要因がある。

なぜ明智光秀は主君である織田信長を裏切り、本能寺の変を起こしたのか。作家の加来耕三さんは「最大の要因は信長への不信と自身の過労だ。疲れ切った光秀は、もうこれ以上信長にはついていけないと感じ、無謀な賭けに出たのだろう」という――。(第2回)

※本稿は、加来耕三『教養としての歴史学入門』(ビジネス社)の一部を再編集したものです。

■誰もが無謀と分かっていたのに信長を襲撃した明智光秀

歴史を紐解といてみると、独裁者を倒した叛逆者が、そのまま世論に容認され、居座るケースは、まずない。

“天下布武”の理想をかかげ、情け容赦なく天下統一に邁進し、王手と迫った主君・織田信長を、本能寺に襲撃した明智光秀――彼の場合など、謀叛を決行する旨、直前に明智家の重臣たちに打ち明けた段階で、すでに猛反対にあっている。

無理もない。少し冷静に考えれば、この企てがいかに無謀であるか、誰にでも判断はついた。

なるほど信長を本能寺に襲うこと、その首をとることは容易かもしれない。うまくすれば、後継者の信忠も同時に殺害できる。光秀ほどの戦術家なら、双方の兵力を比較し、よもや討ちもらすことはあるまい。

京都を占領しさえすれば、非力な朝廷は光秀に靡(なび)く。京都を追われた将軍・足利義昭と連絡をとれば、その指揮下に入ることもできよう。室町幕府再興をスローガンに掲げれば、京洛の人心もいちおうは納得するに違いない。

■どうやっても最終勝利者にはなれない

だが、織田家の各方面軍司令官たちが光秀に降参、従臣するであろうか。羽柴秀吉は備中(現・岡山県西部)にて毛利軍と交戦中とはいえ、北陸の柴田勝家、関東の滝川一益は直ちに、「主(あるじ)殺し討伐」の檄(げき)を飛ばし、各々の軍勢を動かしたであろう。

勝家や一益らは、織田家にあって光秀の先輩にあたる。道義的にも、集まる軍勢の数は向こうの方が多かったはずだ。光秀につくのは、せいぜい将軍義昭と参陣不可能な毛利氏、上杉氏。ほかは細川藤孝筒井順慶など、長年の 友誼(ゆうぎ)と婚姻関係にある者が参加してくれる程度でしかあるまい。

大坂で兵を集結中の信長の三男・織田信孝も、信長の正統な後継者を名乗って反撃してこようし、織田家長年の同盟者である徳川家康も、滞在中の堺を無事脱出することができれば、やがて弔(とむら)い合戦の名目で大軍を発してこよう。

これは結果論ではない。あくまで本能寺の変の時点における、全国の展望である。天下の四方から光秀討伐の軍勢が起こり、それを一手で防がねばならない光秀は、いかに秀れた戦術家であろうと、一戦、二戦の勝利は請け負えても、最終的勝者とはなりえない。光秀もそうした未来図は承知していた、との説がある。

■老後の思い出に一夜でも天下を

婿の弥平次秀満(左馬助光春)や斎藤内蔵助利三(春日局の父)らを呼び、信長に対する遺恨の次第を訴えるとともに、「老後の思ひ出に一夜なりとも天下の思ひ出をなすべし」(『川角太閤記』)と同意を求めた。

いったん口にしたうえは、決行するしかない、と重臣たちを説き伏せたとも。彼ら重臣たちは、光秀の言葉にしたがい、本能寺へ殺到した。

通史では、6月2日午前6時頃、信長は寺の表の騒がしさに目を覚ましたとある。最初、喧嘩でもはじまったのかと思ったらしいが、やがて鬨(とき)の声が上がり、鉄砲の音が聞こえてきた。「是(これ)は謀叛か、如何なる者の企(たくら)みぞ」信長の疑問に、次室で宿との直いをしていた森蘭丸森可成の次男)が物見に出、馳せ戻り、「明智が者と見え申候」と言上した。

聞くなり信長はただ一言、「是非におよばず」とのみ述べた。そして信長は、表御堂に駆け出し、自ら防戦に参加する。はじめは弓を射たが、無念にも弓弦(ゆづる)が切れた。そこで今度は鎗(やり)をとって戦ったが、肘に鎗疵(そうひ)をうけて、ついに動けなくなる。

御殿内に退いた信長は、「女はくるしからず、急ぎ罷(まか)り出よ」婦女子を脱出させるゆとりをみせ、火を発して燃えさかる殿中深くヘわけ入り、内側から納戸の戸口を閉ざし、さらに障子をつめ、室内に座り込んだ。

■4時間ほどで信長親子を倒した

本能寺の異変を妙覚寺(現・京都市上京区)で知った信忠は、父の救出に向かったものの、途中、落去したことを村井貞勝から聞き、手勢をつれてすぐ近くの押小路室町の二条御所(二条新御所)に移った。

二条御所には誠仁(さねひと)親王(正親町天皇の第一皇子)があったが、信忠は包囲軍の光秀に了承をもとめ、親王を落してのち、奮戦し、午前10時ごろ、ついに力尽きて自刃して果てた。

そのあと、御所を火炎がおおった。本能寺の変では多くの織田家家臣が、本能寺、二条御所に分かれて華々しい討死を遂げている。

――独裁者は死に、叛逆者は天下を取った。この『信長公記』(太田牛一著)を中心として伝えられてきた通史には疑問点が多い。が、ここではテーマが異なるため置く。

■三日天下になってしまった最大の要因

さて、叛逆者の心理である。光秀は天下を取った。しかし、信長の首級(しるし)を手にすることができなかった。このことは、彼の“三日天下”(実際は11日間)を決定的にしたといってよい。

「信長公は生きている」との流言(るげん)が飛び交い、光秀はこれに悩まされることとなる。そして、備中高松城(現・岡山県岡山市北区)を攻めて苦戦していると思い込んでいた秀吉が、信じられない素早さで山陽道を駆けのぼり、“中国大返し”をやってのけたのにも応対できず、完全に秀吉への反撃に出遅れてしまった。

(まさか、信長が生きている……、そんな馬鹿な……)光秀は完璧に信長を葬った。が、叛臣という立場に立たされたことにより、その精神はいやがうえにも有形・無形の圧迫を受けた。心労に心労が重なる。

山崎の合戦では、秀吉軍3万2千余、自軍1万数千で戦い、敗れ、天正10年(1582)6月13日、光秀は潰走(かいそう)の途中、薮の中に潜んでいた土民に竹鎗でつかれ、あえない最期を遂げた。享年は一説に55という(異説多し)。

■なぜ明智光秀は謀叛したのか

明智光秀の謀叛については、従来、諸説がある。が、筆者は最大の要因は信長への不信と、光秀の過労が原因の根本にあったのではないか、と考えてきた。

一つの画期(エポック)は、武田氏滅亡後の宴の最中、光秀が、「これでわれらも、骨を折ってきたかいがありました」と言ったところ、信長が突然、怒り出し、光秀に打擲(ちょうちゃく)を加えるという出来事があった。

あのとき光秀は己れが考えてきた新しい国家像と、信長の描くものが、大きく隔たっていることに、気がついたのではあるまいか。

天下統一、泰平の世の招来――それを目指して己れも参画してきた、と自負してきた光秀が、実は主君信長の道具の一つとしてしか評価されていない――そのことを知った。加えて、情け容赦のない信長は、朝廷をもついには滅ぼすのではないか。

この朝廷云々は、おそらく自己保身を正当化するために、光秀がもち込んだ言い訳であったろう。疲れ切った頭の中で、光秀は己れの行く末を考えたはずだ。

おりわるく、佐久間信盛らの追放もおこなわれている。九州征伐まではよいとして、その先、己れはどうなるのか。光秀には秀吉のように、謙(へりくだ)って生き抜く気力が、すでに失せていた。

■自分の未来が見えてしまった

そこへ今度は、一説によると、これまでの領土である坂本城や丹波を召しあげられ、まだ織田領となっていない出雲(現・島根県東部)、石見(現・同県西部)を与える、との信長の命令が届いたという。

室町幕府のような守護を否定し、近代国家に近い官僚制の、全国統治を信長が考えていたとすれば、光秀の“未来”はもはや見えたようなものであった。酷使されたあげく、あとは難癖をつけられてポイッと捨てられる。苦悩する光秀の頭には、朝廷も足利義昭も同様の悲愴感をもっていたものに映ったに違いない。これらを連携すれば、あるいは……。

いずれにせよ、光秀は天下を取った。だが、彼の“三日天下”のみならず、世界史にみられる軍部に拠るクーデター政権などを思い浮かべると、正面切って反対勢力――光秀の場合、秀吉軍――が興(おこ)ると、叛逆者はいたって、あっさりとその座を明け渡すもののようである。

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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家、作家
1958年大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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明智光秀画像(画像=本徳寺所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)


(出典 news.nicovideo.jp)