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    カテゴリ:科学 > 歴史



    歴史的に有名な戦い。

    これまで「桶狭間の戦い」は、兵力に劣る織田信長今川義元を奇襲で倒したとされてきた。ところが、これは最新研究では覆されている。歴史学者の渡邊大門さんは「奇襲説の根拠となる史料の信憑性が低く、現在では正面攻撃説を支持する研究者が多い」という――。(第2回)

    ※本稿は、渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

    ■桶狭間の戦いにおける今川義元の軍勢の本当の数

    永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は小姓5騎のみを引き連れ、居城の清須城をあとにした。率いた軍勢は、わずか200と伝わっている。やがて、信長は軍勢を熱田神宮名古屋市熱田区)に集結させると、今川氏との対決に向けて戦勝祈願を行ったのである。すでに、鷲津・丸根の両砦は落ちており、煙が上がっていたという。

    一方の義元は、桶狭間山で休息を取っていた。率いた軍勢は、約4万5000。信長の軍勢をはるかに上回っていた。

    ところで、この約4万5000という数はあまりに多すぎる。もう少し後の時代になると、百石につき3人の軍役を課されるようになった。百万石の大名ならば、3万の兵になる。慶長3年(1598)の時点で、遠江は約25万石、駿河は約15万石だったので、合計で約40万石である。

    先の基準に当てはめると、約1万2000というのが妥当な兵力である。ただし、右の基準は慶長年間のものなので、実際はもっと少なかった可能性がある。

    ■昼までには大勢が決まっていた

    今川方の動きは、どうだったのだろうか。大高城にいた松平元康徳川家康)は、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる織田方の佐久間盛重は、500余の兵とともに打って出たが、敗北し自らも戦死した。

    鷲津砦を守備する織田方の飯尾定宗、織田秀敏は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は今川方によって制圧され、織田勢力は一掃されたのである。

    制圧後、義元の率いる本隊は沓掛城を発つと、大高城方面に軍を進めた。その後、さらに向かって西に進み、南に進路を取った。5月19日の昼頃、義元の本隊は桶狭間に到着すると、早くも戦勝を祝して休息し、来るべき信長との戦いに備えたのである。

    この時点で、今川軍は総勢約2万だったといわれているが、義元の本陣を守っていたのは5000から6000くらいの軍勢だったという。

    ■信長が見た勝機

    信長が桶狭間に進軍したのは、5月19日午前のことである。中島砦を守備する織田方の佐々政次、千秋(せんしゅう)四郎らは、信長出陣の報告を受けて、大いに士気が上がった。

    早速、佐々、千秋は約300の兵で今川方に攻撃を仕掛けるが、返り討ちに遭い討ち死にしてしまった。佐々、千秋の兵も約50が討たれた。

    この報告を受けた義元は、「矛先は天魔・鬼人も超えきれぬだろう。心地よいことだ」と大いに喜び、謡いを謡ったという。逆に、士気が高まったのは、今川方のほうだった。

    信長が出陣しても、事態を挽回するのは困難になったに違いないが、果敢にも出陣し義元に戦いを挑んだ。

    熱田神宮名古屋市熱田区)で戦勝祈願を終えた信長は、5月19日午前に鳴海城(名古屋市緑区)近くの善照寺砦に入った。ここで、織田方は桶狭間に今川方が駐在しているとの情報を得たので、中島砦へ移動しようとした。

    このとき信長の軍勢は2000だったといわれているが、劣勢には変わりなかった。信長は中島砦に到着すると、さらに兵を進めようとした。すると、家臣らは信長に縋り付いて止めようとした。

    しかし、信長は敵兵がここまでの戦いで疲れ切っていること、わが軍は新手なので、敵が大軍でも恐れることはないと檄(げき)を飛ばした。

    そして、敵が攻撃したら引き、敵が退いたときに攻め込めば、敵を倒すことができるとも述べた。戦いに勝ったならば、家の面目になると言ったところで、前田利家らが敵の首を持参した。これにより、織田軍の士気は大いに高まった。こうして信長は、桶狭間への進軍を開始したのである。

    ■突如、雹混じりの雨が降る

    5月19日の午後になると、にわかに視界を妨げるような豪雨に見舞われた。雨には雹(ひょう)が含まれており、今川軍の将兵の顔を激しく打ち付けた。すると、沓掛峠の楠の大木がにわかに倒れたので、織田軍の将兵は熱田大明神の神意ではないかと思ったという。織田方はこの悪天候を活用し、やがて晴れ間がのぞくと義元の本陣に突撃した。

    信長は槍を取って大声を上げると、今川軍に攻め込むように指示した。今川軍は織田軍が黒煙を上げて突撃してきたので、たちまち総崩れになった。弓、槍、鉄砲、幟(のぼり)、指物は散乱し、義元は乗っていた塗輿(ぬりごし)を捨て敗走した。

    信長は、容赦なく追撃を命じた。今川軍は300ほどの軍勢で、義元を守りながら退却したが、敵と交戦するうちに兵が討ち取られ、ついに50くらいまで減ってしまった。

    ■「海道一の弓取り」の最期

    信長も馬から降りて槍で敵を突き伏せると、若い将兵も次々と今川軍を攻撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。今川軍は馬廻り衆、小姓衆らが次々と討たれ、窮地に陥った。

    すると、信長配下の服部小平太が義元に斬りかかったが、逆に膝の口を斬られて倒れ伏した。その後、義元は毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を討ち取られたのである。義元を討たれた今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。

    ■桶狭間の戦いは奇襲だったのか

    ここで、改めて桶狭間の戦いについて考えてみよう。

    桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、奇襲攻撃、正面攻撃という二つの説がある。永禄3年(1560)5月19日、信長は今川義元桶狭間の戦いで破った。義元の2万〜4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか20003000の兵のみだった。

    とはいえ、義元の率いた2万〜4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。

    信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説だった。しかし、今や有名な「迂回(うかい)奇襲説」には、異論が提示されている。

    「迂回奇襲説」によると、5月19日の正午頃、信長の家臣・千秋四郎ら約300の兵が今川軍に攻め込んだが敗北。敗北後、信長は義元が陣を敷く後ろの山へ軍勢を移動させ、迂回して奇襲することを命じた。

    そのとき、視界を遮(さえぎ)るような豪雨となり、信長軍は悪天候に紛れて進軍したという。義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4000~5000の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。

    つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。以上の経過の出典は、小瀬(おぜ)甫庵(ほあん)『信長記』であり、明治期の参謀本部編『日本戦史桶狭間役』により、事実上のお墨付きを与えられた。

    ■奇襲説の根拠は「不適切」な史料

    ところが、この通説には異儀が唱えられた。それは、そもそも小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。

    儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16~17年(1611~12)説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。

    そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。

    それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史の史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。

    先述のとおり、『信長記』の成立は10年ほど早いことが立証された。これをもって『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かにあまり関係ない。

    『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣るので、桶狭間の戦いを論じるうえで不適切な史料なのだ。

    ■有力な正面攻撃説の中身

    最近の研究では『信長公記』を根拠史料として、次のように指摘された。

    千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。

    今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である(藤本:二〇〇八)。

    現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。

    ■桶狭間戦いの真実が見えにくいワケ

    信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。

    ほかにも、織田軍は今川軍が乱取り(掠奪(りゃくだつ))に夢中になった隙を狙って、酒盛りをしていた義元を討ったという説がある(黒田:二〇一五)。この説は、『甲陽軍鑑』に基づいた説である。かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。

    とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とかけ離れているので、そのまま鵜吞みにできないと考えられる。

    ほかにも桶狭間の戦いに関しては、さまざまな説が提供されている。しかし、史料の拡大解釈や論理の飛躍もあり、定説に至らないのが現状である。

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    渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
    歴史学
    1967年生まれ。1990年関西学院大学文学部卒業。2008年佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。

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    織田信長像(画像=狩野元秀/東京大学史料編纂所/愛知県豊田市長興寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【歴史】「織田信長は奇襲で今川義元を破った」はもう古い…「桶狭間の戦い」の最新研究で論じられていること】の続きを読む



    歴史的に貴重なモノですね。

    カラパイアの元の記事はこちらからご覧ください

     イギリスにあるローマ帝国の遺跡で、紀元3世紀のものと思われる、「いちもつ」と悪口が刻まれた石が発見された。考古学者によると、ローマの兵士が仲間を侮辱するために彫ったものであるそうだ。

     1700年前の人も今の人とやることはあまり変わらないなーってことだ。

     石がメモ代わりの時代だったことから、刻まれた落書きはしっかりと後世に残されちゃったわけで、デジタルタトゥーならぬストーンタトゥーってやつだな。

    【画像】 1700年前のローマ帝国時代のいちもつが彫刻された石

     5月19日ローマ帝国の砦跡「ヴィンドランダ」で発見された問題の石の大きさは、幅40センチ、高さ15センチほど。石に落書きが彫られたのは3世紀頃だと考えられている。

     そのすぐ北にある「ハドリアヌスの長城」は、カレドニア(現在のスコットランドや北部イングランド)のピクト人からイングランド北部を守るために築かれたもので、当時のローマ帝国の北限でもあった。

     遺跡の発掘を行う「ヴィンドランダ慈善信託(Vindolanda Charitable Trust)」は、発掘調査をボランティアに頼っており、発見者はその1人である、ディラン・ハーバート氏だ。

     「裏から見ると、その他と同様に普通の石ですが、ひっくり返すとはっきり文字が見えたので驚きました」と、ハーバート氏は声明でコメントする。

     泥を落としてみると、かなりしっかり彫られたいちもつ彫刻の全貌が明らかになったのだという。

    [もっと知りたい!→]なぜ古代彫刻像の息子スティックはあんなにも小さいのか?科学的に検証する。

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    発掘されたイチモツ彫刻石 / image credit:The Vindolanda Trust

    一緒に書き記されていた悪口の内容は?

     目を引くのはいちもつ彫刻だが、研究者がより関心を抱いているのは、一緒に彫られているSECUNDINUS CACOR」という文字だ。これは「Secundinus cacator」を略したもので、「セクンディヌス(人名)のウンコたれ」という意味であるとのこと。

     考古学者にとって過去からのメッセージは常に素晴らしい贈り物だが、さすがにこれには面食らったようだ。

     「石のメッセージを解読して眉をひそめました」と、ヴィンドランダ慈善信託のアンドリューバーリー氏は語る。

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    発見者のディラン・ハーバート氏。足元にあるのがいちもつ彫刻だ / image credit:The Vindolanda Trust

    ローマ帝国では良く使用されていた男性器モチーフ

     男性器モチーフにしたオブジェを「ファルス」といい、ローマ帝国では特に珍しくなかった。金属製のいちもつは魔除けや加護、繁殖の象徴として男女問わずお守りとして身に着けていた。

     ヴィンドランダはまだ4分の1程度しか発掘が進んでいないが、ここで発見されたファルスは今回で13点目だ。

     最近のものとしては、2021年6月に発見されたイチモツを露出した裸の騎兵の彫刻が挙げられる。こちらは、幸運や豊穣祈願の為のものだったようだ。

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    裸の騎兵の彫刻石 / image credit:The Vindolanda Trust

    前代未聞の悪い意味で使用されたいちもつ彫刻

     だが今回のものは明らかに悪口で、それゆえに専門家を驚かせている。

     彫刻の深さから、かなり時間をかけて彫ったものであることがうかがえる。落書きした人物は、よほど「セクンディスヌス」と言う人物のことを嫌っていたようだ。

     そんなものを砦の人目につくところに置けば、相手を辱める効果はテキメンだったろう。現代のSNSでも悪口は絶えないが、そのローマ帝国版と言ったところだろう。

     「落書きした本人がセクンディヌスと大きなトラブルにあったことは明白で、それを公にしたいほど恨みがあったようです」と、バーリー氏は説明する。

     「1700年前、現地をぶらついていたセクンディヌスは、これを見てさぞ不快な思いをしたことでしょう」

     セクンディヌスはその汚名を21世紀にまで引き継がれてしまったわけで、お気の毒としか言いようがないが、いったいなぜそこまで嫌われてしまったのだろう?

     タイムトラベルができるなら、落書きをした本人に会ってインタビューをしてみたい。

    References:Vindolanda discovery / Penis graffiti and explicit insult carved into ancient stone 'raises eyebrows' at Roman fort | Live Science / written by hiroching / edited by / parumo

     
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    古代ローマの要塞で発見された、いちもつと悪口が刻まれていた石


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    輸入されたもの?

    千葉工業大学(千葉工大)は2月14日エジプト考古学博物館に保管されている「ツタンカーメンの鉄剣」に対し、非破壊・非接触による化学分析を行った結果、同鉄剣の原材料は2種類の隕石であり、低温鍛造により製造され、エジプト国外から持ち込まれた可能性があることを明らかにしたと発表した。

    同成果は、千葉工大 地球学研究センターおよび同・惑星探査研究センターの松井孝典所長(千葉工大学長兼任)らの研究チームによるもの。詳細は、「Meteoritics and Planetary Science」にオンライン掲載された。

    鉄は紀元前1400~1200年頃に栄えたヒッタイト帝国がその製造技術を独占することで軍事的優勢を得ていたとされ、それ以前に、世界にはまだ鉄の製造技術はなかったと考えられている。しかし、エジプトツタンカーメン王(紀元前1361年~1352年)の棺から鉄剣が発見されており、歴史上の謎とされてきた。

    この鉄剣は紀元前14世紀(紀元前1400年~同1301年)に製作されたと考えられるが、そのころのエジプトには製鉄技術は存在していなかったため、当時の人々は宇宙から飛来した鉄隕石を加工し鉄剣を製造したと考えられ、実際に2016年イタリアの研究チームによって行われた調査では、鉄・ニッケルコバルト濃度の測定から、鉄剣の材料が鉄隕石であることが確認されている。しかし、鉄隕石からの鉄剣の製造方法については明らかにされていない。

    そこで研究チームはその鉄剣の分析を行うことを目的に、2020年2月にエジプト考古学博物館を訪問し、ポータブル蛍光X線分析装置を用いて、非破壊・非接触で鉄剣の元素分布の分析を行ったという。

    その結果、鉄剣の両面の組成分析から10~12%のニッケルが含まれることが判明したほか、ニッケル二次元元素分布から、鉄剣の表面にニッケルの含有量が10%前後の鉄隕石の断面に見られる結晶構造「ウィドマンシュテッテン構造」(ビドマンシュテッテン構造とも)を示す組織が確認され、このニッケル量とウィドマンシュテッテン構造から、鉄剣の原材料は「オクタヘドライト」という種類の隕石であることが判明したという。

    また、所々に黒い斑点状に分布する物質は硫化鉄(FeS)で、オクタヘドライト隕石中に一般的に見られる硫化鉄包有物由来と考えられるとするほか、ウィドマンシュテッテン構造および硫化鉄包有物が保存されていることは、鉄剣が低温(950度以下)での鍛造により製造されたことを示すとする。

    さらに、金の柄部分の定量分析から、少量(数wt%)のカルシウムが含まれていることも判明。これは、柄に装飾物を接着するために使われた漆喰に由来することが考えられるとするほか、硫黄が含まれていないことから、焼石膏(CaSO4・1/2H2O)ではないことも判明したという。エジプトで漆喰が利用され始めるのは、ツタンカーメン王の時代から1000年以上後の時代とされているため、この鉄剣はエジプトとは別の国で製造された可能性が示されたとする。

    なお、アマルナレターという古文書には、ヒッタイト帝国の隣国であるミタンニ王国(現在のトルコシリアの国境付近)からツタンカーメンの祖父であるアメンホテプ3世への贈答品の中に、鉄剣が含まれると記録されており、ツタンカーメンの鉄剣はその贈答品の1つとしてミタンニからエジプトへと持ち込まれた可能性があるという。
    (波留久泉)

    画像提供:マイナビニュース


    (出典 news.nicovideo.jp)

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    争いが起きていた。その当時何が起きていたのかな?

    1 少考さん ★ :2022/02/02(水) 06:44:59.00

    頭に傷痕、複数の縄文人骨発見 集団間で争いか、北海道
    https://nordot.app/861191621302665216

    2022/2/1 19:29 (JST)
    2/1 19:45 (JST)updated


    (出典 nordot-res.cloudinary.com)

    鈍器で殴られた痕(〇で囲んだ部分)のある頭蓋骨(青野友哉・東北芸術工科大准教授提供)

     北海道伊達市の「有珠モシリ遺跡」で、集団間の争いが原因とみられる傷痕のある、縄文時代晩期の頭蓋骨が複数見つかった。発掘した東北芸術工科大(山形市)などの研究グループは「『縄文時代は平和だった』との理想化された認識に一石を投じる可能性がある」としている。

    (略)

    ※省略していますので全文はソース元を参照して下さい。


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    見方が変わる

     76回目となる終戦記念日に先立ち、原爆の“きのこ雲”の白黒写真をカラー化した画像に「76年前の今日」というコメントを添えた投稿がTwitterで注目を集めている。

    【その他の画像】

     このうち9日に投稿された長崎原爆のきのこ雲の写真は、14日までに1万8000リツイート、4万1000件のいいねを記録。色が付いて現実味が増した一連の画像に対しては「当時もこんな空だったのかな」「色が付くことでタイムスリップする感覚になる」など、当時に思いをはせる声が寄せられた。

     投稿したのは、東京大学大学院で情報デザインデジタルアーカイブを研究する渡邉英徳教授。渡邉教授は、広島出身で東京大学在学中の庭田杏珠さんとともに、第二次世界大戦にまつわる白黒写真を、AIツールと戦争体験者との対話、当時の資料、SNSで寄せられたコメントなどを活用してカラー化するプロジェクト「記憶の解凍」に取り組んでいる。AIと人のコラボレーションによって、凍りついていた記憶を「解凍」し、戦争体験者の「想い・記憶」を未来に継承するというものだ。

     渡邉教授と庭田さんの2人は、活動の一環でカラー化した写真から355枚を厳選し、2020年7月に写真集「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争」(光文社新書)として出版。戦争をテーマにした写真集としては異例の発行部数6万部を超えるベストセラーになった。

     白黒写真のカラー化というとAIによる着色も一般的になりつつあるが、同プロジェクトでは着彩に当たって、「AI:1、人力:9」の割合(写真によっては人力が9以上)で行っているという。過去の記憶を現代によみがえらせるプロセスと活動の意義について渡邉教授に聞いた。

    ●AIは補助的な役割 でも「料理のだしのような存在」

     渡邉教授が主にカラー化する写真素材は、第二次世界大戦にまつわる写真を集めたWebサイト「World War II Database」や米国国立公文書館、米海軍歴史センター、米国議会図書館などがパブリックドメインとして公開しているものが中心だ。

     カラー化には、早稲田大学の研究チームが開発したオープンソースのAI着色ツールや「DeepAI」といったAIツールを使用。

     しかし、これらAIツールによる着色をメインにするのではなく、渡邉教授は「特に人物の肌や空・海など自然物の着彩の下地として活用している」と話す。

     「ゼロから人の肌などを色付けすることは実はかなり難しく、人間が苦手とする作業。AIは機械学習の結果に基づき、自然物について、ある程度妥当な色彩を提示してくれる」(渡邉教授)

     AIは白黒写真とカラー写真のセットを数百万枚単位で学習しており、人の肌や空など普遍的な色彩を持つ被写体の着色に長ける。渡邉教授は「料理に例えると、だしのような存在だ」と説明する。

     一方で、AIは当時の人が身に着けていた衣服や電車など、さまざまな色を持ちえる人工物の色の再現は苦手とする。これらについては当時の資料や人々との対話をもとに、渡邉教授と庭田さんが手作業で色補正している。

     人力での色補正には米Adobeの「Photoshop」を駆使。渡邉教授は元ソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメントSIE)のデザイナーで、当時培ったゲームの背景デザインスキルを、写真の自然なカラー化に生かしている。

    ●公開日を過去とリンク カラー化写真への反響を基にさらに修正

     白黒写真には今とは断絶された“昔”の印象を抱いてしまうこともある。しかしカラー化することで、現在との時間軸が地続きになるような感覚を覚える人も多いのではないだろうか。

     渡邉教授は、閲覧者が当時の様子をさらに実感しやすくするため、できるだけTwitter投稿日と同じ日付の写真をチョイスし、過去と現在をひも付けることを目指しているという。

     投稿写真を見た人たちから追加資料の情報や、研究者からの見解が寄せられ、過去に公開したカラー化写真の色彩を再補正することもある。広島の少女が戦時中を生きる姿を描いた長編アニメこの世界の片隅に」を手掛けた、片渕須直監督から「原爆投下で発生した、きのこ雲の色が違う」との指摘を受け、再補正したこともある。

     庭田さんは、主に出身地である広島市内の戦争体験者から提供された写真をAIツールカラー化した後、提供者との対話を繰り返しながら当時のエピソードと「記憶の色」を聞き取り、Photoshopで色補正していく。ネット上と現実世界というフィールドの違いこそあれ、資料や対話を通して補正するというプロセスは2人に共通している。

     「自分はこの活動について、社会のどこかに“ストック”されていた写真をカラー化して、シェアすることによって“フロー”化し、対話が創発すると解釈している。これが、貴重な資料と記憶を未来に継承していく一助となるはず」(渡邉教授)

    ●人為的な色補正、当初は抵抗も「真実の色」を求め方針変更

     今でこそ人力とAIのハイブリッドカラー化している渡邉教授だが、当初は人為的に手を加えることに抵抗もあったという。

     16年に早稲田大の研究チームがAIカラーツールを公開したというニュースを見たとき、渡邉教授はその着色の自然さに「衝撃を受けた」という。試しに使い、その結果を自身のTwitterアカウントに投稿すると、一定の反応があったことから、その後も継続的にカラー化写真を投稿するようになった。

     当初はAIの補正技術を紹介する観点から「恣意的な操作を加えていない」ということを前提に投稿していたが、次第に「実際の色とは違うのではないか」といった指摘が多く寄せられるようになった。

     「AIに自動処理させるのはそもそも手作業と恣意性を排除するため。人為的な色補正はご法度ではないか」。渡邉教授は技術者出身ということもあり、活動の初期にはこうした固定観念を持っていたという。

     だが、庭田さんとともに活動していく中で「戦争体験者が思い出した色や、当時の資料や人々との対話をもとに得られた色彩を反映し、真実の色に迫っていくというプロセスこそが重要ではないか」と考えを転換。現在の手法にたどり着いた。

    ●次世代への記憶継承へ向け今後も方法模索

     カラーの再現に要する期間はさまざまで、ものによっては数年越しになる場合もある。

     色補正はかなり手間がかかる作業ではあるものの、渡邉教授は「人々との対話は、実際の色をたどり、記憶を受け継ぐために必要なプロセス。効率化する必要はない。記憶を受け継ぐのは人であって、AIではないからだ。むしろ、手間と時間を掛けることが重要ではないか」と話す。

     20年度からは新潟県長岡市との共同プロジェクトスタートするなど、白黒写真をカラー化する活動は広がりを見せている。

     渡邉教授は「これまで手掛けてきたデジタルアースを使ったアーカイブや、『記憶の解凍』でのカラー化手法は時代にあわせて生まれたもの。いずれも成熟しつつある」として、今後はさらに新しい表現技法を模索し、過去の出来事についての記憶を次の世代へ継承していきたい考えだ。

     「戦争について自分の肉親から聞いたことがない人も多いはず。写真集を起点に戦争体験者と戦争を知らない世代の方が対話するような場が生まれると、作者としてうれしい」

    カラー化した長崎原爆のきのこ雲(出典:渡邉英徳教授のツイート)


    (出典 news.nicovideo.jp)

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