令和の社会・ニュース通信所

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    カテゴリ:国内 > 歴史


    歴史から学ぶことは重要です。

    ロシアウクライナ戦争に台湾有事と、世界で地政学リスクが高まるなか、日本でも防衛費の増額がはじまるなど「対岸の火事」では済まされない状況です。こうしたなか、東京大学名誉教授の矢作直樹氏と、世界の金融や国際協議の実務にかかわる宮澤信一氏は、近代の日本人が「ものを考えなくなった」と警告します。それはどういうことか、日露戦争第二次世界大戦下にあった実例をとおしてみていきましょう。

    ものを考えなくなった日本…陸軍の大失態

    【矢作】霊性(多次元世界を司る摂理を直感で理解できる感性)というのも一般的にとても誤解の強い分野ですが、「オーバーシャドウ」という言葉がその分野にあります。

    神憑り(かみがかり)と訳されることがあるのでそこでまた誤解が生まれたりするのですが、明治維新の時に活動した下級武士たちは、フリーメイソン(※)によって日本が開国させられた時、やはり良い影響を受けて、高次元の意識に持ち上げられていたんですね。

    フリーメイソン:16世紀後半から17世紀初頭に判然としない起源から起きた友愛結社。多様な形で全世界に存在し、会員数は600万人を超える(Wikipediaより)。

    ところが、そのあとがもういけない。日露戦争前の1902年に八甲田山雪中行軍遭難事件が起こります。

    八甲田山での雪中行軍訓練に参加した第八師団青森歩兵第五連隊210名中、病院死も含めて199名が死亡した事件です。あの時代のあの時点でもはや陸軍は、思考が硬直化しているように思います。もちろん、それ以外にも指揮系統の混乱などの要因はありましたが。

    いくら日露戦争を控えているとはいっても、合理的に考えれば、用意周到に準備せず、人間の生理的限界を無視して闇雲に八甲田山には突っ込まないでしょう。

    現に同時期に、弘前歩兵第三十一連隊は、3年にわたって準備し、実際に少数精鋭部隊で、案内人を雇い、夜は現地の民家に宿泊して、逆コースを踏破しています。

    青森第五連隊は、雪山の夜を越すのに雪濠と呼ばれる窪みを掘って過ごすのですが、十分な窪みを掘る数のスコップを持たず、窪みの上をカバーする発想も持ち合わせていなかった。スコップで身の丈が収まる深さに掘り、上に布でも張れば保温できるわけなのですが、不思議なことに浅い雪濠だけ掘り、風も十分に防げず、外気温のままの状態で体温を奪われて遭難しました。

    別に近代登山の知識がなくても、古来となりの秋田県新潟県を中心に雪洞(かまくら)の文化はありました。大の大人が、そんな思考の柔軟性を欠き、精神論を振りかざして命懸けでやってしまったわけです。

    おなじ「日本軍」だが…海軍と陸軍の“決定的な差”

    【宮澤】その当時、日本はすでに列強国のひとつに数えられていました。しかし、ほとんどの近代国家の軍隊が近代戦の時代に入っていたにもかかわらず、日本の、特に陸軍は精神論を押し通した。少し過激な言い方かもしれませんが、強いて日露戦争はたまたま勝ったのです。

    海軍にはセンスがありました。だから戦後、日本の軍隊が無条件降伏で武装解除されるなか、アメリカは、海軍については持っておけ、としました。駄目な陸軍は悪いけど解体するからな、と。

    海軍については当時の海軍大将レベルの人たちと密約を結んで、解体命令はすぐに解除になるように運びました。そういうことがあったのです。

    今の保守系の言論人のほとんどは、軍隊を一緒くたにし過ぎです。軍隊がどういう組織立てでどうやって機動するのか、その根本的なことがわかっておらずに、戦前の日本の軍隊を褒めそやします。

    例えば、特攻隊です。特攻隊の方たちはすごいです。本当に日本を守っていただいたと感謝しております。ただし戦術としては、近代戦においては絶対に取り入れてはいけない発想です。

    先ほどもお話のなかで出した単語で、「停戦終末点」といいますが、軍事における敗戦は、基本的に計算して出るものです。1942年6月のミッドウェー海戦敗北のあと、石油の備蓄量や兵員の規模などから計算して、指数として出てきていたはずです。にもかかわらず、陸軍が1945年までずるずると延ばしました。

    山本五十六はじめ、海軍は基本的にはもうやめておいた方がいいと言っていました。政治と陸軍が悪乗りして徹底抗戦を主張した。精神論で押し切ってはいけない近代戦で精神論を言ったわけです。

    戦前戦中を美化するのは危険です。常識的に考えることができなくなっている、つまり、どこかで思考がストップしている、ということです。

    余談も余談ですが、大事なのは本音です。軍隊はそこそこ強かったし、初めの頃は頑張っていたけれども、上がとにかく馬鹿だった。兵の運用の仕方は間違っていたし、ジリ貧のところで負けを認めればそれでいいのに、そうしなかった。

    戦争は喧嘩なのだから、負けたら許してくれるんです。それ以上は絶対にやらない。にもかかわらず、ずるずるやったから、最終兵器を落とされ、徹底的にやられたわけです。そういう本音から考え始めるべきではないですか。

    矢作 直樹

    東京大学名誉教授

    宮澤 信一

    国際実務家

    ※本連載は、矢作直樹氏と宮澤信一氏の共著『世界を統べる者 「日米同盟」とはどれほど固い絆なのか』(ワニブックス)より一部を抜粋・再編集したものです。

    (※写真はイメージです/PIXTA)


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【歴史】日本政府と陸軍の「悪ノリ」が招いた、第二次世界大戦の惨劇】の続きを読む


    住民の不満がたまって起きた乱

     江戸時代の初期、寛永十四年(1637年)に、長崎で起こった島原の乱を知っているだろう。この乱における一揆勢唯一の生き残りが、南蛮絵師の山田右衛門作(やまだもさく)である。

     幕府が出したキリシタン禁止令で棄教を強いられたキリシタンたちは、数々の残酷な拷問にさらされた。さらに、島原を領地としていた松倉家が、年貢だけではなく、家に棚を作れば「棚餞」、死者のために掘った墓穴に「穴餞」といった様々な税を設け、徴収した。納められない場合は水牢に入れての水責めなども行われたという。

     こうした状況に、農民らが立ち上がる。当初はただの一揆だったが、幕府に不満を抱えていた浪人も加わり、総勢3万7000人が、原城(長崎県南島原市)に立てこもった。これが島原の乱である。

     16歳の総大将・益田(天草)四郎時貞を据えた軍勢は幕府勢を再三、蹴散らした。だが、江戸幕府の総勢12万人を超える軍勢に、最後は屈してしまう。城に立てこもっていた老若男女は皆殺しとなり、乱は終結したのである。

     ところが、山田右衛門作だけが生き延びた。幕府の内通者だったからである。彼はキリシタンだったが、積極的に参加した人間ではなかった。一揆勢に家を焼き払うと脅された上、愛する息子を人質に取られたため、やむなく従っていたのだ。彼は「学問道徳の男、文章の達者」としても知られており、一揆勢の軍師役として期待された人物だった。

     その立場を利用して得た情報を、総攻撃前の幕府に流した。一揆勢に参加するに至った経緯を矢文で説明し、城内の様子を知らせる見返りに、自分と家族の生命の保障を要求したのである。

     ところが、この接触はうまくいかなかった。幕府勢からの返信の矢文が、城内の夜廻りの者に発見されてしまったからだ。これを読んだ四郎時貞は激怒し、妻子を見せしめに処刑。右衛門作は手枷、足枷をされ、牢に閉じ込められてしまう。

     彼は城に侵入した幕府軍に救出され、取調べで乱の経緯や戦いの状況を供述。その後は幕府軍の総大将である老中・松平信綱に連れられて66歳で江戸に住み、信綱の屋敷で絵を描いて暮らしたという。「日本史上、最大の裏切り者」と言えるかもしれない男の罪悪感、苦悩ぶりを示す資料は残っていない。

    (道嶋慶)

    アサ芸プラス


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【歴史】日本史上最大の裏切者「島原の乱」唯一の生き残りが幕府に提供した「極秘情報」】の続きを読む


    要因がある。

    なぜ明智光秀は主君である織田信長を裏切り、本能寺の変を起こしたのか。作家の加来耕三さんは「最大の要因は信長への不信と自身の過労だ。疲れ切った光秀は、もうこれ以上信長にはついていけないと感じ、無謀な賭けに出たのだろう」という――。(第2回)

    ※本稿は、加来耕三『教養としての歴史学入門』(ビジネス社)の一部を再編集したものです。

    ■誰もが無謀と分かっていたのに信長を襲撃した明智光秀

    歴史を紐解といてみると、独裁者を倒した叛逆者が、そのまま世論に容認され、居座るケースは、まずない。

    “天下布武”の理想をかかげ、情け容赦なく天下統一に邁進し、王手と迫った主君・織田信長を、本能寺に襲撃した明智光秀――彼の場合など、謀叛を決行する旨、直前に明智家の重臣たちに打ち明けた段階で、すでに猛反対にあっている。

    無理もない。少し冷静に考えれば、この企てがいかに無謀であるか、誰にでも判断はついた。

    なるほど信長を本能寺に襲うこと、その首をとることは容易かもしれない。うまくすれば、後継者の信忠も同時に殺害できる。光秀ほどの戦術家なら、双方の兵力を比較し、よもや討ちもらすことはあるまい。

    京都を占領しさえすれば、非力な朝廷は光秀に靡(なび)く。京都を追われた将軍・足利義昭と連絡をとれば、その指揮下に入ることもできよう。室町幕府再興をスローガンに掲げれば、京洛の人心もいちおうは納得するに違いない。

    ■どうやっても最終勝利者にはなれない

    だが、織田家の各方面軍司令官たちが光秀に降参、従臣するであろうか。羽柴秀吉は備中(現・岡山県西部)にて毛利軍と交戦中とはいえ、北陸の柴田勝家、関東の滝川一益は直ちに、「主(あるじ)殺し討伐」の檄(げき)を飛ばし、各々の軍勢を動かしたであろう。

    勝家や一益らは、織田家にあって光秀の先輩にあたる。道義的にも、集まる軍勢の数は向こうの方が多かったはずだ。光秀につくのは、せいぜい将軍義昭と参陣不可能な毛利氏、上杉氏。ほかは細川藤孝筒井順慶など、長年の 友誼(ゆうぎ)と婚姻関係にある者が参加してくれる程度でしかあるまい。

    大坂で兵を集結中の信長の三男・織田信孝も、信長の正統な後継者を名乗って反撃してこようし、織田家長年の同盟者である徳川家康も、滞在中の堺を無事脱出することができれば、やがて弔(とむら)い合戦の名目で大軍を発してこよう。

    これは結果論ではない。あくまで本能寺の変の時点における、全国の展望である。天下の四方から光秀討伐の軍勢が起こり、それを一手で防がねばならない光秀は、いかに秀れた戦術家であろうと、一戦、二戦の勝利は請け負えても、最終的勝者とはなりえない。光秀もそうした未来図は承知していた、との説がある。

    ■老後の思い出に一夜でも天下を

    婿の弥平次秀満(左馬助光春)や斎藤内蔵助利三(春日局の父)らを呼び、信長に対する遺恨の次第を訴えるとともに、「老後の思ひ出に一夜なりとも天下の思ひ出をなすべし」(『川角太閤記』)と同意を求めた。

    いったん口にしたうえは、決行するしかない、と重臣たちを説き伏せたとも。彼ら重臣たちは、光秀の言葉にしたがい、本能寺へ殺到した。

    通史では、6月2日午前6時頃、信長は寺の表の騒がしさに目を覚ましたとある。最初、喧嘩でもはじまったのかと思ったらしいが、やがて鬨(とき)の声が上がり、鉄砲の音が聞こえてきた。「是(これ)は謀叛か、如何なる者の企(たくら)みぞ」信長の疑問に、次室で宿との直いをしていた森蘭丸森可成の次男)が物見に出、馳せ戻り、「明智が者と見え申候」と言上した。

    聞くなり信長はただ一言、「是非におよばず」とのみ述べた。そして信長は、表御堂に駆け出し、自ら防戦に参加する。はじめは弓を射たが、無念にも弓弦(ゆづる)が切れた。そこで今度は鎗(やり)をとって戦ったが、肘に鎗疵(そうひ)をうけて、ついに動けなくなる。

    御殿内に退いた信長は、「女はくるしからず、急ぎ罷(まか)り出よ」婦女子を脱出させるゆとりをみせ、火を発して燃えさかる殿中深くヘわけ入り、内側から納戸の戸口を閉ざし、さらに障子をつめ、室内に座り込んだ。

    ■4時間ほどで信長親子を倒した

    本能寺の異変を妙覚寺(現・京都市上京区)で知った信忠は、父の救出に向かったものの、途中、落去したことを村井貞勝から聞き、手勢をつれてすぐ近くの押小路室町の二条御所(二条新御所)に移った。

    二条御所には誠仁(さねひと)親王(正親町天皇の第一皇子)があったが、信忠は包囲軍の光秀に了承をもとめ、親王を落してのち、奮戦し、午前10時ごろ、ついに力尽きて自刃して果てた。

    そのあと、御所を火炎がおおった。本能寺の変では多くの織田家家臣が、本能寺、二条御所に分かれて華々しい討死を遂げている。

    ――独裁者は死に、叛逆者は天下を取った。この『信長公記』(太田牛一著)を中心として伝えられてきた通史には疑問点が多い。が、ここではテーマが異なるため置く。

    ■三日天下になってしまった最大の要因

    さて、叛逆者の心理である。光秀は天下を取った。しかし、信長の首級(しるし)を手にすることができなかった。このことは、彼の“三日天下”(実際は11日間)を決定的にしたといってよい。

    「信長公は生きている」との流言(るげん)が飛び交い、光秀はこれに悩まされることとなる。そして、備中高松城(現・岡山県岡山市北区)を攻めて苦戦していると思い込んでいた秀吉が、信じられない素早さで山陽道を駆けのぼり、“中国大返し”をやってのけたのにも応対できず、完全に秀吉への反撃に出遅れてしまった。

    (まさか、信長が生きている……、そんな馬鹿な……)光秀は完璧に信長を葬った。が、叛臣という立場に立たされたことにより、その精神はいやがうえにも有形・無形の圧迫を受けた。心労に心労が重なる。

    山崎の合戦では、秀吉軍3万2千余、自軍1万数千で戦い、敗れ、天正10年(1582)6月13日、光秀は潰走(かいそう)の途中、薮の中に潜んでいた土民に竹鎗でつかれ、あえない最期を遂げた。享年は一説に55という(異説多し)。

    ■なぜ明智光秀は謀叛したのか

    明智光秀の謀叛については、従来、諸説がある。が、筆者は最大の要因は信長への不信と、光秀の過労が原因の根本にあったのではないか、と考えてきた。

    一つの画期(エポック)は、武田氏滅亡後の宴の最中、光秀が、「これでわれらも、骨を折ってきたかいがありました」と言ったところ、信長が突然、怒り出し、光秀に打擲(ちょうちゃく)を加えるという出来事があった。

    あのとき光秀は己れが考えてきた新しい国家像と、信長の描くものが、大きく隔たっていることに、気がついたのではあるまいか。

    天下統一、泰平の世の招来――それを目指して己れも参画してきた、と自負してきた光秀が、実は主君信長の道具の一つとしてしか評価されていない――そのことを知った。加えて、情け容赦のない信長は、朝廷をもついには滅ぼすのではないか。

    この朝廷云々は、おそらく自己保身を正当化するために、光秀がもち込んだ言い訳であったろう。疲れ切った頭の中で、光秀は己れの行く末を考えたはずだ。

    おりわるく、佐久間信盛らの追放もおこなわれている。九州征伐まではよいとして、その先、己れはどうなるのか。光秀には秀吉のように、謙(へりくだ)って生き抜く気力が、すでに失せていた。

    ■自分の未来が見えてしまった

    そこへ今度は、一説によると、これまでの領土である坂本城や丹波を召しあげられ、まだ織田領となっていない出雲(現・島根県東部)、石見(現・同県西部)を与える、との信長の命令が届いたという。

    室町幕府のような守護を否定し、近代国家に近い官僚制の、全国統治を信長が考えていたとすれば、光秀の“未来”はもはや見えたようなものであった。酷使されたあげく、あとは難癖をつけられてポイッと捨てられる。苦悩する光秀の頭には、朝廷も足利義昭も同様の悲愴感をもっていたものに映ったに違いない。これらを連携すれば、あるいは……。

    いずれにせよ、光秀は天下を取った。だが、彼の“三日天下”のみならず、世界史にみられる軍部に拠るクーデター政権などを思い浮かべると、正面切って反対勢力――光秀の場合、秀吉軍――が興(おこ)ると、叛逆者はいたって、あっさりとその座を明け渡すもののようである。

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    加来 耕三(かく・こうぞう)
    歴史家、作家
    1958年大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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    明智光秀画像(画像=本徳寺所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【歴史】なぜ明智光秀は本能寺で主君・信長を討ったのか…知将・光秀を無謀なクーデターに走らせた2つの要因】の続きを読む


    弥生人の生活や歴史に興味を持つ人にとって、この発掘調査はとても興味深いものです。どんな情報が明らかになるか、今からワクワクしています。

    1 樽悶 ★ :2023/05/20(土) 16:00:52.20ID:uRklUdHk9
     鳥取県鳥取市にある弥生時代最大級の集落跡「青谷上寺地遺跡」で、県による本格的な発掘調査が始まった。

     この遺跡は山陰自動車道の建設により発見され、第一次調査が1998年から3年3カ月の期間をかけて実施。約5500平方メートルの発掘現場からは、建物や火を使用した跡、大量の土器や木製の容器、鉄製農工具に貝塚などが出土し、約2200年前から約500年間にわたって栄えた大規模集落の存在が明らかになった。歴史研究家が解説する。

    「しかもこの遺跡からは日本で初となる、弥生人の脳が3人分発見された。21年には採取されたDNAによって復元された、弥生人の顔が公開されています。さらに集落中心の東側からは、弥生時代後期の人骨が100人分以上発見されており、少なくとも10人には殺傷痕が見つかっている。そのため、大規模な戦があった可能性が指摘されているんです」

     そこで歴史マニアの心をくすぐるのが、弥生時代後期に起きたとされる「倭国大乱」との関連性だ。

     中国の複数の史書に登場する「倭国」は当時、日本で大勢力を誇っていた国家だが、これが「大乱」を起こしたと記されている。これは日本初の大規模内戦とされ、その原因は倭国の王位継承に端を発した争い、はたまた寒冷化による食物不足によって起きた襲撃など、諸説ある。その後、卑弥呼が王の座に就くことで戦争は終結し、邪馬台国連合が成立するという流れなのだが、

    「青谷上寺地遺跡の集落で見つかった大量の人骨の年代と、倭国大乱が起きた時期が2世紀後半で重なります。しかも集落ではその後、急速に遺構跡が減少し、古墳時代には終焉を迎えている。そのため新たな発掘により『倭国大乱』との関係の手がかりが見つからないかと、専門家は注視しているのです」(前出・歴史研究家)

     すでに発見された人骨の殺傷痕は何を意味するのか。卑弥呼誕生までの経緯、さらには邪馬台国の場所についても、手がかりが見つかるかもしれない。

    2023年5月14日 09:58
    https://www.asagei.com/excerpt/260066

    (出典 cdn.asagei.com)


    ★1:2023/05/17(水) 22:47:39.87
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1684466991/

    【【歴史】邪馬台国と卑弥呼の謎を解く「弥生人の大量人骨と脳」が発掘!「鳥取・青谷上寺地遺跡」が示す「倭国大乱」の証拠】の続きを読む


    この記事を読んで、日中の歴史について改めて考えさせられました。華北交通や華中鉄道を運営した日本の国策会社は、当時の日本の勢力拡大の一環だったのですね。今となっては、過去の歴史として見られることが多くなっていますが、大きな影響を与えた出来事だったのは間違いありません。

    軍事輸送で鉄道は明治時代から重視されていました。日中戦争期に中国大陸でこの役目を担ったのは、現在一般的にはあまりその名を知られていない「華北交通」と「華中鉄道」という二つの国策鉄道会社でした。

    日中戦争下で生まれた「満鉄」以外の国策鉄道会社

    戦前・戦中に日本は中国大陸に鉄道を展開しました。その担い手としては、日露戦争後、ロシアから譲渡された路線を使用した事業のために、1906(明治39)年に設立された「南満州鉄道(満鉄)」が有名ですが、その後、1937(昭和12)年に始まる日中戦争の時期に存在した二つの鉄道会社「華北交通」「華中鉄道」は一般にはあまり知られていません。本稿では、日中戦争の進展とともに生まれ、そして消え去ったこの二つの鉄道会社の実態に迫ってみます。

    「華北交通」と「華中鉄道」はともに、日中戦争下、中国大陸の物資を収奪し、前線に軍隊を送るため、国策鉄道会社として日本政府の手によって生み出されたものです。まずは、日本陸軍の進攻と一体となったその設立経緯を見ていきましょう。

    満鉄が、軍事協力の名のもとに華北(中国北部)へ進出したのは、盧溝橋で日中両軍が衝突する事件(盧溝橋事件)が起きた翌々日の1937(昭和12)年7月9日のことでした。満鉄は奉天鉄道事務所で山海関輸送班を編成し、12日にはさらに一部が天津へ進出します。

    このとき陸軍は、北支那方面軍のもとに第二野戦鉄道司令部を編成していましたが(6月17日)、満鉄は第二野戦鉄道司令部の指示のもと、軍の鉄道部隊の行動範囲にまで鉄道管理に携わりました。

    日中戦争が本格化した1937年末の段階で、満鉄の華北派遣人員は7861名。また同年10月の時点で、満鉄、朝鮮鉄道、国鉄から借り上げた車両は4800両、翌年には日本本土から国際標準軌に改軌した蒸気機関車9600形100両と貨車1200両が送られており、いかに巨大な事業であったかがうかがわれます。

    そして、これらの人と物、および技術が、新たに設立される華北交通の母体となりました。

    ほぼ満鉄の姉妹会社 しかし経営は分離された華北交通

    1938(昭和13)年11月に発足した国策会社「北支那開発」の下、港湾・鉄道・道路といった運輸交通を統べる会社が1939(昭和14)年4月11日に誕生しました。この会社は陸軍大臣が北支那開発を通じて命令と監督ができるとされました。これが華北交通です。

    さらに華北交通は、蒙彊連合政府(後の蒙古連合自治政府)の域内にあった鉄道の経営も委ねられました。

    華北交通は、満鉄から車両・人員・設備・鉄道運営のノウハウを継承しましたが、満鉄は経営から排除されていました。おそらく、鉄道を中心とした総合国策会社である満鉄の力を少しでもそぎたいという政治的な目論見と、想定される対ソ戦の集中幹線に満鉄は必須のものであるという軍部の力が働いたのでしょう。技術は満鉄、資金は北支那開発というのが華北交通の成り立ちでした。

    “日本の国鉄寄り”だった華中鉄道

    この時期に設立されたもう一つの鉄道会社「華中鉄道」も、華北交通と似たような経緯で発足した会社でした。この会社の路線は、「南船北馬」といわれ、河川やクリークが多い華南(中国南部)における水運を完全に掌握できない日本軍が、主に軍需物資を運ぶのに使用しました。

    まず1938(昭和13)年3月に「中支那振興設立要綱」が閣議決定され、国策会社として「中支那振興」が設立されます。その下に1939(昭和14)年4月30日に設立された会社が華中鉄道でした。ちなみに華北交通の技術・人員が満鉄に影響されていたのとは異なり、こちらは日本の国鉄(鉄道省)の技術的影響力が強かったといわれています。

    この二つの鉄道は、日本陸軍の華北進攻の前線にまで展開した満鉄にくらべ、占領地、とくに後方地域で活動していました。さすがに前線地域は軍の鉄道部隊が掌握していたからです。

    それでも鉱山がある都市から港湾がある都市や、中国大陸を南北に縦断する路線は重視され、とくに華北交通の津浦線(天津~浦口〈徐州~浦口は華中鉄道〉)と華中鉄道の海南線(上海~南京)の復旧は急がれました。

    シンガポール行き直通列車の大構想

    日本政府は、1941(昭和16)年2月14日の閣議において、日本国内の鉄道、朝鮮鉄道・満鉄、そして華北交通と華中鉄道を一体的に運用しようと決定しました。この構想はさらに進み、1942(昭和17)年8月21日(つまり日本が太平洋戦争で破竹の進撃をしている時期)には大東亜建設会議審議会から、中国大陸を縦貫し、さらに日本占領下にあるフランスインドシナ、同盟国のタイ、さらに占領下のマレー半島を縦断し、直通列車を走らせる構想にまで膨らみました。

    この実現のためには、中国での占領地を新たに広げ、さらに桂林からフランスインドシナのランソンまで鉄道を敷設し(桂林~ランソン間は戦後の1955年に全通)、さらにフランスインドシナとマレー半島の鉄道を国際標準軌に改軌する必要がありました(なお、当時の日本国内でも国際標準軌による弾丸列車計画の構想は進められており、これは戦後の新幹線につながります)。

    つまり、当時の日本にとってこれはとうてい無理な大計画だったといえるでしょう。ところが、この構想は再び軍によって甦るのです。

    1943(昭和18)年になると、不足し始めた船舶と増大する貨物に対応するため、陸路での貨物輸送に転換することが必要になってきます。

    このため、同年5月には関東軍・満鉄・朝鮮鉄道・華北交通・華中鉄道および関係する各機関で構成された「大陸鉄道輸送協議会」が発足し、華北の塩・綿花・石炭・礬土頁岩(ばんどけつがん)、満洲の穀類・石炭・鉄および朝鮮の米と黒鉛を、年合計600万~700万トン、朝鮮経由で日本に送る計画が生まれました。

    同年の9月以降には、在中国の米軍機が中国沿岸航路を航行する船を攻撃するようになっていました。その喪失総トン数は18年10月から19年3月までの間に19万9315総トン、隻数にして73隻に上ります。

    この貨物の陸上輸送への転換と沿岸部の航空機被害、さらには将来予想されるさらなる船舶不足――これらの要因により日本陸軍は、中国大陸を縦断する「大陸打通」作戦の実行を決断します。

    夢と消えた大陸縦貫鉄道と“その後”

    日本陸軍最大の攻勢作戦となった大陸打通作戦の目的は三つありました。一つは所在の中国軍を撃破して蒋介石の重慶政府に打撃を与えること、二つ目が、鉄道を縦貫させること、三つめが沿岸部の航空基地を撃滅することでした。

    結局、大陸打通作戦は、敵空軍基地の覆滅を主目標にしたものとなりましたが、日本陸軍が、大陸縦貫鉄道の夢をあきらめていなかったのは確かです。実際、日本軍は満洲や占領地から不要不急の鉄道材料を運ぶ算段をしていました。しかし岳州以南の鉄道は中国軍に破壊され、さらに先述したように桂林以南の鉄道は建設されておらず、実行は困難でした。やはり、大陸縦貫鉄道は夢と終わったのでした。

    戦争末期も懸命に走り続けた華北交通と華中鉄道

    1944(昭和19)年12月、日本陸軍の大陸鉄道隊が編成され、この部隊が「満鮮支」の軍事輸送をすべて管掌するようになりました。さらに1945(昭和20)年3月になると占領下の鉄道は全て軍の管理下に置かれるようになります。

    この時期には、線路への抗日ゲリラの襲撃と在中米空軍の空襲が常態化していました。そうしたなか華北交通も華中鉄道も懸命に輸送を行いました。しかし、一貫輸送により長距離を走ることから貨車の運行効率は悪く、朝鮮南部には車両の集中により貨車ラッシュが発生していました。さらに、釜山港での船積みの際には荷役効率が悪化して、貨物の滞留が膨大なものになっていきました。

    1945(昭和20)年4月1日、華北交通は民間会社から軍の一機関である「北支那交通団」へと改組。職員はすべて軍属となりました。そして敗戦後、中国国民政府に接収され1946(昭和21)年には閉鎖されます。同じく華中鉄道も敗戦後に接収・閉鎖されました。

    中国大陸での陸上貨物輸送のあまりに巨大な規模と複雑さは、日本政府、そして日本陸軍の当初の想定を超えるものだったのかもしれません。中国において日本が構想した鉄道輸送網は、敗戦を待たずして、もろくも崩れ去ったのです。

    ※華北交通が所蔵していた約3万8000点の広報用ストックフォトなどは、統合型の研究データベース「華北交通アーカイブス」にまとめられています。

    華北交通のマレ形機関車(画像:華北交通アーカイブス)。


    (出典 news.nicovideo.jp)

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