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できれば、キム一族以外の人がトップに立ってほしい。

(黒井 文太郎:軍事ジャーナリスト

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 金正恩委員長の健康状態について虚実情報が飛び交っているが、仮に死亡もしくは植物状態になった場合、後継者は誰になるのか?

 金日成(キム・イルソン)、金正日キム・ジョンイル)、金正恩キム・ジョンウン)と、つまり息子・孫へと世襲が続いたことからすれば、やはり血族の可能性がいちばん高い。北朝鮮の体制は事実上、王朝だからだ。

トップになる可能性が高い金与正

 独裁者は、いずれは訪れる自身の死に備え、自身の家族が次の独裁者に虐げられない道筋を残さねばならない。それには自分の家族に権力を世襲させるのがいちばん安心だ。独裁者は通常、権力があるうちにその布石を打ち、盤石にするために世襲を守護する腹心の部下を高位ポストに配置する。

 まだ子供が幼い金正恩とすれば、最も信頼する家族は、妹の金与正(キム・ヨジョン)だろう。しかし、彼女はまだ若く、政治経験も浅い。しかも家父長制的な意識が根強い北朝鮮では、過去に例のない女性のトップということになる。そこは世襲のためには障害だ。

 しかし、彼女以外には、金正恩が信頼する一族の人間がいない。次兄の正哲は、一切消息が不明だが、それはつまり金正恩がそうさせているからだ。兄弟の今の関係性は不明だが、いずれにせよ公的立場が皆無の人間がいきなり後継は難しいだろう。

 一族では他に、金正日の異母弟すなわち金正恩の叔父にあたる金平一がいるが、それも金正恩からすれば警戒対象だ。金平一は金正日から遠ざけられて1979年以降、東欧の大使を歴任していたが、2019年に40年ぶりに帰国した。しかし、この人物に不用意に近づくことは北朝鮮では粛清の対象になりかねないので、彼を担ぐ勢力が台頭するということも考えにくい。

 かといって、事実上の王朝なので、金正恩やその側近グループが、一族以外の人間をトップに立てることは考えにくい。現在、一族以外で最も高位にあるのは崔竜海(国務委員会第1副委員長)だが、実力者とは言い難い。

 したがって、やはり金与正をトップとし、腹心の高官たちが支えるという構図が最も可能性が高い。

 ただし、信頼できる、しかも力量のある腹心の高官がいない。金正恩自身が政権ナンバー2格の人物の台頭を警戒し、叔父の張成沢など自身の後継人的側近を次々と粛清してきたからだ。なので、仮に金与正が後継しても、権力の維持が後々まで確実かは不明だ。

金正日は時間をかけて権力継承を盤石に

 独裁者後継にはそれなりの準備が必要だ。具体的には、どういった人物をどういったポストにつけ、どういった人物を排除するのか。過去の2回の世襲を振り返ってみたい。

 金日成1994年に死去。金正日への世襲は時間をかけて準備された。

 金正日は早い段階から権力ポストを与えられていた。若い頃から党中央委員会書記および党組織指導部長として党の中枢で経験を積んだ。とくに党組織指導部は党内を監督する筆頭部局だった。

 また、1980年には党政治局常務委員にも就任した。常務委員は他に父・金日成含め4人がいたが、まもなく2人が去り、1984年以降は金親子以外には呉振宇だけになった。呉振宇は古参の軍指導者である。

 また、金正日は党組織指導部長として、国家権力を支える裏部隊ともいえる秘密警察「国家安全保衛部」も監督した。保衛部は1987年以降、部長職が空席とされ、ますます金正日の支配が強化された。

 その後、金正日1990年に国防委員会第1副委員長1991年には朝鮮人民軍最高司令官、1993年には軍を統括する国防委員会委員長に就任した。

 こうして後継者としての地位を時間をかけて固めたため、世襲はスムーズに行われた。金日成は神格化されており、恐怖支配の中で一族は王朝と化していたから、長男への世襲は当然の流れだった。

 もっとも、金正日1994年に後継者になった時、北朝鮮の指導層にはまだ古参の軍幹部が何人もいた。前出の呉振宇(国防委員会第1副委員長/人民武力部長/元帥/党政治局常務委員)、崔光(国防委員会副委員長/軍総参謀長/次帥《後に人民武力部長/元帥》)などだ。金正日はこうした重鎮を、とくに軍における自らの後見人とし、金日成死去後も国内を掌握した。

 その後、金正日は、1990年代後半には洪水などで経済的な苦境にもあったが、党では義弟の張成沢(チャン・ソンテク/党組織指導部第1副部長)ら、軍では古参幹部の趙明禄(国防委員会第1副委員長/次帥)らの側近を重用して権力基盤を固めた。とくに張成沢は秘密警察「社会安全部」の党内監視機関「深化組」を指揮し、90年代後半に数万人規模もの処刑・収容所送りという空前の大粛清を強行したとみられる。

金正日が正恩の後見人を指名

 1994年金日成国家主席が死去した時、大方の内外の北朝鮮ウォッチャーは、その時代錯誤といえる極端な神格化独裁体制は遠からず自壊するものと予測し、米国CIAまでもが同じ見方だった。しかし、長い年月をかけて恐怖支配を徹底し、世襲の準備が進められてきたため、世襲が揺らぐことはなかった。

 他方、金正日から金正恩への世襲は、これはひとえに金正日の周到な根回しによって成功したと言っていいだろう。もちろん王朝の世継ぎの問題だから、3代目に金正日の息子が就任することは、北朝鮮では当然の流れだった。

 そこで世襲問題でまず問題になったのは、3人いる息子の誰が家督を継ぐかということだった。いくつか紆余曲折があったが、最終的に金正日自身が三男の正恩に決めた。

 しかし、問題は金正恩の若さだった。金正日が父の跡を継いで独裁者になったのは53歳の時。それに比べて金正恩はあまりに若かった。

 父・金正日は晩年、まだ20代だった正恩に跡を継がせるための布石を、着々と打った。党組織指導部長はそのまま空席にし、親族の張成沢の権力を強めた。張成沢は2003年にいったん失脚していたが、2005年に復活。2007年に党行政部長の要職に就任していた。2008年金正日は脳卒中で倒れるが、その緊急時に張成沢は事実上の代行を担った。

 対して、もう1人の組織指導部第1副部長として2003年の張成沢失脚を主導した実力者の李済剛は、2010年に事故死したが、その直後にライバルの張成沢は国防委員会副委員長に就任している。

 金正日はまた、裏の権力者が誕生しないように、秘密警察「国家安全保衛部」の部長職も空席のままにした。実務は第1副部長の禹東測が担当したが、金正日自身が統括した。保衛部内のもう1人の実力者だった柳京・副部長は2011年に処刑された。

 同時に金正日は軍の世代交代を進めた。

 古参の軍指導者だった金鎰喆(人民武力部長/国防委員会副委員長/次帥)は降格の後、2010年に引退。国防委員会第1副委員長として金正日を支えてきた趙明禄は2010年に病死した。

 こうした古参の軍幹部に代わり、金正日が引き上げたのが、李英浩だった。彼は1942年生まれと古参幹部の多い軍では若手の軍指揮官だったが、2009年にいきなり軍総参謀長に就任。2010年には党政治局常務委員、党中央軍事委員会副委員長(次帥)兼務に引き上げられた。

 つまり金正日は、年若い正恩の後見人として、党では親族の張成沢を、軍では李英浩を充てた。2011年末の金正日死去後の葬儀では、正恩以外に霊柩車に付き従う7人の幹部がいたが、それはつまり、この7人が金正日に正恩の後見人に指名されたことを意味していた。張成沢と李英浩の他に、金英春・人民武力部長、金正覚・軍総政治局第1副局長(軍内の監視機関。局長は空席)、禹東則・国家安全保衛部第1副部長などだった。

 なお、金正恩自身は公式には前年の2010年にようやく党中央軍事委員会副委員長(大将)に就任し、表舞台に立ったばかりだった。公式の役職としては役不足だが、北朝鮮は実質的には王朝であり、独裁者の世襲には公式の役職は決定的ではない。

粛清に次ぐ粛清、金正恩の非情な権力掌握術

 そこまで準備されていても、金正恩はまだ安心ではなかったのだろう。その後の独裁強化への道はなかなか凄まじいものだった。

 まず、禹東測・国家安全保衛部第1副部長と金正覚・軍総政治局第1副局長はそれぞれ新体制のために党と軍の大規模な粛清を担ったが、両者ともに2012年に早くも失脚した。同年、金英春・人民武力部長も退任し、名誉職となった。張成沢に次ぐ実力者となっていた李英浩も同年、逮捕された。

 つまり、金正日の葬儀で霊柩車に従った軍・秘密警察幹部が全員、1年たたずに失脚させられたのだ。これらの粛清を仕切ったのは、王家の親族として格上の地位にいた張成沢・国防委員会副委員長である。

 こうして金正恩政権の黒幕として絶大な権力を握った張成沢も、2013年に処刑された。決断したのは当然、金正恩自身である。その後、権力行使側で浮上したのは、この張成沢処刑にも関わったとされる黄炳瑞・党組織指導部副部長と金元弘・国家安全保衛部長だった。

 黄炳瑞はその後、2014年に軍総政治局長(次帥)に転身。国防委員会副委員長も兼務した。2015年には党政治局常務委員も兼務。事実上のナンバー2となった。2016年には最高機関として新設された国務委員会の副委員長にも就任した。しかし、金正恩ナンバー2の存在を警戒する。彼は2017年に失脚した。

 金元弘も、秘密警察のトップとして金正恩体制強化のために多くの粛清を実行してきた人物で、絶大な裏の権力を誇った人物だったが、北朝鮮の裏部隊指揮官の常で、やはり2017年には失脚した。

 このように、金正恩の権力掌握術はきわめて非情だ。その手法は、強力な実力者に体制内粛清をやらせて、その後にその実力者本人を粛清するというものだ。この手法が金正恩独自の考えだったのか、あるいは亡父の遺言だったのか、あるいはがむしゃらサバイバルのための成り行きだったのかはわからないが、若輩な独裁者が権力を強化するためには、きわめて合理的ではあった。

「ナンバー2」がいない現状

 こうして金正恩は「力をつけた実力者」をどんどん粛清してきた。そこで現在、長期間高位で生き残ってきた唯一の人物と言っていいのが崔竜海だ。彼は元人民武力部長の崔賢を父に持つ生まれで、もともと軍ではなく党で生きてきた人物である。

 ところが、崔竜海は実際にはそれほど実力者とはみられていない。というのも、金正恩政権発足まもなくから軍総政治局長(次帥)、党政治局常務委員、党中央軍事委員会副委員長、国防委員会副委員長、党組織指導部長、最高人民会議常任委員会委員長、国務委員会第1副委員長などを歴任。公式の身分としては政権のナンバー2だが、実際には金正恩の命令で頻繁に降格や昇格を繰り返している。

 結局、金正恩の警戒心により、現在は強力なナンバー2クラスの政権幹部はいない。それは、仮に正恩が死亡して妹の金与正が世襲することになったとして、いきなりその地位を奪おうと牙を剥きそうな人物が見当たらない反面、与正の後見人として党・軍を押さえつけることができる人物もいないことを意味する。

 現在すでに事実上、妹の金与正がナンバー2格ではあるが、彼女の公式ポジションは高くない。2014年に27歳で党副部長の肩書で登場。2018年にも党第1副部長とだけ公開されている。これらの担当部署については、党宣伝扇動部ではないかとみられていたが、未確認である。

 また、2019年12月に、新たな党第1副部長に就任したことが公開されているが、これは党組織指導部の可能性がある。仮にそうだとすれば、党内の権力ポストに公式についたことになる。

 ちなみに、その上司にあたる李万建・党組織指導部長は2020年2月28日に解任され、その後のそのポストは空席となっている。つまり、未確認ながら金与正が事実上の党組織指導部のトップとなった可能性があるのだ。

 さらに、金与正は2017年に政治局員候補に就任。2019年にいったん解任されていたが、2020年4月11日に復活している。つまり、現時点では金与正の現在の公式身分は党政治局員候補兼党第1副部長(推測では党組織指導部)にすぎない。

正恩の世襲時よりも不利な与正の状況

 もっとも、兄・正恩の世襲時と同様、最低限の党内ポストの肩書きがあれば、金与正の世襲自体にはそう問題はない。

 しかし、兄・正恩が権力掌握の経緯で幹部を大量に粛清してしまった現在の金与正の状況は、兄・正恩が世襲した時の状況と比べると、明らかに不利ではある。正恩の時は、叔父・張成沢を中心に実力者の後継人体制があったが、与正にはないのだ。金正日も粛清はしてきたが、息子の後継人を手当てすることは忘れなかった。それが今はない。

 もちろん王朝であるから、金正恩が「後継は与正」と言えば、それは絶対命令であり、崔竜海を筆頭に党・軍の幹部たちも互いを牽制しながら、それに従う可能性が最も高いだろう。しかし、とても盤石のシステムとは言い切れないから、仮に金正恩が死亡した場合の北朝鮮の今後については予断を許さない。

 完璧な恐怖支配体制での王朝の世襲として、金正日金正恩が権力を継承できたとはいえ、やはり世襲はそれなりに難事業だ。「どうせ息子では無理だろう」との思い込みで金日成死亡時に多くの分析者が予測を誤ったことは前述したが、今度は逆に「どうせ妹が継ぐだけだろう」との思い込みも危険だと言えよう。

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(出典 news.nicovideo.jp)




micro seven

micro seven

ここで革命が起きなければ、このまま中共に取り込まれるだけですよ。

※当社比

※当社比

長者三代とはよく言ったものだな

ぽちょむきん

ぽちょむきん

国を変えるチャンスなんだけどね

まっどさいえんてぃすと

まっどさいえんてぃすと

正男が生きてりゃ政権執ったのかな

sorahiko

sorahiko

与正は性格的に相当ヤバいと聞いた  誰が擁立されてもかの国はあまり良くはならんのだろうけど、冷酷な上にバランス感覚の無い与正が権力を握ると側近の抑えが効かず暴発する恐れがあるのだとか