(出典 www3.nhk.or.jp)


何のためにあるのか?

 内閣が代わり、拉致問題を担当してきた菅義偉官房長官9月16日に第99代内閣総理大臣に就任した。

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 他方で拉致被害者家族は高齢化し、亡くなりつつある。

 特に被害者家族の象徴的存在で、先頭に立って全国で講演や署名活動をしてきた横田滋氏の死は、この期に至っても解決できない責任を政府に痛感させた。

 他方、安倍晋三前首相は退任3日後に靖国神社に参拝し、「前内閣総理大臣安倍晋三」と記帳した。

 持病の悪化が原因で首相を降板したとは言え、報道写真からはこれまで参拝できなかった悔悟の念を打ち消すかのような安堵感が読み取れる。

拉致被害者に冷淡な外務省

 拉致問題や靖国参拝問題はすべて外務省案件であるので、同省がどういう姿勢で取り組んできたか概観したい。

 拉致問題では、外務省が拉致被害者を自分や家族のこととして、さらには日本国の主権侵害としても考えていないのではないだろうか。

 外相の政治判断や責任意識も重大であるが、問題処理の積み上げ方式を尊重する日本のスタイルからは、省内における官僚の問題意識が重視されるわけで、それは外務省の体質という根本にかかわる問題である。

 アジア太平洋局長として拉致問題にもかかわった槙田邦彦氏は平成12(1999)年に「たった10人のことで日朝正常化交渉がうまくいかないのは国益に反する」と公言して憚らなかった。

 拉致問題ではないが2001年には民間人になっていた台湾の李登輝元総統が心臓の持病治療に訪日を希望した。

 森喜朗首相が「人権問題」としてビザ発給を認めようとしたのに対し、槙田氏は「彼(李登輝)は、台湾の独立という政治目的があって日本に来るのです」と反論している。

 この時、官房副長官であった安倍晋三氏から「万死に値する」と叱責され、「恨み骨髄に入る」心境であったようだ。

「『政治活動はしない』を条件にビザ発給へ押し切られた」と後日語っているところに悔しさがにじみ出ている。

 氏はチャイナスクール出身の親中派で、「日本は1972年に中国を選んで台湾を捨てた。・・・そう決めた以上、背いちゃいけない」というが、外務省の高級幹部にして「日本」も「人権」も考えない、唯々諾々として中国に操られる人間でしかない。

 国益の視点がまるで欠落していることは言うまでもないが、中国や台湾がどんな国で、日本の安全保障にどのようにかかわるかなど全く思考範囲に入っていないことが分かる。

 拉致問題の解決に活躍したとされる田中均氏も、拉致被害者5人が帰国し、その後「北朝鮮に帰りたくない」と打ち明け、政府もそのように処置しようとしたとき、彼は日本への一時帰国を認めてくれた北朝鮮を裏切るわけにはいかないとして「北朝鮮に戻すべきだ」と主張した。

 そもそも不法に拉致したのが北朝鮮だという認識がすっぽり抜け落ちている。

外国元首らの靖国参拝希望を排除

 どこの国にも祖国を守るために斃れた戦死者に敬意を表する場所がある。

 アーリントン墓地(米)、無名戦士の墓(英)、国立墓地(韓)、メモリアル(豪)など形は異なるが、陛下や日本の首相の外国訪問においても、そうした施設への献花・拝礼が儀礼である。

 日本では靖国神社が中心的な慰霊施設である。したがって、靖国神社が明治時代に建立されて以来、多くの国の元首や王族、政府高官、軍人などが公式参拝してきた。

 特異なところでは大西洋横断に成功したリンドバーグ夫妻や我が国の満州政策を調査したリットン調査団一行などもある。

 それらは大東亜戦争前であるが、占領中のGHQ(連合国軍最高司令部)は靖国神社を軍国主義・超国家主義の元凶とみなし、焼却・廃絶を意図したが、バチカン派遣神父の献言で思いとどまった。

 そして戦後である。神道指令や憲法の拘束から外国要人に参拝を奨めることは難しくなったが、自ら希望して参拝する外国人、特に軍人は後を絶たない。

 それは別にして、外国元首も少数であるが参拝している。

 数が少ない理由は外務省が「靖国神社は日本の公的な戦歿者慰霊施設ではない」という立場をとっているからだとされる。

 実際、ドワイト・D・アイゼンハワー米国大統領が来日にあたって戦没者に敬意を表したいと要望したのに対し、外務省が難色を示し実現しなかった。

 中国が首相の公式参拝を批判した昭和54年以降は、参拝を公式日程に入れる希望をした元首クラスの要人に対し、外務省が婉曲的に反対するためわずかしか実現していない。

 逆に、外務省が日程作成に関与しない元首クラス以外の自主参拝の要人は多い。

 外国を相手にしている立場からは慰霊の不自然をむしろ正すくらいの気概が求められるが、全く逆で日本の国益以上に中国、その他を尊大に扱う傾向が染みついているようだ。

あらゆる手段で国家・国民を守る

 外交交渉は表よりもテーブルの下で行われることが多いであろうが、ほとんどは明らかにされない。

 当然であるが、日本では野党が密約を明かせとか防衛秘密を明かすようなことまで平然と要求してくる。致し方なくほとんどが黒塗りになると、国民に知らせない横暴だなどと非難する。

 小泉純一郎首相(当時)が北朝鮮から5人の被害者を連れ戻した裏には何があったのだろうか。

 菅沼光弘著・但馬オサム構成の『ヤクザと妓生が作った大韓民国〈日韓戦後裏面史〉』の第4章中に「小泉家と北朝鮮のパイプ」という小見出しがある。

 菅沼氏は元公安調査庁第2部長まで務めた人で、韓国のKCIAにも出入りした人である。

 横須賀市にある小泉家の広大な屋敷の一角には稲川会2代目会長の石井隆匡ゆかり横須賀一家の事務所があり、選挙では稲川会があれこれやってくれるので小泉氏は選挙では一銭もかからないという。

 横須賀市長や逓信大臣も務めた祖父の時からのつながりである。

 小泉氏は首相の時、朝鮮総連大会に内閣総理大臣として祝電を打ち、金正日が死んだときは弔意を示し、徐萬述(ソ・マンスル)総連議長が亡くなったときは弔電を打っている。

 表では許されそうもないことを小泉氏はやっていたわけである。菅沼氏は拉致被害者の奪還にそうしたルートが活用されたことも暗示する。

 田中均氏が交渉に関わった2回分の外交文書欠落には、こうした関りがあるのかもしれない。

 当然のことながら、当時はこうしたことは公表されていなかった。外務省の表向きの交渉だけではことは進まないし、儒教の伝統を有する国においては外務省員以上に、兄弟的な友人を信じることが特に強い。

 野党と言えども国家・国民あってのものである。自分の功名や党利党略だけしか考えない政治屋は不要である。

日本の言い方では真意が相手に伝わらない

 日本には「以心伝心」という言葉が存在するように、お互いに口に出さないでも「何を」言おうとしているか、やろうとしているかが大体分かる。その典型は年月を重ねた夫婦かもしれない。

 いまでは「夫唱婦随」といえば男尊女卑の昔物語とクレームがつくかもしれないが、日本的な静かで良き家庭の風景でもあった。

 夫が起きてテーブルに座れば妻がすでに新聞を置いており、外出ともなれば帽子や杖を持て来てくれ、帰宅すればお茶を淹れてくれる。

 そうした姿が、渡辺京二氏の『逝きし世の面影』には普段の生活姿として満載されている。

 高度成長で妻が専業主婦から解放される戦後のある時期までは普通で、映画などでもよく見られた風景であった。

 国会で問題になったモリ・カケがその典型ではないだろうか。長い期間不毛な議論に明け暮れたのも、以心伝心の一つである「忖度」を野党が権力闘争に仕向けたからにほかならない。

 ともあれ日本人に刷り込まれた、口に出して言わないが「相手の思い」を推し量る心は今でも生きている。

 日本人同士でも上述のとおりであるから、外国相手で抗議するにしてもやんわりとした言葉を選びながら「怒らせない」「気分を悪くさせない」とする日本人の「思いやる心」が残っている。

 ところが、政治的駆け引きの場では「以心伝心」はあり様もなく、「言葉」がすべてである。

「言ったこと」がすべてで、「言わなかったこと」は「ないこと」である。そこから、日本と外国の齟齬も生じる。

 菅首相の習近平主席との初の電話会談でも、尖閣や香港問題に対する表現は「懸念の表明」に抑制されていた。

 強く抗議すれば、そのあとに続く拉致問題解決への協力依頼などがしにくくなるという意識からであろう。

 中国側は日本が強く出なかったことは、これまでの関係を「肯定的に受け入れた」「良いシグナル」と受け取り、日中関係の更なる緊密化を求めてくるに違いない。

 しかし、中国はコロナ感染問題への対応や香港版国家安全維持法の施行などを通じて、日本が価値観を共有する国々と対立している。

 地政学的に、また歴史的に日本ほど中国とかかわりを持つ国はなく、日本は何とかして中国の価値観の転換を促したいところであるが、中国はかたくなに拒絶し、一党独裁で権威主義的政治を変更する意思はないことがいよいよ明確である。

おわりに:「外務」でなく「国務」として出直すべし

 米国に駐在して米国人を奥方にした人物が親米的になり、ドイツ軍に隊付きした軍人が親独になることはよくある。

 しかし、こと外務省に勤務する外交官は外国と関わることを任務とするが、どこまでも日本の国益、日本人の幸せ・福祉がまずなければならない。

 省庁改変でも外務省の呼称は変わらなかった。しかし、この表記には違和感がある。

 外務省は「Ministry of Foreign Affairs」と翻訳されるが、名は体を表すという。これでは「外国事象の官庁」とみられ、「外国」が主体となり、日本は客体のように受け止められやすい。

 事実先述のように、外務省高官は相手の言い分を中心に考え、「顔」は日本よりも相手国に向いているようである。

 他方、米国では国務省は「Department of State」で、「国家(自国)」のことを扱う。

 どこまでも自国の国益追求が目的であり、外交的交渉は手段に過ぎない。

 外国は客体に過ぎず、主体はどこまでも「(アメリカ)国家」であることを明示している。

 日本の外務省も日本の国益と日本人の幸福増進である視点からは「外務」でなく「国務」がフィットするのではないだろうか。

 森友・加計学園問題以降の約2年間余、野党は政権打倒ばかりを騒ぎ立て、いまの憲法で国際社会の枠組みを揺り動かすかもしれない国際情勢に対応できるのか否かなど何一つ議論されなかった。

 国家も国民もすっかり忘れていたのではないだろうか。もはや国際情勢に目を背けた姿勢は許されない。

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2002年10月15日、一部の拉致被害者の方が帰国を果たした。左は奥土祐木子さん、右が蓮池薫さん(写真:ロイター/アフロ)


(出典 news.nicovideo.jp)

マツ

マツ

外務省は我が国の国益と名誉を守ることが使命であるにもかかわらず特定アジアの顔色を窺い使命を果たしていない、なぜそうなのかと言えば外務省にはチャイナスクール等の親特定アジア勢力が力を持っているからだ。 それを是正するためには外務省を解体し親特定アジア勢力を排除し、国務省に改編するべきだ。

UE

UE

戦後日本の外交って名を捨てて実を取るのをしたたかに続けていたんだけどね。いつの間にか名を捨てての部分だけ引き継がれて、名を捨てて実も差し上げる害無能省になり下がったってだけで。

通りすがり

通りすがり

「口だけで何もしない連中が拉致問題を政権批判の道具にするな」って横田さんの弟さんは公式に宣言してるぞ、お前のことを言ってんだよマスゴミ