日本においては、物価高にも関わらず賃金がほとんど上がりません。この状況が作り出された原因とは一体何なのでしょうか。本連載では、元IMF(国際通貨基金)エコノミストで東京都立大学経済経営学部教授の宮本弘曉氏が、著書『51のデータが明かす日本経済の構造 物価高・低賃金の根本原因』から日本経済の問題点について解説します。
歴史の転換点―新型コロナウイルスとウクライナ侵攻
世界的にみてインフレ率は1980年代からゆっくりと低下してきました。金融引き締めや経済のグローバル化、原油などの一次産品の価格低下がその大きな要因とされています。
これは「ディスインフレーション」といえる状況でした(なお、「デフレ(デフレーション)」については、第二次世界大戦後では、1990年半ばに日本で発生するまで、先進国で観察されたことはありませんでした)。
そのディスインフレーションの流れがここ最近で大きく変わりました。2021年春頃から、欧米諸国ではインフレが加速し始めます([図表1])。きっかけは2020年に始まった新型コロナウイルス感染症の流行です。
新型コロナウイルスによるパンデミック(感染爆発)は経済の需要と供給の両サイドに大きな影響を及ぼしました。
具体的には、サプライチェーンの制約と労働市場の混乱、ペントアップ需要(繰越需要=購買行動を一時的に控えていた消費者の需要が、一気に回復すること)、そして、大規模な金融緩和と財政出動です。
これらに、2022年2月に勃発したロシアによるウクライナ侵攻と長期的な脱炭素化の動きが加わり、世界でインフレが高進しています。ここでは、それぞれの要因についてみていきましょう。
まず新型コロナウイルスによるパンデミックは、経済の供給サイドに大きなダメージを与えています。
パンデミック初期には、感染流行を防止するために都市封鎖(ロックダウン)や移動制限などの措置がとられましたが、これらは様々なサプライチェーンに深刻な混乱を与え、短期的な供給不足が生じました。
現在これらの混乱の多くは解消しているものの、2022年には習近平指導部による「ゼロコロナ」政策により中国でサプライチェーンが寸断されるなど、一部の地域では、コロナ感染拡大が新たな圧力を供給サイドに加えています。
また、新型コロナ危機は労働供給にも大きな影響を与えました。コロナ禍の開始から2年以上経過した今でも、パンデミックによる労働市場の混乱が続いています。労働参加率は、複数の国で現在もパンデミック前の水準を回復していません。
先進国のなかで特に大きな影響を受けたのがアメリカです。コロナ禍から経済が回復するなかでも、労働参加率はパンデミック前の水準を1.5%ほど下回っています。
アメリカで労働市場に人が戻ってこない理由としては、特に、労働市場でのミスマッチや、母親と高齢者の退職が指摘されています。
今後、労働市場に人が戻ってくるかどうかについては専門家の間でも意見が分かれています。米ハーバード大学のローレンス・サマーズ教授は、雇用不足は続き、当分の間はアメリカのインフレ圧力に寄与すると主張しています。
新型コロナ危機が経済の需要サイドに与えた影響
次に、新型コロナ危機が経済の需要サイドに与えた影響を考えましょう。コロナ禍では都市封鎖や移動制限などにより、外食の機会が大幅に減少したり、国内外への旅行ができなかったりと、人々の消費が抑制されていました。
行動制限が解除され、経済活動が徐々に再開されるなかで、こうしたペントアップ需要が一気に爆発し、人手不足や物流の停滞などにより低下していた供給を上回り、物価上昇につながっています。
新型コロナウイルス対応としての大規模な財政出動や金融緩和も、インフレを後押しする原因となっています。
世界各国は新型コロナウイルス対応として未曾有の財政出動を行ってきました。IMFの調べによると、各国が2020年初めから2021年9月27日までに実施した財政支援の総額は16.9兆ドルにのぼります。
そのうち、1割強の1.9兆ドルがアメリカによるものです。
この結果、世界で政府の債務が急増しています。[図表2]は政府債務残高の推移を示したものです。
これをみると、先進国の政府部門の債務残高(グロスベース)のGDPに対する比率は、2019年の103.8%から、2020年には122.7%に急上昇、第二次世界大戦直後、1946年の124%と同レベルとなりました。
また、世界の中央銀行は新型コロナウイルス禍への対応で、2020年に大規模な金融緩和に踏み切りました。大量の債権を購入することで市場に資金を供給し、長期金利を抑え込んで経済の底割れを防ぎました。
[図表3]は主要中央銀行のマネー供給量を示したものです。
日本銀行、米連邦準備制度理事会(FRB)、欧州中央銀行(ECB)、英イングランド銀行の主要4中央銀行の総資産は15兆ドルだった2020年2月から、2022年4月の25兆ドルまで、10兆ドル増加しました。
なお、2021年にインフレが加速し始めると、世界の主要中央銀行は金融引き締めに転じます。
こうしたコロナ禍による要因に加えて、ロシアによるウクライナ侵攻とグリーン化がインフレに拍車をかけています。
2022年2月24日にロシアがウクライナに軍事侵攻しました。ロシアによるウクライナ侵攻は直接的かつ悲劇的な人道上の影響をもたらすだけでなく、経済成長を阻害し、物価を押し上げると考えられています。
ロシアとウクライナのGDP合計が世界全体に占める割合は2%と大きくはありませんが、両国は一次産品の主要な輸出国となっています。小麦については世界の輸出量の30%、とうもろこしや無機質肥料、天然ガスの20%、石油の11%を両国で占めます。
さらに両国は金属輸出についても重要な役割を担っています。
ロシアによるウクライナ侵攻の長期化で、一次産品価格が高騰し、すでに増大していたインフレ圧力をいっそう高めています。
新たなインフレの登場―グリーンフレーション
世界でインフレが高進する理由として、「グリーンフレーション」も指摘されています。
グリーンフレーションとは、脱炭素化など地球環境に配慮して経済活動を行うことを表す「グリーン」と、物価の持続的な上昇を意味する「インフレーション」を掛け合わせた造語です。
今、世界では、地球温暖化を引き起こしているとされる温室効果ガスの排出量をネットゼロにする「脱炭素化」の流れが加速しています。
ネットゼロとは、「温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」ことで、温室効果ガスの排出量から吸収量を差し引いた合計がゼロとなる「実質ゼロ」を指す言葉です。日本は2050年までに温室効果ガスの排出をネットゼロにする方針を掲げています。
なぜ、経済のグリーン化が物価上昇を招くのでしょうか?
国際的な脱炭素化の潮流のなか、石油や石炭などの化石燃料に対して新規の投資を行うことは座礁資産になる可能性があります。それゆえ、化石燃料に対する投資が抑制され、その供給が鈍化し、価格が上昇します。
また、脱炭素化が進むなかでは、価格が上昇したからといって、産油国はこれまでのようには増産に応じづらいと考えられます。さらに、長期的にその需要が低下するのであれば、産油国は、安易に増産を行わず、高値を維持することで、今のうちに収入を得ようとするかもしれません。
また、脱炭素化を進めるうえでは、温室効果ガスの代表である二酸化炭素を排出しない再生可能エネルギーへの移行が重要ですが、それには時間や膨大な費用がかかります。
そのようななか、欧州を中心に、石油や石炭に比べて相対的に環境への負荷が少ない天然ガスに対しての需要が高まり、価格が押し上げられています。実際、2021年春以降、欧州天然ガス価格の高騰が続いています。
さらに、脱炭素社会実現のために不可欠な太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギーや電気自動車(EV)は、銅やアルミなどの金属資源を多く必要とします。
たとえば、EVは車体の軽量化に多くのアルミが使用されています。また、モーターなどに使う銅の使用量はエンジン車の4倍にのぼるとも言われています。
脱炭素化に向けて使用する金属資源への需要が高まり、それらの価格が高騰していますが、これらもグリーンフレーションの一種です。
将来、脱炭素化が進めば、こうした化石燃料や金属資源の価格変動が経済全体の物価に及ぼす影響は低下していくと考えられますが、移行期間においては、グリーン化がむしろ化石燃料や金属資源の価格を押し上げ、インフレを加速させるリスクがあります。
さらに言えば、グリーンフレーションは構造問題で、短期的な話ではありません。グリーンフレーションが解消されるまでに20~30年かかるとの見方をする専門家もいます。
宮本 弘曉
東京都立大学経済経営学部
教授
(出典 news.nicovideo.jp)
コメント
コメントする