令和の社会・ニュース通信所

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    カテゴリ:科学 > 歴史


    トルコの古代遺跡からの発見は何度かありましたが、今回の粘土板は本当に驚きですね。どんな言語が記されているのか、解読が進めば私たちの知識の範囲が広がることでしょう。続報が待ち遠しいです!

    カラパイアの元の記事はこちらからご覧ください

     3,000年以上も忘れ去られていた、失われた言語の存在が明らかとなった。

     トルコアナトリア中央部にあった、ヒッタイト帝国の首都、ハットゥシャの遺跡から出土した粘土板に刻まれていた楔形文字のおかげだ。

     それはこれまで知られることのなかった、インドヨーロッパ語系の言語カラスマ語で、ヒッタイト帝国の歴史や文化を知ることができる貴重な発見である。

    【画像】 かつて巨大な勢力を誇っていたヒッタイト帝国

     ヒッタイト王国とそれに続く帝国は、トルコアナトリア中央部を拠点とし、その首都はハットゥシャにある。

     豊富な考古学遺跡と文献情報から、ヒッタイト帝国は紀元前1650年から紀元前1200年の間の東地中海と近東における旧世界の主要勢力のひとつとして認められている。

     その最盛期、ヒッタイトはアナトリアの中央部、南部、南東部と、レバント北部、シリア北部を支配していて、アナトリアのほぼ全土がヒッタイトの勢力下にあった。

     この間、ヒッタイト帝国は近東における社会政治的覇権を争って、エジプトと戦っていた。この争いは、紀元前13世紀初頭のシリアのカデッシュ時代に、最大規模の戦闘へと発展した。

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    アナトリアにあるヒッタイトの遺跡 photo by iStock

     紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国と中央行政システムは、大規模再編によって崩壊し、その影響は近東周辺に広まった。

     ヒッタイト最後の王として知られている、シュッピルリウマ2世の治世は、紀元前1207年頃に始まり、アナトリア内のいくつかのライバル勢力やアラシヤ(キプロス)との陸や海での戦いの勝利はあったものの、その後、ヒッタイトの統治者がの記録に残ることはなかった。

     エジプトの統治者ラムセス3世の碑文(紀元前1188年もしくは紀元前1177年)には、エジプトが攻撃される前に、"海の民"によって一掃された者たちの中にヒッタイトの名が記されている。

     ヒッタイトの首都ハットゥシャは、紀元前1650年頃、ヒッタイト古王国の王、ハットゥシリ1世によって設立された。

     ハットゥシャ、ハットゥサス、ハットゥシュとしても知られるこの古代都市は、トルコのアンカラから東に210キロのアナトリア高原中北部に位置している。

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    ハットゥシャ遺跡 / image credit: A. Schachner, German Archaeological Institute, Istanbul

    20世紀より発掘が始まり3万枚以上の粘土板を発掘

     ハットゥシャ遺跡は19世紀に再発見され、1930年代ドイツ考古学研究所の考古学者たちによって発掘が始まった。

     「ここは、1986年からユネスコ世界遺産に登録されています」ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルグ校のダニエル・シュヴェマー教授らは語る。

     これまでに、楔形文字(くさびがたもじ)が刻まれた粘土板がおよそ3万枚発見されているという。

     2001年ユネスコ世界記録遺産に登録されたこれらの粘土板は、ヒッタイトとその近隣諸国の歴史、社会、経済、宗教的伝統についての豊富な情報を教えてくれる。

     粘土板の文書のほとんどは、ヒッタイト語で書かれている。これは、世界最古のインド・ヨーロッパ語で、この遺跡で主流の言語であったことが証明された形だ。

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    ハットゥシャで発掘されたヒッタイト語の楔形文字が記された粘土板の1つ。これは大英博物館に保管されているもので、平和条約が記録されている / image credit:Trustees of the British Museum

    未知なる言語が楔形文字で刻まれた粘土板を発見

     その粘土板の中に。かつて使用されていたが、長年忘れ去られていた別の言語が発見されたのだ。

     ヒッタイト人は、外国語で儀式を記録することに独特の関心を持っていたという。

     シュヴェマー教授はこう語る。

    ヒッタイト王の筆記者によって書かれたこうした儀礼文書は、アナトリアシリアメソポタミアのさまざまな伝統や言語環境を反映したものです

    単にヒッタイト語が話されていたというだけでなく、あまり知られていない青銅器時代後期のアナトリアの言語背景を垣間見る機会を与えてくれる貴重なものです

     ハットゥシャの楔形文字文書には、ヒッタイト語にかなり近いアナトリアインドヨーロッパ語であるルヴィ語やパライ語、非インドヨーロッパ語のハッティ語の文章も含まれている。

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    トルコ、ハットゥシャにあるアンバリカヤ山麓の遺跡で、未知のインドヨーロッパ言語が発見された / image credit:Andreas Schachner / Deutsches Archaologisches Institut.

    カラスマ地域に住んでいた人が話していた言語の可能性

     新たに見つかった言語は、おそらく現在のトルコ、ボル州の、ヒッタイト中心部の北西端地域、カラスマに住んでいた人たちによって話されていたのではないかと、専門家は考えている。

    カラスマの文書は、まだほとんどが未解読です」フィリップ大学マールブルグ校のエリザベス・リーケン教授は言う。

     これは、アナトリアインドヨーロッパ語系の言葉だそうで、地理的には、パライ語が話されていた地域に近いが、文章はルヴィ語との共通点が多いようだ。

     カラスマ語が、青銅器時代後期のアナトリアの方言であるルヴィ語と、どの程度密接に関連しているのかが、今後の研究テーマとなるそうだ。

    References:3,000-Year-Old Cuneiform Tablet Reveals Previously Unknown Language / 'Ritual text' from lost Indo-European language discovered on ancient clay tablet in Turkey | Live Science / written by konohazuku / edited by / parumo

     
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    トルコの古代遺跡から未知の言語が記された粘土板が発見される


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    赤城の撮影に成功したことに驚きました。81年もの間、深海に眠り続けていた様子が、写真から伝わってきます。一瞬で戦われたミッドウェー海戦の情景が蘇り、戦争の厳しさを思い知りました。

    1 尺アジ ★ :2023/09/16(土) 19:41:53.89 ID:i/aZECBV9
    太平洋戦争のミッドウェー海戦で沈んだ旧日本海軍の空母「赤城」について、アメリカの研究者らが設立した調査チームが、沈没して以来81年ぶりに海底で船体を撮影することに成功しました。

    映像は、調査チームが今月8日から12日にかけて、ハワイ諸島北西の深さおよそ5100メートルの海底を潜水艇で撮影したものです。映像には、船首部分の菊の御紋がはっきりと確認できるほか、船体に設置された機銃や砲塔なども映っています。

    「赤城」は1942年、太平洋戦争の戦況の大きな転換点になったとされるミッドウェー海戦でアメリカ軍によって撃沈されました。

    「赤城」は2019年に音波探知機を使った調査で位置などは確認されていましたが、研究チームによりますと、映像で姿を捉えたのは1942年に沈没して以来81年ぶりとなります。

    今回の調査では空母「加賀」と、アメリカ海軍の空母「ヨークタウン」の撮影も行われています。

    ※続きは以下ソースをご確認下さい

    2023年9月16日(土) 18:18
    TBSテレビ

    https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/727063

    【【WW2】ミッドウェー海戦で沈んだ空母「赤城」の姿 沈没以来81年ぶりに海底で撮影】の続きを読む


    邪馬台国の所在地については、まだ正確に特定されていませんが、古墳の鏡の発見はその謎を解く手がかりとなるかもしれません。鏡は邪馬台国の文化や制度に関わる重要な要素であり、これまでの研究においてもその存在は注目されてきました。今後の調査結果が期待されますね。

    1 樽悶 ★ :2023/09/11(月) 08:36:04.99 ID:fcvGuSGd9
    14年前(2009年)に奈良県桜井市の古墳から見つかった、大量の鏡の破片を県立橿原考古学研究所が分析したところ、もとの鏡は100枚を超える数だったことがわかりました。

    ひとつの古墳から100枚以上の鏡が出土した例はほかになく、専門家は邪馬台国の女王、卑弥呼と関係している可能性があるとしています。

    およそ1700年前の古墳時代前期に造られた奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳では、14年前に青銅製の鏡の破片が大量に見つかり、発掘調査を行った県立橿原考古学研究所は当時、もとの鏡の数は少なくとも81枚としていました。

    研究所が鏡の破片を3次元で計測し、コンピューター上で組み合わせて復元したところ、もとの鏡の数は103枚以上だったことが新たにわかったということです。

    鏡は14種類あり、最も多かったのは邪馬台国の女王、卑弥呼が中国から授かったという説もある「三角縁神獣鏡」で26枚でした。

    研究所によりますと、ひとつの古墳から100枚以上の鏡が出土した例はほかにないということです。

    【専門家“邪馬台国有力地”】

    今回の調査について古墳時代の鏡について研究している大阪大学の福永伸哉 教授は、「出土した鏡1枚だけでも有力な首長と言えるのに優れた鏡が100枚以上納められた古墳があるとは思ってもみなかった」と考古学的に非常に価値の高い発見だとしています。

    中でも「画文帯神獣鏡」と「三角縁神獣鏡」が数多く見つかっていることについて、福永教授は「邪馬台国」の女王、卑弥呼と大きく関係していると指摘しています。

    「画文帯神獣鏡」は、「邪馬台国」の時代と重なる同じ奈良県桜井市にあるホケノ山古墳でも見つかっていて、卑弥呼が政治で使ったとされ、19枚も見つかったのは今回が初めてということです。

    また「三角縁神獣鏡」は卑弥呼が中国から当時の日本の王と認められ「親魏倭王」となった後に使っていたとされ、26枚が出土しています。

    このことから福永教授は「邪馬台国の所在地としてこのような場所がかなり有力だと考えるのは自然だと思う」と述べたうえで、「邪馬台国からヤマト政権への連続性がはっきりとたどれ、ヤマト政権の王が桜井茶臼山古墳に葬られている可能性が非常に高い」と話しています。(以下ソース)

    09月07日 17時01分
    https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230907/2000077699.html

    (出典 www3.nhk.or.jp)


    ★1:2023/09/10(日) 23:31:20.59
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1694356280/

    【【奈良】古墳の鏡100枚超、邪馬台国の卑弥呼と関係か 専門家「邪馬台国の所在地だと考えるのは自然」「ヤマト政権への連続性が…」】の続きを読む


    人類が絶滅寸前だったなんて驚きです。生き残るためにはどのような戦略や適応があったのでしょうか?進化の結果、現代の人類が存在することになったのか興味が湧きます。

    2023年現在、世界の人口は80億人を上回り、地球の環境や社会に対するプレッシャーが日増しに高まっています。

    しかし、今でこそ増え続ける人類ですが、ニューヨークマウントサイナイ医科大学(Icahn School of Medicine at Mount Sinai:ISMMS)のワンジー・フー氏らの国際研究チームは、「約100万年前、人類は絶滅の危機に瀕し、10万年以上もの間、世界の人口はわずか約1300人程度で推移していた可能性がある」と指摘しています。

    また、この絶滅危機は、私たち現生人類だけでなく、絶滅したネアンデルタール人やデニソワ人の進化にも影響を与えた可能性があるようです。

    一体当時の人類に何があったのでしょうか。

    今回の研究の詳細は、2023年8月31日付で科学誌『Science』に公開されています。

    目次

    • 人類の祖先は厳しい「ボトルネック」状態を体験した
    • 約11万7000年もの間、人類は約1280人だった

    人類の祖先は厳しい「ボトルネック」状態を体験した

    現生人類は約30万年前にアフリカで誕生したとされています。

    しかし、現生人類出現以前に人類の祖先がどのような過程を辿ってきたかについては、化石記録がほとんどないため多くが謎に包まれています。

    そこで今回の研究チームは、人類自身の中に残されている進化の記録であるゲノムに着目し、アフリカ内の10の集団とアフリカ以外の40の集団からサンプルを集めて調査を行いました。

    この研究では、子孫である我々の遺伝子配列の多様性を基に、現生人類の祖先を構成していた集団がどの程度の規模を持っていたか推定する方法を開発しています。

    それによると、約93万年前から約81万3000年前にかけて、現生人類の祖先は厳しい「ボトルネック」状態を体験した可能性が高いことがわかったのです。

    この該当する期間、人類の祖先集団は約98.7%が消失しており、絶滅の危機に瀕していたことが示唆されたのです。

    このボトルネックとはどのような状態なのでしょうか。

    ボトルネック効果とは

    生物学的な文脈で語られるボトルネックとは、生物の集団が一時的に著しく少なくなる現象です。

    この過程では、集団内の遺伝子の種類は極端に少なくなります。

    その後、生物の個体数が回復しても、最初に失われた多くの遺伝子は戻らないため、新しい集団は遺伝的に似ている個体ばかりになります。

    この効果をボトルネック効果、日本語で瓶首(へいしゅ)効果と呼びます。

    約11万7000年もの間、人類は約1280人だった

    100万年近く前に発生したボトルネックを推測するために研究者が使用した公式
    Credit:Shanghai Institute of Nutrition and Health, CAS

    研究チームのフー氏は、「私たちの祖先は長い間、厳しい状況に直面していました。人口が一時的に激減し、絶滅する寸前だったのです」と、語っています。

    今回の研究によると、約11万7000年もの間、繁殖可能な人類の個体数は、約1,280人だったと推測されています。

    しかし、なぜこんなにも人口が減少したのでしょうか。

    研究者たちは、この人口激減の時期は、氷河が出現し、海水温が低下して、アフリカとユーラシア大陸に長期間の干ばつが起きた、深刻な寒冷化の時期と一致していると語ります。

    そのため厳しい気候変動が人類祖先の個体数を大きく減少させた原因である可能性が高いと考えられます。

    ただし、気候変動がどのように人類祖先に影響していたかについては、はっきりわかっていません。なぜなら、人口が極端に少なかったため、当時の人類の化石や遺物がほとんど見つかっていないためです。

    これまでの研究で、現生人類、ネアンデルタール人、デニソワ人などが分岐したのは、約76万5000年から約55万年前の時期だったと考えられています。

    この研究には参加していないロンドン自然史博物館の古人類学者クリス・ストリンガー氏は、「もしこれら旧人類の分岐がボトルネックの直後であった場合、現生人類、ネアンデルタール人、デニソワ人といった異なる集団に分かれるきっかけがこの人口激減にあった可能性が高い」と、指摘しています。

    つまり、このボトルネックが起こった後、人類はいくつかの小さな集団に分かれていき、その後それぞれの集団が独自の進化を遂げた可能性があるのです。

    染色体の融合は人口が急激に減少した時期と一致しています
    Credit:canva

    過去の研究では、約90万年前から74万年前にかけて、2つの染色体が一つに結合し、現在の人類が持つ「2番染色体」が形成されたことが示されています。

    この染色体の融合は、先ほど説明した人類の「ボトルネック」、つまり人口が急激に減少した時期と一致しているため、この二つの出来事が何らかの形で関連している可能性があると、研究者たちは考えています。

    ネアンデルタール人とデニソワ人もこの染色体の融合を持っているため、この現象は現生人類とこれらの集団が分岐する前に起きたと考えられます」と、ストリンガー氏は指摘しています。

    トリンガー氏はさらに、「今回の研究で開発された新しい分析手法が、将来的にネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム調査にも適用できるかもしれない」と期待を寄せています。

    それが実現すれば、ネアンデルタール人やデニソワ人のゲノムを通して、今回発見された人類祖先の急激な人口減少を調査することができ、この時期に何があったのか異なる角度から明らかにできるかもしれません。

    今回の研究は、人類の起源と進化について新しいページを開いたと言えるでしょう。

    全ての画像を見る

    参考文献

    Humans faced a ‘close call with extinction’ nearly a million years ago https://www.livescience.com/archaeology/humans-faced-a-close-call-with-extinction-nearly-a-million-years-ago

    元論文

    Genomic inference of a severe human bottleneck during the Early to Middle Pleistocene transition https://www.science.org/doi/10.1126/science.abq7487
    約100万年前、人類は1300人まで減り「絶滅寸前」だった


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    歴史的に有名な戦い。

    これまで「桶狭間の戦い」は、兵力に劣る織田信長今川義元を奇襲で倒したとされてきた。ところが、これは最新研究では覆されている。歴史学者の渡邊大門さんは「奇襲説の根拠となる史料の信憑性が低く、現在では正面攻撃説を支持する研究者が多い」という――。(第2回)

    ※本稿は、渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

    ■桶狭間の戦いにおける今川義元の軍勢の本当の数

    永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は小姓5騎のみを引き連れ、居城の清須城をあとにした。率いた軍勢は、わずか200と伝わっている。やがて、信長は軍勢を熱田神宮名古屋市熱田区)に集結させると、今川氏との対決に向けて戦勝祈願を行ったのである。すでに、鷲津・丸根の両砦は落ちており、煙が上がっていたという。

    一方の義元は、桶狭間山で休息を取っていた。率いた軍勢は、約4万5000。信長の軍勢をはるかに上回っていた。

    ところで、この約4万5000という数はあまりに多すぎる。もう少し後の時代になると、百石につき3人の軍役を課されるようになった。百万石の大名ならば、3万の兵になる。慶長3年(1598)の時点で、遠江は約25万石、駿河は約15万石だったので、合計で約40万石である。

    先の基準に当てはめると、約1万2000というのが妥当な兵力である。ただし、右の基準は慶長年間のものなので、実際はもっと少なかった可能性がある。

    ■昼までには大勢が決まっていた

    今川方の動きは、どうだったのだろうか。大高城にいた松平元康徳川家康)は、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる織田方の佐久間盛重は、500余の兵とともに打って出たが、敗北し自らも戦死した。

    鷲津砦を守備する織田方の飯尾定宗、織田秀敏は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は今川方によって制圧され、織田勢力は一掃されたのである。

    制圧後、義元の率いる本隊は沓掛城を発つと、大高城方面に軍を進めた。その後、さらに向かって西に進み、南に進路を取った。5月19日の昼頃、義元の本隊は桶狭間に到着すると、早くも戦勝を祝して休息し、来るべき信長との戦いに備えたのである。

    この時点で、今川軍は総勢約2万だったといわれているが、義元の本陣を守っていたのは5000から6000くらいの軍勢だったという。

    ■信長が見た勝機

    信長が桶狭間に進軍したのは、5月19日午前のことである。中島砦を守備する織田方の佐々政次、千秋(せんしゅう)四郎らは、信長出陣の報告を受けて、大いに士気が上がった。

    早速、佐々、千秋は約300の兵で今川方に攻撃を仕掛けるが、返り討ちに遭い討ち死にしてしまった。佐々、千秋の兵も約50が討たれた。

    この報告を受けた義元は、「矛先は天魔・鬼人も超えきれぬだろう。心地よいことだ」と大いに喜び、謡いを謡ったという。逆に、士気が高まったのは、今川方のほうだった。

    信長が出陣しても、事態を挽回するのは困難になったに違いないが、果敢にも出陣し義元に戦いを挑んだ。

    熱田神宮名古屋市熱田区)で戦勝祈願を終えた信長は、5月19日午前に鳴海城(名古屋市緑区)近くの善照寺砦に入った。ここで、織田方は桶狭間に今川方が駐在しているとの情報を得たので、中島砦へ移動しようとした。

    このとき信長の軍勢は2000だったといわれているが、劣勢には変わりなかった。信長は中島砦に到着すると、さらに兵を進めようとした。すると、家臣らは信長に縋り付いて止めようとした。

    しかし、信長は敵兵がここまでの戦いで疲れ切っていること、わが軍は新手なので、敵が大軍でも恐れることはないと檄(げき)を飛ばした。

    そして、敵が攻撃したら引き、敵が退いたときに攻め込めば、敵を倒すことができるとも述べた。戦いに勝ったならば、家の面目になると言ったところで、前田利家らが敵の首を持参した。これにより、織田軍の士気は大いに高まった。こうして信長は、桶狭間への進軍を開始したのである。

    ■突如、雹混じりの雨が降る

    5月19日の午後になると、にわかに視界を妨げるような豪雨に見舞われた。雨には雹(ひょう)が含まれており、今川軍の将兵の顔を激しく打ち付けた。すると、沓掛峠の楠の大木がにわかに倒れたので、織田軍の将兵は熱田大明神の神意ではないかと思ったという。織田方はこの悪天候を活用し、やがて晴れ間がのぞくと義元の本陣に突撃した。

    信長は槍を取って大声を上げると、今川軍に攻め込むように指示した。今川軍は織田軍が黒煙を上げて突撃してきたので、たちまち総崩れになった。弓、槍、鉄砲、幟(のぼり)、指物は散乱し、義元は乗っていた塗輿(ぬりごし)を捨て敗走した。

    信長は、容赦なく追撃を命じた。今川軍は300ほどの軍勢で、義元を守りながら退却したが、敵と交戦するうちに兵が討ち取られ、ついに50くらいまで減ってしまった。

    ■「海道一の弓取り」の最期

    信長も馬から降りて槍で敵を突き伏せると、若い将兵も次々と今川軍を攻撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。今川軍は馬廻り衆、小姓衆らが次々と討たれ、窮地に陥った。

    すると、信長配下の服部小平太が義元に斬りかかったが、逆に膝の口を斬られて倒れ伏した。その後、義元は毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を討ち取られたのである。義元を討たれた今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。

    ■桶狭間の戦いは奇襲だったのか

    ここで、改めて桶狭間の戦いについて考えてみよう。

    桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、奇襲攻撃、正面攻撃という二つの説がある。永禄3年(1560)5月19日、信長は今川義元桶狭間の戦いで破った。義元の2万〜4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか20003000の兵のみだった。

    とはいえ、義元の率いた2万〜4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。

    信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説だった。しかし、今や有名な「迂回(うかい)奇襲説」には、異論が提示されている。

    「迂回奇襲説」によると、5月19日の正午頃、信長の家臣・千秋四郎ら約300の兵が今川軍に攻め込んだが敗北。敗北後、信長は義元が陣を敷く後ろの山へ軍勢を移動させ、迂回して奇襲することを命じた。

    そのとき、視界を遮(さえぎ)るような豪雨となり、信長軍は悪天候に紛れて進軍したという。義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4000~5000の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。

    つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。以上の経過の出典は、小瀬(おぜ)甫庵(ほあん)『信長記』であり、明治期の参謀本部編『日本戦史桶狭間役』により、事実上のお墨付きを与えられた。

    ■奇襲説の根拠は「不適切」な史料

    ところが、この通説には異儀が唱えられた。それは、そもそも小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。

    儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16~17年(1611~12)説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。

    そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。

    それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史の史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。

    先述のとおり、『信長記』の成立は10年ほど早いことが立証された。これをもって『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かにあまり関係ない。

    『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣るので、桶狭間の戦いを論じるうえで不適切な史料なのだ。

    ■有力な正面攻撃説の中身

    最近の研究では『信長公記』を根拠史料として、次のように指摘された。

    千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。

    今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である(藤本:二〇〇八)。

    現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。

    ■桶狭間戦いの真実が見えにくいワケ

    信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。

    ほかにも、織田軍は今川軍が乱取り(掠奪(りゃくだつ))に夢中になった隙を狙って、酒盛りをしていた義元を討ったという説がある(黒田:二〇一五)。この説は、『甲陽軍鑑』に基づいた説である。かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。

    とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とかけ離れているので、そのまま鵜吞みにできないと考えられる。

    ほかにも桶狭間の戦いに関しては、さまざまな説が提供されている。しかし、史料の拡大解釈や論理の飛躍もあり、定説に至らないのが現状である。

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    渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
    歴史学
    1967年生まれ。1990年関西学院大学文学部卒業。2008年佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。

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    織田信長像(画像=狩野元秀/東京大学史料編纂所/愛知県豊田市長興寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)


    (出典 news.nicovideo.jp)

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