令和の社会・ニュース通信所

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    カテゴリ:科学 > 歴史


    嵐の神と呼ばれた理由がこれから分かるかもしれませんね。マヤ文明の神話とのつながりがどのように深いものだったかがわかるかもしれません。

    1 ごまカンパチ ★ :2024/03/08(金) 07:54:38.24 ID:N5kymXG29
    https://news.yahoo.co.jp/articles/e89b858a5059e220407be28d463bf57803a9b087
    ■「きわめて珍しい」と考古学者、盗掘を免れたグアテマラのチョチキタム遺跡で発掘
     チョチキタム遺跡は、中米グアテマラのヤシの木が茂る熱帯雨林の中、落ち葉と石の塊に埋もれた場所にある。
    これまでほとんど知られていなかったこの遺跡は、考古学的な大発見が起こるような場所にはとても見えないかもしれない。
    ましてや、長い間、研究者たちを悩ませてきた闇の時代の手がかりが見つかるとは、誰も考えなかったはずだ。

    しかし、それが現実になった。
    この場所で、翡翠(ヒスイ)を組み合わせて作ったミステリアスな仮面が発見されたのだ。これまで知られていなかったマヤの王のものだと考えられている。

    この発見から、1700年近く前の古典期初期のマヤ文明における篤い信仰と王位継承の実態が浮かび上がってくる。
    それだけでなく、この時代のマヤの王族が、マヤよりもさらに強力なメソアメリカの王朝の支配下にあった可能性があるという説の信憑性を高めそうだ。
    「この点に関しては、さまざまな説があります」と話すのは、考古学者でナショナル ジオグラフィックのエクスプローラー(探求者)でもあるフランシスコ・エストラーダ゠ベリ 氏だ。
    「この仮面によって、マヤの歴史に関する古い解釈が葬り去られる日はますます近づくことでしょう」

    ■王のピラミッドと棺の発見
    チョチキタム遺跡とその歴史は、時の経過による荒廃と深い熱帯雨林にはばまれて、長い間謎に包まれていた。
    遺跡があるペテン県は、グアテマラ北東部に位置する低地帯で、メキシコとベリーズに挟まれている。
    遺跡自体は20世紀初頭から知られていたが、マヤ文明とのつながりについては、ごく最近までわかっていなかった。

    理由のひとつは、遺跡ができた年代にある。
    マヤ古典期は紀元250年から900年ごろで、マヤ文明の最盛期と重なる。しかし、この時期の文献はほとんど皆無で、栄光のほとんどは盗掘によって失われてしまった。
    実際、チョチキタムも盗掘者の餌食になっていた。
    2021年に、レーザー光線による測距技術である「ライダー(LiDAR)」を使った調査では、遺跡の中心である王家のピラミッドと思われる建造物に、
    盗掘用のトンネルが掘られていたことがわかった。
    しかし、エストラーダ゠ベリ氏と同僚のブハニー・ジロン氏は、盗掘者たちが見逃した場所があることに気づき、発掘調査を行った。

    「簡単なことではありませんでした」と、米テュレーン大学中米研究所の教授で、マヤの先古典期と古典期に詳しいエストラーダ゠ベリ氏は話す。
    ピラミッドを7メートル以上も掘り進んだところで、ジロン氏が頭蓋骨と何本かの歯、そして棺のような形の石の箱を見つけた。
    箱の上部は壊れていたが、エストラーダ゠ベリ氏は副葬品を見つけた。壺、巨大なカキの殻を組み合わせたもの、いくつかの骨の破片、
    そして、美しい翡翠が丁寧に並べられていた。

    ■王にふさわしい翡翠の仮面
    2022年6月下旬、研究室に戻ったエストラーダ゠ベリ氏は翡翠に注目した。
    これは考古学者がテッセラと呼ぶもので、ほかのマヤ遺跡では、王族を埋葬する際のモザイクの仮面に使われてきた。
    神や先祖の象徴として、埋葬者の富や権力を表していることが多い。
    何度か翡翠のタイルを動*と、渦巻き状の目と鋭い歯を持つ顔ができた。

    ※続きはソースで

    【【考古学】見事なヒスイの石仮面をマヤの王墓で発見、「闇の時代」解明の手がかりとなる嵐の神】の続きを読む



    アルキメデス(Archimedes、希: Ἀρχιμήδης、紀元前287年? - 紀元前212年)は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。 アルキメデスの生涯は、彼の死後長い年月が過ぎてから古代ローマの歴史家たちによって記録…
    71キロバイト (8,864 語) - 2024年2月8日 (木) 05:30


    実際に戦場で使われたらと考えると、かなり恐ろしい兵器ですね。戦争の恐ろしさを改めて感じます。

    古代ギリシアの天才・アルキメデス

    彼は紀元前287年頃にシチリア島のシラクサで生まれ、紀元前212年に亡くなるまでに多くの数学的発見や発明を残しました。

    アルキメデスといえば、入浴中に浮力の原理を発見してエウレカ!(わかった!)」と叫び、裸のまま外に飛び出したという逸話で有名です。

    そんな彼はローマ軍との間に勃発した戦争において、シラクサの街を守るための兵器開発を頼まれていました。

    その中で生み出したとされるのが「死の光線(death ray)」です。

    これは巨大な鏡で太陽光を集光し、敵船に照射することで炎上させるというもの。

    歴史家は長い間、「アルキメデスの死の光線は実在したのか、また実在したとして本当に火炎を起こせたのか」と議論を戦わせてきました。

    しかしここ数十年の研究で、死の光線は実現可能だったことが明らかになりつつあるのです。

    目次

    • アルキメデスの知恵が買われた「シラクサ包囲戦」とは?
    • アルキメデスの「死の光線」を作ってみた

    アルキメデスの知恵が買われた「シラクサ包囲戦」とは?

    アルキメデス(画ドメニコ・フェッティ、1620年)
    アルキメデス(画ドメニコ・フェッティ、1620年) / Credit: ja.wikipedia

    アルキメデスの生きた時代には、古代ギリシアローマ軍との間で絶え間ない戦争が繰り広げられていました。

    特に紀元前3〜2世紀半ばに3度にわたって起きた「ポエニ戦争」は、その最も大きな争いの一つでした。

    これは一言でいうと、ローマ軍とカルタゴ(北アフリカに栄えたフェニキア人の国家)が西地中海の覇権をめぐって争った戦いです。

    (ポエニという名称は、ローマ人によるカルタゴ人の呼び名)

    第一次〜第三次ポエニ戦争の領土の変遷(緑:ローマ、オレンジ:カルタゴ)、イタリア南部にあるのがシチリア島
    第一次〜第三次ポエニ戦争の領土の変遷(緑:ローマ、オレンジ:カルタゴ)、イタリア南部にあるのがシチリア島 / Credit: ja.wikipedia

    この争いにアルキメデスのいたシラクサも巻き込まれるのですが、第一次ポエニ戦争においてシラクサローマ側と同盟を結んでいました。

    ところが、シラクサは第二次ポエニ戦争においてそれを解消し、逆にカルタゴと同盟を結んだことでローマ軍に包囲されることになります。

    こうして勃発したのがシラクサ包囲戦」(BC214〜BC212)です。

    ローマ軍と戦うにあたり、シラクサ軍はアルキメデスに街を守るための兵器開発を依頼しました。

    有名なのは「アルキメデスの鉤爪(Claw of Archimedes)」です。

    アルキメデスの鉤爪で沈没させられるローマ艦(1600年頃の壁画の一部)
    アルキメデスの鉤爪で沈没させられるローマ艦(1600年頃の壁画の一部) / Credit: ja.wikipedia

    これは城塞の縁に設置したクレーン状の腕部の先端に金属製の鉤爪を取り付け、それを近づいてきた敵船に引っ掛けて持ち上げることで転覆させるものでした。

    イメージとしては下図のように、クレーンに取り付けた紐を人と家畜で後方に引っ張って鉤爪のアームを持ち上げたと考えられます。

    「アルキメデスの鉤爪」のイメージ
    「アルキメデスの鉤爪」のイメージ / Credit: SnapJelly – Claw of Archimedes – Weird weapons episode 4(youtube, 2019)

    そしてもう一つ、歴史家の間で大いに注目されてきたのが「死の光線(death ray)」です。

    これについては2世紀の著述家ルキアノスによって、アルキメデスが鏡を用いて敵船に次々と火を起こし撃退したという記述が残されています。

    しかしこれ以降の歴史家や科学者たちは、「死の光線」が本当に実現可能なのか大いに疑問を抱きました。

    特に14〜16世紀のルネサンス期以降に熱い議論が始まり、フランスの有名な哲学者であるルネ・デカルトなどは「科学的に不可能だ」と反対の意を唱えています。

    ところが、ここ数十年の研究で「死の光線」は実現可能だったことが示唆されつつあるのです。

    アルキメデスの「死の光線」を作ってみた!

    「死の光線」の仕組みは、現代の小学生でも十分に理解できるシンプルなものです。

    簡潔にいえば、太陽光を一点に集光して熱を発生させるというもので、多くの人が虫眼鏡を使って厚紙に火をつける実験で経験済みかもしれません。

    アルキメデスの時代にも、ピカピカに磨いた青銅の鏡を用いて太陽光を集光する技術はすでに存在しました。

    城塞に設置した鏡で太陽光を集光し、敵船に火をつける
    城塞に設置した鏡で太陽光を集光し、敵船に火をつける / Credit: ja.wikipedia

    この「死の光線」の実証テストとして初期のものが、1973年ギリシアの科学者チームによって行われています。

    ここでは縦1.5メートル、横1メートルの銅で覆われた鏡70枚を設置し、約50メートル先のローマ軍艦に見立てたベニヤ板の模型に太陽光を照射したところ、ものの数秒で板に火がついたと報告されました。

    ただ、この実験ではベニヤ板にタールが塗られていたため、実際より燃えやすくなっていた可能性が指摘されています。

    そこで米マサチューセッツ工科大学(MIT)は2005年に、タールを塗っていない木製の模型船を用いて新たな実験をしました。

    127枚の小さな鏡を使って集光する実験
    127枚の小さな鏡を使って集光する実験 / Credit: MIT – Archimedes Death Ray: Idea Feasibility Testing

    MITのチームは、30センチ四方の小さめの鏡を127枚用意し、それらを円弧状に並べて、30メートル先の模型船に集光しました。

    その結果、模型船の表面に斑点状の焦げ目が生じ、照射からわずか11分後に点火が確認できたのです。

    照射から11分後に点火した!
    照射から11分後に点火した! / Credit: MIT – Archimedes Death Ray: Idea Feasibility Testing

    その一方で、空が曇り出した状態では10分間の照射を続けても点火が見られなかったという。

    以上の結果からチームは、気象条件さえ整っていれば「死の光線」は十分に実現可能だったろうと述べています。

    しかし研究者の中には、シラクサはシチリア島の東岸に面しているため、効果的に太陽光を集光させる時間帯は朝方に限られていたのではないかと指摘する意見もあります。

    そのため「死の光線」がメインの兵器として機能した可能性は低く、火矢やカタパルトの方が実用的だったかもしれません。

    ちなみに直近ですと、12歳の少年が自作した縮小版の模型セットで「死の光線」が実用可能だったことを発表し、児童科学賞を受賞しています(CSFJ, 2024)。

    12歳の少年が「死の光線」の縮小版を自作し、実証テストを行った
    12歳の少年が「死の光線」の縮小版を自作し、実証テストを行った / Credit: CSFJ – THE POWER OF THE ARCHIMEDES DEATH RAY(2024)

    他方で史実に戻ると、シラクサはアルキメデスの奮闘も虚しく陥落し、ポエニ戦争もローマ軍の勝利で幕を閉じています。

    これ以降、ローマ共和制の本質を転換させ、本格的なローマ帝国として世界に冠たる最強国家となっていきました。

    そして当のアルキメデスはシラクサ陥落後に、ローマ軍司令官のマルクスクラウディウス・マルケッルスの命令に反して殺害されています。

    全ての画像を見る

    参考文献

    12-Year-Old Builds Replica Of Archimedes’ Death Ray – And It Works
    https://www.iflscience.com/12-year-old-builds-replica-of-archimedes-death-ray-and-it-works-72875

    Archimedes Death Ray: Idea Feasibility Testing
    https://web.mit.edu/2.009_gallery/www/2005_other/archimedes/10_ArchimedesResult.html

    THE POWER OF THE ARCHIMEDES DEATH RAY
    https://csfjournal.com/volume-6-issue-4-1/2024/1/7/the-power-of-the-archimedes-death-ray

    ライター

    大石航樹: 愛媛県生まれ。大学で福岡に移り、大学院ではフランス哲学を学びました。 他に、生物学や歴史学が好きで、本サイトでは主に、動植物や歴史・考古学系の記事を担当しています。 趣味は映画鑑賞で、月に30〜40本観ることも。

    編集者

    海沼 賢: 以前はKAIN名義で記事投稿をしていましたが、現在はナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。

    太陽光で敵船を燃やす!アルキメデスの古代兵器「死の光線」は実現可能だった?!


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    考古学者の主張によれば、原始人が骨付き肉ばかり食べていたというイメージは間違いだったようですね。当時の食事は植物が8割、肉が2割という割合だったとのこと。食生活についての新たな知見です。

    1 ごまカンパチ ★ :2024/01/27(土) 16:36:54.47 ID:57dcJhmw9
    https://news.yahoo.co.jp/articles/3cbcd2a2ff67e87112da1c05133253b5bc506724
     原始の狩猟採集民はもっぱら植物や野菜を食べていたことが新たな考古学調査でわかり、
    われわれの祖先が高タンパクで肉たっぷりの食生活をしてきたという通念が揺るがされている。

    その根拠は、ペルーアンデス山脈にある、9000年~6500年前の墓地遺跡2ヵ所で発掘された24人の遺骨の分析に基づいており、
    農耕生活に移行する前のおもな栄養源が野生のじゃがいもなどの根菜だったかもしれないことを示唆している。

    科学誌「PLOS ONE」に掲載された今回の研究論文の首席執筆者であるランディ・ハース博士(米ワイオミング大学考古学助教)は言う。
    「原始人の経済は狩猟中心だったというのが一般通念です。そうした考え方から現代に、パレオ・ダイエットなど高タンパクな食事療法がたくさん流行るようになったのです。
    われわれの分析では、当時の食べ物は植物が8割、肉は2割だったことが示されています」
    農業経済への移行は乱獲によって引き起こされたものだとする説もこれまであったが、最新の研究結果は採食から農業へと徐々に移っていった可能性を提起している。

    今回の研究対象は、ウィラマヤ・パッタと、そこから約1.6キロ離れたソロ・ミクアヤ・パッタという、いずれもアンデス山脈にある墓地遺跡から発掘された遺骨だ。
    科学者らは遺骨を分析し、その炭素と窒素の化学形態を、地場の植物や動物から採取した同様の化学形態と比較した。
    その分析から示されたのは、植物性食物が人々の食生活の大半を占めており、肉は二次的な役割を果たしていたということだった。

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    5000年前のワイン壺の発掘は本当に驚きですね。これはエジプトの歴史にとっても貴重な発見です。古代の人々がどのようなワインを飲んでいたのか、興味津々です。

    カラパイアの元の記事はこちらからご覧ください

     考古学者たちは、古代遺跡から5,000年前の太古のワインの痕跡を発見した。

     ナイル川の西岸の砂漠には、エジプト神話に出てくるオシリス神復活の地「アビドス」があるが、そこにあるウンム・アル・カーブ(初期王朝の王のネクロポリス)で、エジプト第1王朝期の王妃であるメルネイト女王の墓が発掘された。

     女王の墓から密封された数百個のワインの壺が発見されたのだ。保存状態の良い壺の中には古代のワインの残滓がまだ残っていた。

     発掘を行ったエジプトドイツオーストリアの合同考古学チームによると、壺に刻まれていた文字は、王妃の極めて高い地位を示す証拠だったという。

    【画像】 良好な状態で発見された5000年前のワインの壺

     エジプト観光考古省の声明で、考古最高評議会の事務局長ムスタファ・ワジリ博士は、この発見の重要性をあらためて確認した。

     ワインの壺はかなり良好な状態で発見され、中のワインの残滓は、およそ5000年前のものであるという。

     これら壺以外にも、当時の埋葬習慣や信仰が垣間見える、葬送用備品の数々についても明らかにした。

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    密封されたワイン瓶から取り出されたブドウの種子 / image credit:EC Kohler

     カイロにあるドイツ研究所所長、ディーテルシュ・ラオ博士は、今回の発掘によって、メルネイト女王の生涯や統治について新たな洞察が得られたと説明した。

     女王の墓から出土した銘板に刻まれた碑文は、中央政府における彼女の役割の重要性を強調している。

     女王が「中央政府の役所を担当し、非常に高い地位にあった」と記されている。今回の発見は、謎めいているが、非常に重要なこの古代の支配者の生涯をさらに詳しく語ってくれることになるだろう。

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    アビドスのウンム・アル・カーブ(初期王朝の王のネクロポリス)で、メルネイト女王の墓が発掘された / image credit:EC Kohler

    輝かしい統治の証明となるメルネイト女王の墓

     摂政であり、王妃でもあったメルネイトは、「ネイトに愛された者」を意味する女神ネイトにちなんだ名を持ち、エジプト史の中でも際立っている。

     おそらく、第1王朝の3代目または4代目のファラオだったらしい夫ジェトの死後、紀元前3050年から3000年の間にエジプトで権力を掌握したと考えられている。

     息子のデンが、王位に就くにはまだ若すぎたためで、王妃が摂政だった期間は彼が成人するまでだったと思われる。

    ・合わせて読みたい→黄金の舌を持つミイラが新たに3体エジプトで発掘される。冥界の神オシリスと死後に会話を交わすため

     メルネイトが、こうしたいきさつでエジプトを支配した最初の女王だったのか、あるいは2番目の女王だったのかについての議論の決着はついていない。

     ネイトホテップが古王国第1王朝の最初の女性ファラオだと主張するエジプト学者もいる。

     長い間、エジプト学者たちは、女性が権力の座に就くのは、古代エジプト第1王朝の時代から数世紀後のことだと考えていた。

     しかし、この時代の強力な女性統治者の情報は、証拠が明らかになったことから、事実として受け入れられるようになった。

     一方、メルネイトの存在と統治力に関する決定的な証拠は、アビドスにあった。

     古代エジプトエジプト神話に登場する冥府オシリス神復活の地として知られるアビドスは、、ナイル川の西岸の現在のエジプトソハーグ県にある。

     男性王族の眠る墓の中にあって、Yの墓には、統治者メルネイトの名が刻まれている。

     また、壺や石の器や印章といったメルネイトの名が刻まれた遺物が、マスタバ(古代エジプトの墳墓)3503から発掘された。

     メルネイトの墓から新たにワイン壺が多数見つかったことで、さらにこの証拠の信憑性が増した。

     メルネイトの遺産は、新王国時代には薄れてしまったように見えた。彼女の名は、しかるべき統治者リストにはないが、古王国の有名なパレルモ石には、ちゃんとその名が記されている。

     さらに、彼女の影響力の証拠は、第1王朝の統治者たちの名を並べたデン王の墓で見つかった紋章からも明らかになっている。

     ホルス神と関連づけられる、疑いようのない男性統治者の名の中において、メルネイトの称号は、はっきりと「王の母」となっている。

     とはいえ、議論は白熱している。メルネイト単独統治に異を唱える学者の中には、第1王朝の統治者を列挙した別の印章は、メルネイトの名を明らかに排除していると指摘する者もいる。

     忘れられた統治者だったのか、意図的に省かれたのか、いずれにしても歴史におけるメルネイトの存在は、依然として興味の尽きない謎を残したままだ。

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    メルネイト女王の墓は、Yの文字で表されている / image credit:PLstrom / CC0

    メルネイトの墓はエジプトの初代女王のものなのだろうか?

     メルネイト女王の墓は、アビドスのウンム・エル・カーブにある第1王朝のほかのファラオたちと関連する地域で、1900年にフリンダース・ペトリー氏によって発見された。

     有力な証拠のいくつかは、この墓が彼女のものであることを示すふたつの石碑だ。

     彼女が初代エジプト女王であることが明らかになったのは、のちに手がかりが発掘されてからだった。

     おもに生レンガ、粘土、木の板で造られたメルネイトの墓には、独特の特徴がある。これは、現在までにアビドスで見つかっている第1王朝の女性王族の唯一の墓のようだ。

     重要なのは、この墳墓では彼女の側近や使用人のものと思われる墓がほかに41基も見つかっていることで、これらは、さまざまに異なる時代に埋葬されたことがうかがえる。

     最新の発見は、エジプト史における初代王朝の側面の一部をさらに明らかにし、この時代の王室の埋葬習慣をより深く理解させてくれる。

     発掘研究はまだ進行中で、考古学チームは、メルネイト女王をとりまく歴史と彼女の真の正体に関する秘密をさらに紐解こうとしている。

    References:5,000-year-old wine for Egyptian queen / 5,000-Year-Old Wine Jars Unearthed at Queen Merneith's Tomb / written by konohazuku / edited by / parumo

     
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    古代エジプト女王の墓から5000年前の密封されたワイン壺が大量に発掘される


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    トルコの古代遺跡からの発見は何度かありましたが、今回の粘土板は本当に驚きですね。どんな言語が記されているのか、解読が進めば私たちの知識の範囲が広がることでしょう。続報が待ち遠しいです!

    カラパイアの元の記事はこちらからご覧ください

     3,000年以上も忘れ去られていた、失われた言語の存在が明らかとなった。

     トルコアナトリア中央部にあった、ヒッタイト帝国の首都、ハットゥシャの遺跡から出土した粘土板に刻まれていた楔形文字のおかげだ。

     それはこれまで知られることのなかった、インドヨーロッパ語系の言語カラスマ語で、ヒッタイト帝国の歴史や文化を知ることができる貴重な発見である。

    【画像】 かつて巨大な勢力を誇っていたヒッタイト帝国

     ヒッタイト王国とそれに続く帝国は、トルコアナトリア中央部を拠点とし、その首都はハットゥシャにある。

     豊富な考古学遺跡と文献情報から、ヒッタイト帝国は紀元前1650年から紀元前1200年の間の東地中海と近東における旧世界の主要勢力のひとつとして認められている。

     その最盛期、ヒッタイトはアナトリアの中央部、南部、南東部と、レバント北部、シリア北部を支配していて、アナトリアのほぼ全土がヒッタイトの勢力下にあった。

     この間、ヒッタイト帝国は近東における社会政治的覇権を争って、エジプトと戦っていた。この争いは、紀元前13世紀初頭のシリアのカデッシュ時代に、最大規模の戦闘へと発展した。

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    アナトリアにあるヒッタイトの遺跡 photo by iStock

     紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国と中央行政システムは、大規模再編によって崩壊し、その影響は近東周辺に広まった。

     ヒッタイト最後の王として知られている、シュッピルリウマ2世の治世は、紀元前1207年頃に始まり、アナトリア内のいくつかのライバル勢力やアラシヤ(キプロス)との陸や海での戦いの勝利はあったものの、その後、ヒッタイトの統治者がの記録に残ることはなかった。

     エジプトの統治者ラムセス3世の碑文(紀元前1188年もしくは紀元前1177年)には、エジプトが攻撃される前に、"海の民"によって一掃された者たちの中にヒッタイトの名が記されている。

     ヒッタイトの首都ハットゥシャは、紀元前1650年頃、ヒッタイト古王国の王、ハットゥシリ1世によって設立された。

     ハットゥシャ、ハットゥサス、ハットゥシュとしても知られるこの古代都市は、トルコのアンカラから東に210キロのアナトリア高原中北部に位置している。

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    ハットゥシャ遺跡 / image credit: A. Schachner, German Archaeological Institute, Istanbul

    20世紀より発掘が始まり3万枚以上の粘土板を発掘

     ハットゥシャ遺跡は19世紀に再発見され、1930年代ドイツ考古学研究所の考古学者たちによって発掘が始まった。

     「ここは、1986年からユネスコ世界遺産に登録されています」ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルグ校のダニエル・シュヴェマー教授らは語る。

     これまでに、楔形文字(くさびがたもじ)が刻まれた粘土板がおよそ3万枚発見されているという。

     2001年ユネスコ世界記録遺産に登録されたこれらの粘土板は、ヒッタイトとその近隣諸国の歴史、社会、経済、宗教的伝統についての豊富な情報を教えてくれる。

     粘土板の文書のほとんどは、ヒッタイト語で書かれている。これは、世界最古のインド・ヨーロッパ語で、この遺跡で主流の言語であったことが証明された形だ。

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    ハットゥシャで発掘されたヒッタイト語の楔形文字が記された粘土板の1つ。これは大英博物館に保管されているもので、平和条約が記録されている / image credit:Trustees of the British Museum

    未知なる言語が楔形文字で刻まれた粘土板を発見

     その粘土板の中に。かつて使用されていたが、長年忘れ去られていた別の言語が発見されたのだ。

     ヒッタイト人は、外国語で儀式を記録することに独特の関心を持っていたという。

     シュヴェマー教授はこう語る。

    ヒッタイト王の筆記者によって書かれたこうした儀礼文書は、アナトリアシリアメソポタミアのさまざまな伝統や言語環境を反映したものです

    単にヒッタイト語が話されていたというだけでなく、あまり知られていない青銅器時代後期のアナトリアの言語背景を垣間見る機会を与えてくれる貴重なものです

     ハットゥシャの楔形文字文書には、ヒッタイト語にかなり近いアナトリアインドヨーロッパ語であるルヴィ語やパライ語、非インドヨーロッパ語のハッティ語の文章も含まれている。

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    トルコ、ハットゥシャにあるアンバリカヤ山麓の遺跡で、未知のインドヨーロッパ言語が発見された / image credit:Andreas Schachner / Deutsches Archaologisches Institut.

    カラスマ地域に住んでいた人が話していた言語の可能性

     新たに見つかった言語は、おそらく現在のトルコ、ボル州の、ヒッタイト中心部の北西端地域、カラスマに住んでいた人たちによって話されていたのではないかと、専門家は考えている。

    カラスマの文書は、まだほとんどが未解読です」フィリップ大学マールブルグ校のエリザベス・リーケン教授は言う。

     これは、アナトリアインドヨーロッパ語系の言葉だそうで、地理的には、パライ語が話されていた地域に近いが、文章はルヴィ語との共通点が多いようだ。

     カラスマ語が、青銅器時代後期のアナトリアの方言であるルヴィ語と、どの程度密接に関連しているのかが、今後の研究テーマとなるそうだ。

    References:3,000-Year-Old Cuneiform Tablet Reveals Previously Unknown Language / 'Ritual text' from lost Indo-European language discovered on ancient clay tablet in Turkey | Live Science / written by konohazuku / edited by / parumo

     
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    トルコの古代遺跡から未知の言語が記された粘土板が発見される


    (出典 news.nicovideo.jp)

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