令和の社会・ニュース通信所

社会の出来事やニュースなどをブログに書いて発信していきます。あと、海外のニュースなども書いていきます。

    カテゴリ:国内 > 出来事


    どうなるのかな?

    タレントの千原ジュニア(48歳)が、12月4日に放送されたニュース番組「ABEMAニュースショー」(ABEMA)に出演。“物価の優等生もやし業界の窮状を知り、「ほぼ値上がりしてるのに、もやしは…」と唖然とした。


    番組はこの日、さまざまなモノが値上げされる中、値段据え置きで販売を続ける“もやし”に着目。物価高騰が相次ぐ中、もやしはその逆を進み、約30年前は40円だった小売価格が、現在は30円に値下がりしていることを紹介した。一方で、もやし生産者協会は「安さばかりを追求していては、もう続けて行けない状況です」と新聞に全面広告を出すなど、SOSを出さざる得ない状況。それらについて、もやし生産者協会理事長の林正二さんに話を聞いた。


    林さんは「もやしの水やりには重油を使う。1回の水やりで約14トンの水を使い、それを1日6回行うので、石油高騰が大きな痛手。さらに、原料の緑豆の価格高騰し、約4倍まで上がっている。ダブルの価格高騰で非常にピンチに陥っているため、全面広告を出した」と窮状を訴えた。

    番組MCを務めるジュニアは「これだけすべてと言っていいくらい値上がりしているのに、小売価格は下がってるんですね」と唖然。さらに、もやしが低価格を維持しているワケについては「スーパーの野菜売り場で1日の買い上げ点数が多いのはもやし。お店側としては、お客さんが買ってくれる商品は1円でも安くしたい気持ちがある。そして『この店はもやしが安くて買いやすい。他の商品も安いかな?』というイメージをお店に持つので、生産者の状況を理解していても、小売単価を上げるのは難しいようだ」と解説した。

    この話を聞いたジュニアは「もやし業界を救うために何が必要だと思いますか?」と尋ねると、林さんは「今のもやしの価格は正常ではないと理解していただくことが重要。もやし生産者は利益がないし、小売店も利益を削って販売している。正常な価格になった時でも、引き続きもやしを買ってもらいたい」と呼びかけた。

    ジュニアは「よく考えたら、異常な値段ですよね」と理解を示した一方で、「『もやしは安い。30円で買えるものだ』と刷り込まれているから、これを頭の中から取っ払うことは難しい」と思い悩む様子で応じたが、コーナーの終盤では「ジンギスカンもやしってなんであんなに美味しいんやろ!? 微力ながら、もやしをたくさん食べさせていただきます」と明るく宣言して締めくくった。


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【社会】もやし業界大ピンチ、物価高騰でも価格上げるのが難しい理由】の続きを読む


    補修や取り換えなどに重点を置くべきです。

    1 ぐれ ★ :2022/12/04(日) 20:13:13.85ID:Z9utGAOI9
    ※投稿日:2022.12.02 18:22FLASH編集部

     11月29日の「いいにくいことをいう日」に合わせて投稿された、あるツイートが注目を集めている。

    《公共事業削減という気分だけの安直な意見から、人手不足・予算不足で更新が遅れてる水道管、こんなんなってたりします。公共事業削減って言ってた人達、どうぞご覧ください。》

     添付されているのは、内側が赤いサビだらけになった水道管の写真だ。

     これを投稿したのは、上下水道やガスの配管工事などをおこなう、富山市の株式会社松下工業。このツイートは12月2日時点で1.3万回リツイートされ、2.4万の「いいね」がついている。

     このツイートには続きがある。

    《いいにくいこと、はサビサビになってる水道管、のことではなく、「安直安易無責任に公共事業削減に賛成してた人に対して、いろいろいいたいことがあります」ってところ、です。ええ、そこのとこ勘違いされませんように、っと。》

     これに対して

    《水道管や道路というインフラは一回敷設して終わりじゃなくて、“定期的”(ここ重要)にメンテする必要があるんですよね》

    《公共事業削減が将来に残す借金なんだよ!インフラ整備にケチってたらなんのための国なのか?》

     など、賛同するコメントが多数ある。

     ツイートについて、松下工業に話を聞いた。まずは写真の水道管について。

    「写真は当社で施工した、上水道のものです。40年以上前に布設された、内面ライニングがされてない鋳鉄管など、ですね。誤解されたくないのですが、内面は見てのとおりサビサビになっていますが、飲み水の品質には影響はありません」

     なぜこのような投稿を?

    「旧民主党政権以降、公共事業が削減され、公務員技師と、水道管工事をする会社や技術者が減っている現状です。その危機感を伝えたいと思い、投稿しました。また、水道管などライフラインの更新は、このような経年管の取り換えという大事な工事なので、ぜひご協力をいただきたいという意図もあります。

    続きは↓
    https://smart-flash.jp/sociopolitics/212150

    【【社会】「公共事業削減って言ってた人達、どうぞご覧ください」サビだらけの水道管が物語る「インフラ整備の重要性」】の続きを読む


    そのことも真剣に考えないと、いけないですね。

    70代ひとり暮らしの女性。初めて見学に行った老人ホームが気に入り、即入居。同時に自宅を売却し、家財道具もすべて手放しました。しかし入居後に、後戻りできない大失敗を犯してしまったと、途方に暮れる日々。女性の行動のどこに落ち度があったのでしょうか。

    ご主人の介護で痛感。身内には介護されたくない!

    10歳年上のご主人を自宅で看取った中村節子さん(仮名)。2年近くの介護生活で、その大変さは身に沁みていました。自分の老後の世話を身内に任せるのだけは避けたい。そう思い、ご主人の1周忌を終えてから自ら老人ホームに入居することを決めました。

    思い立つと、即、行動するタイプの中村さんは、すぐに老人ホームのリサーチを始めました。老人ホームを多数経営している会社に電話をしてパンフレットを送ってもらったり、新聞に掲載されている広告にも毎日目を通したりしました。

    家具付きのアットホームな老人ホームとの出合い

    60歳までピアノ教室の講師をしており、近所には教え子がたくさん住んでいます。散歩をしているときに、たまたま出会った教え子に老人ホームを探していると伝えたところ、数日後、「先生、良い老人ホームがありましたよ」と教えに来てくれました。

    聞けば、その老人ホームで知人が働いていたことがあり、アットホームで評判がとても良いというのです。自宅からは電車で3駅ほど。経営母体の会社に聞き覚えはありませんでしたが、人づてに良い評判を聞くと安心するものです。

    すぐに老人ホームに電話をかけて見学の予約をしました。中村さんには3人の娘さんがいますが、いろいろ意見されるのが嫌で一人で見学会には参加しました。敷地は広くありませんが、部屋は一人暮らしには十分のスペースが確保されています。家具付きで衣類や食器、趣味のものを持ち込めば快適に暮らせそうです。身軽に引っ越しできる点も気に入りました。サークル活動はそれほど多くはないようですが、談話室では女性を中心に輪ができていて、ここなら楽しく生活ができると直感したのです。

    入居と同時に自宅が売れた! 家財道具も処分しスッキリ

    見学会から戻ると、中村さんは早速、娘さんたちに連絡をとり「老人ホームに入居する」と伝えました。驚いた娘さんたちが急きょ週末、実家に集まり、「焦らないで」「ゆっくり考えよう」と意見してきますが、中村さんは「もう決めたから」と譲りません。

    そして「この家は処分する」と宣言しました。「いくらなんでも早急すぎる」と娘さんたちは大反対です。しかし、きれいさっぱり今の生活を清算して、これからは自分の好きなことをして生きたいと中村さんは訴えました。

    老人ホームへの入居1ヵ月半後。自宅の売却は大手の不動産会社に頼みました。できるだけ早く売却したいと伝えると、相場より若干安いものの1ヵ月で買い手が見つかりました。老人ホームに持っていく品以外は、すべて売却か処分してもらうようにお願いし、中村さんはすっきりした気持ちで入居することができたのです。

    食事、外出、サークル活動、施設内設備など不満が続出

    トントン拍子に見えた転居でしたが、入居後、しばらくすると中村さんの顔はいつも曇るようになりました。見学会では老人ホームの良い面にしか目がいっていなかったことに気づいたのです。

    いちばんの不満は食事でした。フレッシュな野菜やフルーツが大好きな中村さんですが、野菜が生で提供されることは少なく、フルーツも決まった種類ばかり。仕方なく近所のスーパーに食材を買いに行き、自室で食べることも多くなりました。しかもそのスーパーは徒歩だと30分以上かかるため、毎回タクシーを呼ぶのも面倒でした。

    さらにレース編みが趣味の中村さんは、自宅のある駅に隣接する百貨店の手芸屋さんを懇意にしていましたが、老人ホームから最寄り駅までタクシーにのり、そこから電車で移動しなければなりません。なにかにつけて、不便なロケーションだったのです。

    事前に聞いていたアットホームな雰囲気は確かに感じられますが、サークル活動はほとんど機能していない点や、運動や文化活動の共有スペースがなくピアノを弾くことができないこと、敷地内に散歩できる場所がないなど、不満は次々に出てきました。

    「終の棲家」と決めるまでは、自宅は持ち続ける選択を

    中村さんは自宅を売却したことを後悔する日々でした。自宅が残っていれば、一旦、自宅に戻り、別の老人ホームを探すこともできたでしょう。長女の旦那さんとは仲が良いのでこっそり連絡をとり、どうしたらよいか相談すると、「うちで一緒に暮らしましょう」と提案してくれましたが、娘たちに啖呵を切った以上、意地でも同居はしたくありません。仕方なく、居心地の悪い老人ホームに住みながら、次の老人ホームを探す日々を送っている中村さんです。

    実は、中村さんのように老人ホームの雰囲気が合わずに退居する例は珍しくありません。また、重度の病気やケガのために長期の入院をする際には、一度、退居しなければならない老人ホームもあります。

    自宅の売却を考えている方でも、老人ホームに入居し、「ここを終の棲家にする」と決断できた段階で行動するのが得策。お子さんにも迷惑をかけず、ご本人も余裕を持って手続きなどを進めることができるでしょう。

    ※画像はイメージです/PIXTA


    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【社会】帰る家がありません…「老人ホーム入居を即決」した70代の女性、悔やみきれない大失敗】の続きを読む


    かなり大変かもしれない。

     自分のことは、自分自身がいちばんわかっているという人も多いのではないでしょうか? けれどたまには、「なぜあのとき、あのような行動をとったのだろう?」と、過去の自分に驚くようなことがあるかもしれません。

    退職
    ※画像はイメージです(以下同じ)
     大学卒業後すぐに希望の会社へ入社し、やる気に満ち溢れていた道枝響也さん(仮名・27歳)。また、働き方改革などの影響もあって残業がほとんどなく、休日もしっかりと休める環境だったことにも満足していたと言います。

    大学時代からの憧れの仕事に就いた

    「商品開発の仕事は、大学に通っていた頃からの憧れでした。自分の好きな仕事をやりながら、仕事終わりの時間や休日も充実している最高の日々です。仕事帰りに本屋へ寄ったり友達と食事したり。休日には釣りやバーベキューも楽しみました

     道枝さんは、思いついたアイデアをどんどんと資料にまとめて発表。上司や先輩から「面白い!」と褒められることも多く、実際に商品化されたものもありました。そんな道枝さんはよく、「期待している」と言われるようになります。

    上司の姿を見ると不安が大きく…

    上司 交通

    そのうち、プロジェクトリーダープロジェクトマネージャーなどの役職に就いている人たちのことが気になるようになりました。自分も歳を重ねれば、いくつものプロジェクトプロジェクトリーダーなどを任されるようになるからです」

     いざ冷静に、プロジェクトリーダープロジェクトマネージャーをしている上司たちを観察してみると、常に手いっぱいといった様子。残業時間を超えると会社から注意されるため、持ち帰れるような内容のものは自宅へ持ち帰っていました。

    「しかも、休日も社内専用チャットなどで連絡を取り合っている現実が見えてきたのです。いまは帰宅後に時間のゆとりがあり、休日もゆっくり休める。でも、自分が上の立場になったら、いまのようには休めなくなってしまいます。将来のことを考えると不安は大きくなるばかりでした

    田舎の古民家を購入して会社を退職

     大学を卒業後はずっと会社員として働き続けるものだと信じて疑わなかった道枝さんですが、いろいろと考えて退社することを決意。そんな道枝さんの両親は、ともに公務員。ある日突然、息子から仕事を辞めると宣言され、かなり驚いていたとか。

    「何度も考え直すよう説得してきました。将来への不安や社畜になりたくないといったことも話しましたが、理解はしてもらえないまま退職。いまでもたまに連絡を取ったり実家へ帰ったりしますが、2人とも呆れています」

     会社を辞めた道枝さんは、田舎の古民家を格安で購入。ついてきた畑に野菜などを植え、ほぼ自給自足の生活を満喫中です。足りない生活費は、ワーキングホリデーや短期の住み込みバイトパソコンを使った簡単なデータ入力などで補っているのだとか。

    質素な生活を楽しめるように

    びっくりした退職トンデモ行動

    「国民保険料は高いですし、厚生年金ではなく国民年金にしか加入できないなど将来的な不安は拭えません。でも当時は、毎日疲れた顔をして働く社畜になるよりは、質素でも楽しめる日々を送りたいと決意して退社しましたし、いまでもそう思っています

     ただ、自分で決めたこととはいえ、会社を退職した理由についてはいまだに驚いていると言う道枝さん。もし自分でも驚くような行動をとってしまったときは、後悔しないようしっかりと舵を取りつつ、人生という大きな船の行く先を調整したいものですね。

    -特集・びっくりした退職トンデモ行動-

    TEXT/夏川夏実 イラスト/葉月しあ(@shia_lifestyle)>

    【夏川夏実】

    ワクワクを求めて全国徘徊中。幽霊と宇宙人の存在に怯えながらも、都市伝説には興味津々。さまざまな分野を取材したいと考え、常にネタを探し続けるフリーライター



    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【社会】上司の姿を見て、退職を決意!後悔はあるが毎日ハッピーな27歳男性「第二の人生」】の続きを読む


    長いです。

    代替テキスト
    10年前、「客にピアノを弾かせてくれる店を知らない?」と尋ねられ、紹介したのが縁で今夜も花を買ってくれた紳士と

    「お花はいかが? おみやげにいかがですか」

    赤や黄色のバラを中心にアレンジした花束をいくつも抱え、黒塗りの車やタクシーが渋滞する銀座のネオン街で人びとに声をかけるが、立ち止まるどころか目を合わせてくれる者さえいない。

    「昔は、花、花ってお客さんが集まってきて大変だったのよ。でもいまはぜんぜんダメね。3千円の花束を千円に値下げしても買わない。みんな余裕がなくなったのね」

    銀座の西五番街通りと花椿通りが交差する一角を拠点に界隈を歩きまわり、花束を売っているのは、最後の“銀座の花売り娘”木村義恵さん、81歳だ。あざやかな青いセーターにバラ色のストール、黒いポシェットを肩掛けした木村さんは口調も足取りもはつらつとして、その年齢をまったく感じさせない。

    終戦直後の混乱期、♪花を召しませ 召しませ花を~と岡晴夫が歌って大ヒットした『東京の花売娘』(※)にあるように、銀座や有楽町、新橋では多くの若い女性が通行人に花を売っていた。

    木村さんが銀座で花売りを始めたのも13歳のときだ。引退した時期もあったが、復帰して40年たったいまも、土日祝日以外は夜8時から11時、時には0時過ぎまで銀座の路上で花を売り歩いている。木村さんは銀座の、いやおそらく東京で最後の“花売り娘”だ。

    記者が初めて取材に訪れた10月下旬の夜は冷え込んだが、木村さんは平気な様子。

    「冬でも歩いていると汗かいてくるよ。だから首のストールタオル地。1日1万5千歩は歩くね」

    そんな話をしていたとき、若いサラリーマンが声をかけてきた。

    「あら、お兄ちゃん、久しぶり!」

    木村さんは笑顔で立ち話。なんでも数年前に彼から「2万円くらいで飲めるいいお店を紹介して」と頼まれたのが出会いだという。

    「教えてあげたら花を買ってくれて店のママに持っていったのよ。『楽しい』ってそのお店にずっと行ってる。そういう縁はうれしいわね。去年、群馬に転勤になってからはたまにしか銀座に来ないけど」

    コロナ禍緊急事態宣言のときは、木村さんも1カ月間は家にこもっていたという。いまようやく客足が戻り始めた銀座だが、戦後の混乱期、バブル景気、その崩壊から現在の不景気と、移り変わる銀座を路上から見つめながら、木村さんは花を売り続けてきた――。

    JASRAC申請中

    ■父親の放蕩で食べるのにも困るようになり、姉の代わりに13歳の木村さんが花売りに

    木村義恵さんは、太平洋戦争が勃発する直前の昭和16(1941)年11月16日、4人姉妹の三女として東京は港区の麻布で生まれた。父・小林常義さんは、木村さんの母であるまつさんと結婚した23歳のときに、勤めていた大きな家具店から商才を買われて暖簾分けされ、郵便局や官庁などを相手に店は繁盛。

    「でも父は、『どうせ戦争に行って死ぬんだから』って、稼いだお金をどんどん自分の遊びに使う、どうしようもない男だったのよね」

    やがて父は出征し、東京に敵機が来襲するようになった。麻布に住んでいた幼い木村さんにも空襲の記憶はあるのだろうか。

    「あるわよ。『空襲警報!』って鐘がたたかれると、お櫃とゴザを持った母と私たち4人姉妹は近くの芝公園の防空壕に駆け込むの」

    東京はいよいよ危なくなり、一家は父の長野県の大地主の実家に疎開。3日後、芝公園の防空壕に爆弾が落ちて避難者全員が死亡したという。その後、木村さんたちは群馬県の母親の実家に移動。獣医の祖父の元には、近隣農家からの米や芋、卵などが豊富にあった。

    「祖父が、そういうものを扱うお店を母にやらせたのよ。東京からたくさんの人が買いに来たわね。闇屋さんも来て、すごく儲かった」

    しかしそんな生活は、敗戦4年後に父が帰還したことで終わった。

    「先に東京に戻った父が、儲けたお金を女や遊びに使っちゃったのよ。それで父は、焼け野原の浅草の観音様(浅草寺)近くのバラックみたいな家でまた家具店を始めたの。私が6歳のころには弟2人も生まれていて、家族8人がそこで雑魚寝。朝鮮戦争特需(’50~’53年)のころは、私も鉄くずや銅線とか拾って売りにいったわね」

    花売りを始めたのは、昭和29(’54)年、13歳のときである。

    「父が女をつくって出ていったりして、食べるにも困っちゃって」

    木村さんは苦笑しながら、当時のことを回想する。

    「姉が同じ年の友達に、そのことを相談したら、『じゃ、ついて来な』って。17歳15歳の姉が銀座に花売りに行った。ところがお巡りさんから『あんたたちは大きいから米兵に強姦されちゃうよ。やめな。俺はそういうのを見てきたから』といわれて、いちばん小さかった私が行くことになったのね」

    荒涼とした焦土の東京で、銀座だけが沸いていた。GHQによる占領は2年前に終わったが、日本にはまだ多くの米兵が残っていた時代だ。

    「銀座にも米兵がいっぱいいた。数寄屋橋公園のそばには露店が100軒くらいズラーっと並んで、スカーフでもなんでも売っていた。若い女たちが米兵の腕にぶら下がっていてね。花売りも100人くらいいたわよ」

    そんななかに加わる13歳の娘のことを両親は心配しなかったのだろうか。

    「ぜんぜん。帰ってきた父が、寝てる私の足を踏んづけて『花売り、行け』なんてこともあったし、家具店への入金は全部自分の遊びに使って、もうメチャクチャ。母も食べていくのに必死よ。住み込みの職人さんたちの世話に忙しくて、夜、花売りからおなかぺこぺこで帰ってきた私のご飯もなかった」

    ほどなくタクシー運転手から「横浜のほうが花が売れるよ。住んでいる外国人たちは花が好きだから」と聞き、仲間3人で横浜の将校クラブの前で花を売り始める。

    「将校だから金持ちでしょ。一緒にいる女の人にお花欲しい? って聞いて、その人がうなずくと、OKって、いっぱい買ってくれた」

    そのときの光景が蘇ったのか、木村さんは柔らかくほほ笑んだ。

    「1ドルが360円の時代よ。40円くらいで仕入れた花束を1つ100円くらいで売ってた。いまのお金なら千円くらいかな。東京の路面電車の運賃が10円の時代だから。女のコ3人で花を売ってたら家が建つんじゃないかってほど儲かった。将校たちは、ほんと金持ちで優しかったわね。こっちが子供だし、戦争でいじめたからかな」

    中学2年生のとき、木村さんは浅草の家を出て、お金を入れることもやめた。花売り仲間の家に転がり込み、学校にも行かなくなる。それから女友達と同じアパートの3畳間を借りて移り、一人暮らしを始めた。14歳にして自立したのである。

    「だって、あんな父のいる家は嫌いだったからね」

    コロナで変わったけど、やっぱり銀座は粋で特別な街

    木村さんは19歳で花売りを辞め、結婚、離婚を経て、さまざまな職を経験。

    ある日、銀座の街を歩いていたときのことだ。

    「昔やっていた花売りがまだいるじゃないの。『これだ!』と思ったのね。人に使われて地下で食品を売るより、一人で花を売るほうがお金になる。銀座は道が広くてきれいだし、日本の最先端の人たちを眺められるし、なんといっても“昔取った杵柄”でしょ(笑)

    昭和58(’83)年、41歳で木村さんは花売りに復帰したのである。

    現在、木村さんは大田区の平和島公園近くの一軒家で、派遣社員の長女と2人で暮らしている。母親が70歳で病死後に、花を仕入れる大森市場近くの南馬込に引っ越したが、市場の移転に合わせて平成元(’89)年、築20年だったこの家を購入したのである。

    朝6時半に家を出て車で大田市場に行き、7時から始まる花のセリに参加。それから家の玄関脇にある作業場で、3千円の花束を8個、1千円の花束を10個、1時間から1時間半かけて作るのが日課だ。

    「3千円で売る花束の仕入れ値は2千円ほどだから、10束売れると儲けは1万円ほどね。私が食べていく分は出る。私は花が好きだし、売ることも好きだし、子供のころから居慣れてる銀座が好きなのよ」

    元気の秘訣を尋ねると、「青森のにんにく!」と即答。土日祝日は、スポーツクラブでのヨガやサウナのほか、平和島公園でサイクリングをしたり、図書館に行ったりという充実ぶりだ。

    「父も元ダンナも70歳で病気で亡くなった。あんな父でも病院には姉妹が順番で看病にいったのよ。でも亡くなっても悲しくなかった。長男だけは結婚してるけど、孫はいない。私も欲しいと思わないし、息子たちには市場で買った正月用のおいしいものを送るくらいでめったに会わないわ。娘にも早く出ていってほしい(笑)。姉が一緒に老人ホームに入ろうなんて誘うけど、まっぴらごめんよ。私は身ひとつで自由なのがいちばんいい」

    銀座での取材を終えて記者が帰宅したのは夜11時過ぎ。木村さんは寒空の下で一人、まだ花売りをしているのだろうかと案じていたときだった。木村さんから電話が入った。

    あれから岩城滉一さんが来て、花を全部買ってくれたのよ! コロナで銀座は変わったけど、やっぱりここは粋で特別な街ね」

    銀座で生き抜く木村さんの声は、誇らしげに弾んでいた。

    【後編】最後の“銀座の花売り娘”81歳。作家・伊集院静さんとの路上での“対決”に続く



    (出典 news.nicovideo.jp)

    【【社会】戦後の混乱期、13歳で花を売り始めて68年。最後の“銀座の花売り娘”81歳】の続きを読む

    このページのトップヘ