歴史的に有名な戦い。

これまで「桶狭間の戦い」は、兵力に劣る織田信長今川義元を奇襲で倒したとされてきた。ところが、これは最新研究では覆されている。歴史学者の渡邊大門さんは「奇襲説の根拠となる史料の信憑性が低く、現在では正面攻撃説を支持する研究者が多い」という――。(第2回)

※本稿は、渡邊大門・編『徳川家康合戦録 戦下手か戦巧者か』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

■桶狭間の戦いにおける今川義元の軍勢の本当の数

永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は小姓5騎のみを引き連れ、居城の清須城をあとにした。率いた軍勢は、わずか200と伝わっている。やがて、信長は軍勢を熱田神宮名古屋市熱田区)に集結させると、今川氏との対決に向けて戦勝祈願を行ったのである。すでに、鷲津・丸根の両砦は落ちており、煙が上がっていたという。

一方の義元は、桶狭間山で休息を取っていた。率いた軍勢は、約4万5000。信長の軍勢をはるかに上回っていた。

ところで、この約4万5000という数はあまりに多すぎる。もう少し後の時代になると、百石につき3人の軍役を課されるようになった。百万石の大名ならば、3万の兵になる。慶長3年(1598)の時点で、遠江は約25万石、駿河は約15万石だったので、合計で約40万石である。

先の基準に当てはめると、約1万2000というのが妥当な兵力である。ただし、右の基準は慶長年間のものなので、実際はもっと少なかった可能性がある。

■昼までには大勢が決まっていた

今川方の動きは、どうだったのだろうか。大高城にいた松平元康徳川家康)は、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる織田方の佐久間盛重は、500余の兵とともに打って出たが、敗北し自らも戦死した。

鷲津砦を守備する織田方の飯尾定宗、織田秀敏は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は今川方によって制圧され、織田勢力は一掃されたのである。

制圧後、義元の率いる本隊は沓掛城を発つと、大高城方面に軍を進めた。その後、さらに向かって西に進み、南に進路を取った。5月19日の昼頃、義元の本隊は桶狭間に到着すると、早くも戦勝を祝して休息し、来るべき信長との戦いに備えたのである。

この時点で、今川軍は総勢約2万だったといわれているが、義元の本陣を守っていたのは5000から6000くらいの軍勢だったという。

■信長が見た勝機

信長が桶狭間に進軍したのは、5月19日午前のことである。中島砦を守備する織田方の佐々政次、千秋(せんしゅう)四郎らは、信長出陣の報告を受けて、大いに士気が上がった。

早速、佐々、千秋は約300の兵で今川方に攻撃を仕掛けるが、返り討ちに遭い討ち死にしてしまった。佐々、千秋の兵も約50が討たれた。

この報告を受けた義元は、「矛先は天魔・鬼人も超えきれぬだろう。心地よいことだ」と大いに喜び、謡いを謡ったという。逆に、士気が高まったのは、今川方のほうだった。

信長が出陣しても、事態を挽回するのは困難になったに違いないが、果敢にも出陣し義元に戦いを挑んだ。

熱田神宮名古屋市熱田区)で戦勝祈願を終えた信長は、5月19日午前に鳴海城(名古屋市緑区)近くの善照寺砦に入った。ここで、織田方は桶狭間に今川方が駐在しているとの情報を得たので、中島砦へ移動しようとした。

このとき信長の軍勢は2000だったといわれているが、劣勢には変わりなかった。信長は中島砦に到着すると、さらに兵を進めようとした。すると、家臣らは信長に縋り付いて止めようとした。

しかし、信長は敵兵がここまでの戦いで疲れ切っていること、わが軍は新手なので、敵が大軍でも恐れることはないと檄(げき)を飛ばした。

そして、敵が攻撃したら引き、敵が退いたときに攻め込めば、敵を倒すことができるとも述べた。戦いに勝ったならば、家の面目になると言ったところで、前田利家らが敵の首を持参した。これにより、織田軍の士気は大いに高まった。こうして信長は、桶狭間への進軍を開始したのである。

■突如、雹混じりの雨が降る

5月19日の午後になると、にわかに視界を妨げるような豪雨に見舞われた。雨には雹(ひょう)が含まれており、今川軍の将兵の顔を激しく打ち付けた。すると、沓掛峠の楠の大木がにわかに倒れたので、織田軍の将兵は熱田大明神の神意ではないかと思ったという。織田方はこの悪天候を活用し、やがて晴れ間がのぞくと義元の本陣に突撃した。

信長は槍を取って大声を上げると、今川軍に攻め込むように指示した。今川軍は織田軍が黒煙を上げて突撃してきたので、たちまち総崩れになった。弓、槍、鉄砲、幟(のぼり)、指物は散乱し、義元は乗っていた塗輿(ぬりごし)を捨て敗走した。

信長は、容赦なく追撃を命じた。今川軍は300ほどの軍勢で、義元を守りながら退却したが、敵と交戦するうちに兵が討ち取られ、ついに50くらいまで減ってしまった。

■「海道一の弓取り」の最期

信長も馬から降りて槍で敵を突き伏せると、若い将兵も次々と今川軍を攻撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。今川軍は馬廻り衆、小姓衆らが次々と討たれ、窮地に陥った。

すると、信長配下の服部小平太が義元に斬りかかったが、逆に膝の口を斬られて倒れ伏した。その後、義元は毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を討ち取られたのである。義元を討たれた今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。

■桶狭間の戦いは奇襲だったのか

ここで、改めて桶狭間の戦いについて考えてみよう。

桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、奇襲攻撃、正面攻撃という二つの説がある。永禄3年(1560)5月19日、信長は今川義元桶狭間の戦いで破った。義元の2万〜4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか20003000の兵のみだった。

とはいえ、義元の率いた2万〜4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。

信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説だった。しかし、今や有名な「迂回(うかい)奇襲説」には、異論が提示されている。

「迂回奇襲説」によると、5月19日の正午頃、信長の家臣・千秋四郎ら約300の兵が今川軍に攻め込んだが敗北。敗北後、信長は義元が陣を敷く後ろの山へ軍勢を移動させ、迂回して奇襲することを命じた。

そのとき、視界を遮(さえぎ)るような豪雨となり、信長軍は悪天候に紛れて進軍したという。義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4000~5000の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。

つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。以上の経過の出典は、小瀬(おぜ)甫庵(ほあん)『信長記』であり、明治期の参謀本部編『日本戦史桶狭間役』により、事実上のお墨付きを与えられた。

■奇襲説の根拠は「不適切」な史料

ところが、この通説には異儀が唱えられた。それは、そもそも小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。

儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16~17年(1611~12)説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。

そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。

それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史の史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。

先述のとおり、『信長記』の成立は10年ほど早いことが立証された。これをもって『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かにあまり関係ない。

『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣るので、桶狭間の戦いを論じるうえで不適切な史料なのだ。

■有力な正面攻撃説の中身

最近の研究では『信長公記』を根拠史料として、次のように指摘された。

千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。

今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である(藤本:二〇〇八)。

現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。

■桶狭間戦いの真実が見えにくいワケ

信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。

ほかにも、織田軍は今川軍が乱取り(掠奪(りゃくだつ))に夢中になった隙を狙って、酒盛りをしていた義元を討ったという説がある(黒田:二〇一五)。この説は、『甲陽軍鑑』に基づいた説である。かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。

とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とかけ離れているので、そのまま鵜吞みにできないと考えられる。

ほかにも桶狭間の戦いに関しては、さまざまな説が提供されている。しかし、史料の拡大解釈や論理の飛躍もあり、定説に至らないのが現状である。

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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学
1967年生まれ。1990年関西学院大学文学部卒業。2008年佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。

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織田信長像(画像=狩野元秀/東京大学史料編纂所/愛知県豊田市長興寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)


(出典 news.nicovideo.jp)

無能勃起豚

無能勃起豚

クッソ正確な数値が記載されている史料が複数あるという話も聞かないのに、妙に詳細な数値や戦況を語ってる歴史マニア()ほど信用ならないものもない。紀元前の豪傑や武将や英雄の人格すら断言してるあたりお前どこのカミーワ・ユルゴッドだよっていう・・・

ニックネーム

ニックネーム

信憑性の有る資料?封建時代の公の記載に「うちの殿様は卑怯にも奇襲で敵将を打ち取った」と殺生与奪の権利を持つものに対して書く者は少ないというか絶無ではないだろうか?

もっぷ

もっぷ

結局襲撃地点さえ推論の域を出ないんじゃなかったの?

ゲスト

ゲスト

信ぴょう性が高く、利害関係がない複数の資料がない限り、この時代で確かなことは言えないんだろうな。それでも、江戸時代の怪しげな資料を信じきってた20年前と比べれば、各段の進歩だと思うよ。

RT

RT

要は元となった資料の比較な訳だが、この記事読んで信長公記の方を信じるべきだと思うかと言われると。とまで考えたところでなんでこんな違和感あるのかと思ったら、この内容でこんな飛ばしタイトルつけるプレオンがセンス無いだけなだよなあ

漣 水晶

漣 水晶

信長なら天下統一目指してタイムリープし続けてるよ。ソースは漫画。

匿名

匿名

日本に攻撃してきてる敵の情報はこっちだよ 日本を支配してるのは実質日本政府じゃなくてア〇リカです日本人をたくさん殺して笑ってるのはこいつらしかも日本に移民しようとしてる 日本人を殺して移民政策を進めようとしてる

匿名

匿名

911の犯人=311の犯人=2011年の騒動の犯人=ユダヤ人資本家=日本に地震攻撃してる犯人=天気を操ってる犯人=最近の騒動のすべての犯人   日本人はデモを起こすべき

匿名

匿名

マスコミはこの人たちに脅迫された人達がそれに従った結果 すなわち全て茶番ア〇リカが日本政府に圧力をかけた結果こうなった

tare

tare

「もう古い」じゃなくって「様々な説がある」の方が正しい。サラッと日本をデスる文章を混ぜる所なんか・・・・やっぱりプレオン、ブレないね。

tyobi

tyobi

流行り廃りで歴史が改竄されるってとっても特ア的ですね。

rewind

rewind

雨に乗じて虚を突いたことは変わらないから正面攻撃でも奇襲には違いないと思う。

ゲスト

ゲスト

正々堂々正面から敵を打ち破りましたって手前味噌な記録を証拠と言われましても…無論嘘と決めつけはしないけど結局詳細不明って結論にしかならんだろ

SATIE

SATIE

プレオン君の記事ってどのジャンルにしても子供みたいな断定と思い込みばっかで稚拙な記事しかないのはなんでなの?まともな記事書ける人材が居ないの?

金鯖缶

金鯖缶

織田の三段撃ちもフィクションだってのが通説化したけど、結局誰が最初に書いたん?