない暮らしをしていました。兄達の影響もあり、※【尊皇攘夷(そんのうじょうい)】の思想を抱いて自身も国事に奔走したいと夢みていたのです。※【尊皇攘夷】とは、王と敬う尊王と外国人を追い払う攘夷論が結びついた思想。

    ■明治維新により統治体制が崩

    壊幕府軍は薩長連合軍に敗れ、江戸城は無血開城となりました。将軍・慶喜の汚名を晴らそうと旧幕府軍のひとつとして、新政府軍と戦った部隊、振武軍(しんぶぐん)の参謀を務めたのが渋沢平九郎です。新政府軍は飯能まで侵攻し、「飯能戦争」(はんのうせんそう)が勃発しました。最新装備の新政府軍を前に勝敗は明らかで、振武軍はあっという間に敗れて離散。平九郎は落ち延び故郷を目指しますが、運命の分かれ道が訪れます。

    ■生前最後に立ち寄った場所

    峠の茶屋で休憩を取った平九郎は、茶屋の主人から落ち延びやすい道を勧められます。しかし、一刻も早く故郷に戻るためか、提案を聞かず予定していた黒山村(現在の埼玉県入間郡越生町)に降りる道を選択してしまいました。その道中、新政府軍の兵と遭遇し争ったものの観念。自刃したといいます。幕末のイケメンが最期に立ち寄った平九郎茶屋と、自決之地では歴史に触れながら自然も味わえる感慨深い場所です。

    【日時】2021年10月06日
    【提供】探偵ファイル
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