負けたら、北朝鮮では炭鉱おくり。

朝日新聞記者があえて「味方叩き」をする意味 憲法9条、皇室、原発…“自称リベラル派”の欺瞞を明かした『さよなら朝日』 から続く

 憲法9条、皇室、原発、沖縄……日本社会の大きな論点について、朝日新聞は「リベラル」の立場から主張を打ち出してきた。しかし、リベラル勢力の主張には、何の矛盾や欺瞞もないのだろうか。リベラル派の主張について、現役朝日記者が内部から検証した書籍が『さよなら朝日』(柏書房)だ。

 同書は、朝日新聞への広告掲載依頼時に、「社内外において掲載リスクが高い」という理由で、通常料金の3.3倍の出稿料を提示されたことも波紋を広げている。朝日新聞への提言を綴った同書の「第1章 正義の暴走」より、一部を転載して紹介する。

(全3回の2回め/#1#3を読む)

コロナ自警団」「自粛警察

 2020年は「コロナ自警団」「自粛警察」というおぞましい言葉が、ウラ流行語大賞になるのでは、というほど人口に膾炙した。

 歴史を繙けば、感染症は差別や嫌がらせと分かち難く結びついてきた。緊急事態という名の下に結束や秩序順守が前面に押し出され、本来は例外のはずの私権制限が原則化し、異論を封じ込める空気が醸成される――これはどの国や社会でも同じかもしれない。しかし、感染者を罪人のように叩き、感染を本人の落ち度や責任感の欠如の表れであるかのように扱い、医療従事者までもが心ない仕打ちを受けるという異様な事態がこの国でなぜここまで進行したのかは、無視できない社会の病理の顕現として診断に値するだろう。他県ナンバーの乗用車や、自粛要請を順守していない(とみなした)店舗や個人に嫌がらせを行う人々の姿は、80代以上の方なら既視感ある光景かもしれない。まさに「非国民」叩きに躍起になった戦中の隣組、自警団さながらである。

 もっとも、こうした空気を惹起したのは、いわゆるコロナ特措法にも原因がある。政府による緊急事態宣言によって都道府県知事が持てる権限は、営業や外出の制限については強制力のない要請や指示にとどまる。5月下旬にわずか1カ月余で宣言が解除された後にも、法的根拠のない独自の「アラート」「非常事態」「赤信号」宣言が都道府県によって乱発され、自粛の要請という(語義矛盾とも思える)中途半端な措置が常態化した。強制的な規制に踏み切らなかったのは、国民の抵抗感を考慮しただけでなく、営業損失への「補償」の責任を逃れ「協力金」や「支援」にとどめるためでもあったが、法規制であれば要件や権限や対象が厳格に限定されるところ、かえって法的統制のない行政の裁量範囲を拡大してしまった側面もある。そしてこの曖昧な措置は、感染対策の徹底を、ただでさえ充満している同調圧力に委ねることになり、インフォーマルで恣意的な社会的制裁が暴走する大きな点火源になった。

ジャーナリストが「世間をお騒がせした」ことへの非難

 罪刑法定主義は、刑罰を正統性ある公権力に一元化し、制裁の恣意性と私刑を排除するためにある。しかし今回、「強制」という言葉に反応して権力の専横を警戒し、法的強制力ある措置よりも「緩やかな」指示や要請にとどめることを歓迎したのは、むしろリベラルの側だった。この国の戦後思想が国家こそ人権の抑圧者だったという記憶から出発したことを考えれば、それも理由のないことではない。とはいえ、リベラリズムが尊重すべき「法の支配」への理解を欠くものだった面は否めない。リベラルは「世間」という不明朗な規範に服した、という言い方もできる。

「安田純平は誰に謝ったのか」という散文で扱ったのは、視認も触知もできないが誰もが存在を強く感じている、この「世間」という規範についてである。

 シリアでの3年4カ月に及ぶ拘束を経て2018年秋に帰国したジャーナリスト安田純平氏に対しては、主にネットで「危険を承知で行ったんだから自業自得」「迷惑な奴」「どのツラさげて帰ってくるの」などと、いわゆる「自己責任論」の合唱が起きたが、その内容は、外交や中東政策に影響を及ぼしかねないという点ではなく、まさしく「世間をお騒がせした」ことへの非難だった。仕事として危険地に赴き図らずも拘束されたジャーナリストへの負の世論の高まりは、外国メディアの特派員が「全く理解できない現象」などと発信した。(☆1)  

 このところ有名タレントスポーツ選手の不倫に対するバッシングも相次いでいるが、民法が当事者間の解決事項としている行いを世間という不定形な群れが暴き追い詰めるさまは、まさに「社会的リンチ」という言葉が浮かぶ。そして、こうしたネタをせっせと提供し、それをゴシップとして消費する世間を真に「騒がせて」いるのは、実はジャーナリズムである。

  私自身も幾度も関与してきたことを告白するが、たとえばワールドカップで活躍した選手や五輪のメダリストについて、日本のメディア同級生などあらゆる関係者を探し出して取材し、出身地が郷里の英雄を称える様子を「演出」する姿は、異様としか言えないものだ。よく似たことは、凶悪事件の報道でも起きる。容疑者が成人であっても、注意深く見れば明らかにその家族を追い込み「親の責任」を問うような内容に仕上がっている。こうした報道は、日本以外の国ではほとんど見たことがない。功成り名を遂げた人と、重罪人もしくは「世間をお騒がせした人」、この2つに世間が示す反応は、正反対に見えて、同じ現象のネガとポジである。古くは虎ノ門事件(☆2)の難波大助、連合赤軍(☆3)の坂東國男、そして連続幼女誘拐殺害事件(☆4)の宮崎勤の犯罪が、当時盛んに論じられたように、同時代の日本を映したものだったかどうかは分からない。だが、彼らの家族を襲った不幸(集団的過熱取材、村八分、一家離散、父親の蒸発や自死)は、いまも変わらぬ日本社会のありようを示している。

 血縁や地縁が希薄化したいま、「世間」を補強しているのは、メディアにほかならない。いや、日本のメディアこそいまや世間にほかならない、と言うべきか。

小説『食卓のない家』が示した「闘うべきは世間」

「世間学」といえば阿部謹也や佐藤直樹が有名だが、一つ、この問題に切り込んだ重要な文学作品として、円地文子の『食卓のない家』を紹介しておきたい。この小説は連合赤軍事件をモチーフにしているが、扱っている主題はまさに「世間」であり、本書の第6章で取り上げる「責任」である。

 酸鼻な同志へのリンチ殺人に加担した犯人の父親は、周囲から責められても謝罪せず、勤務先から退職の圧力をかけられても辞めない。成人した子の責任を親が取る必要はない、決して取ってはならないという考えを貫き、能面のような表情で世に対し続ける。当然ながらこの父に家族はついていけず、妻は精神錯乱し、娘の縁談は壊れ…….と家庭はガラガラと崩壊していく。それでもこの父親は態度を変えない。

 実際にはモデルとなった坂東國男の父親は自殺しているので、これは、決して日本では起こり得ない事態を描いた、円地による思考実験と言える。柄谷行人も『倫理21』『必読書150』で紹介しているこの作品の特異性は、連合赤軍事件を扱ったほかの数々の作品と違い、この父親のたった一人での闘争こそが、新左翼の息子の日本国家との闘争よりもずっと革命的で重要だということを語っている点にある。封建遺制と闘う、という言い回しは、ともすれば前近代的な家父長制を壊すことだと意識されてきたが、日本では、明治的な強い父性が消えても、家族や個人を強いている「ある力」は依然消えていない。闘う相手を間違ってはならない、自分たちを縛っているものが何なのかよく見据えろ、ということをこの小説は示している。(#3に続く)

注釈

☆1 一方で、日本で大災害後の混乱下でも略奪や暴動が起きず整然と秩序が保たれる様子を外国メディアはたびたび絶賛してきた。が、これも「世間」が機能した結果であることを、おそらく私たち日本人は知っている。
☆2 1923(大正12)年12月共産主義者の活動家・難波大助が摂政宮(皇太子裕仁親王)を襲撃し、暗殺しようとした事件。
☆3 1971(昭和46)年から72(昭和47)年にかけて活動した日本の極左テロ組織。連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件(山岳ベース事件)は当時の社会に強い衝撃を与え、あさま山荘事件とともに新左翼運動が退潮するきっかけとなった。
☆4 1988(昭和63)年から89(平成元)年にかけ、東京都北西部・埼玉県南西部で発生した一連の誘拐殺人事件。犯行声明が新聞社に送りつけられるなどの事件の特異性から報道が過熱し、メディアスクラムなどの報道のあり方も問われた。被疑者として逮捕・起訴された宮崎勤の自宅から5000本以上のビデオテープが押収されたことも話題になった。2008年、死刑執行。

日本のメディアが作った「ムラ社会」 朝日新聞記者が憂う“ジャーナリズムの後進性” へ続く

(石川 智也)

©️iStock.com


(出典 news.nicovideo.jp)

hinode

hinode

要は文春が朝日をダシにして「スポーツでナショナリズムを煽るな」とかいう記事?

age-s

age-s

さすが浅田真央を踏み台にしてキムヨナを英雄扱いしたアカヒは言うことが違いますねw

ゲスト

ゲスト

地縁、血縁で仲間意識もったり、外から一纏めに扱われるのは日本特有でおかしいという、日本を一括りにして違和感と称して嫌悪を表明しる矛盾とヘイトに満ちた支離滅裂な記事。まあ自分の妄想で作り上げたユートピアである海外と気に入らない部分を抜き出し誇張した日本を比べて日本を憎悪するパヨクの特徴がよく現れてはいる。

taira

taira

コマネチ「せやな」、モスクワオリンピック「それな」、北京オリンピック「ほんとそれ」

にゅうにゅう

にゅうにゅう

スポーツ選手を国の英雄として担ぐ演出は「異様」←同じことを海外の特に後進国に言ってみろよ

にゃんこ(`・ω・)ゝ

にゃんこ(`・ω・)ゝ

ジャーナリズムの世界では現地で命を落とさないと英雄になれませんもんね

ganota

ganota

安田への非難が世間をお騒がせしたからとかいう有名人の不倫と同じレベルだと思ってる時点でやっぱリベラルはアホの集まりでしかないんだなって

通りすがり

通りすがり

朝日新聞がリベラル?売春婦捏造した反日テロリストだろ何勘違いしてんだ

修一狼

修一狼

記事を読まずに書きますが「公式な代表」と「世間が勝手にそう思ってる代表」は土台からして違います。良い悪いは別にして「国同士が競い合う」場で活躍する人達が英雄的に認められても不思議では無いと思います。

tsj

tsj

メディアが世間を補強しているとかメディアこそ世間だとか勘違いしすぎだろ。その余計過ぎる自尊が元で胡散臭い世論誘導が嫌われ自ら価値を下げたんだよ。

hari

hari

さよなら朝日は草。

tare

tare

松山選手のメジャー初制覇がよほど気に入らないみたいだなw

はるちか

はるちか

この記事が異様。いや、知ってるけども酷いね