しくじり先生でもやってほしい

なぜ日本は勝てるはずのない戦争を始めたのか。毎日新聞の栗原俊雄記者は「アメリカから石油を輸入できなくなり、『このままだと石油不足で戦争ができなくなる』という声が高まった。しかし、開戦に踏み切れば事態を打開できるわけではない。日本の首脳は合理的な判断ができなくなっていた」という――。(第2回/全2回)

※本稿は、栗原俊雄『戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)の一部を再編集したものです。

■開戦の決定を白紙に戻すよう伝えた昭和天皇

天皇は木戸幸一内大臣を通じて、東条に対して9月6日の御前会議の決定を白紙に戻すよう伝えた。

東条は近衛内閣の陸相として、中国からの撤兵を断固として拒否していた。その東条を首相にする狙いは、陸軍の主戦派を抑えて戦争を回避させることだった。それをやりやすくするために「10月下旬をめどに開戦決意」、という決定を白紙に戻したのだ。昭和天皇が「虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」と言ったことはよく知られている。「虎穴……」とは中国の歴史書『後漢書』にある一節で、「危険を冒さなければ、大きな成功を得ることはできない」というたとえである。

虎の穴の中に入ったら、子どもの虎をつかまえることができるかもしれない。しかし中には大きな親の虎がいて、食い殺されてしまうかもしれない。「ハイリスク・ハイリターン」である。

個人や企業ならば、時としてそういう危険を冒さなければならない場面もあるだろう。だが、全国民の運命を握っているような為政者が、その国民の運命をかけるような博打をうつべきではない。そんな当たり前のことを、大日本帝国はこの先の戦争で証明してしまうのだ。

■昭和天皇は明確に「対米戦回避」を支持すべきだった

ここで確認しておくべきは、天皇が木戸を通じてとはいえ、東条に9月6日の対米英戦決意を白紙還元するように指示していたことだ。昭和天皇は戦後、開戦の際に東条内閣の決定を裁可したことについて以下のように言っている。

「私が裁可したのは、立憲政府下における立憲君主として已(や)むを得ぬことである、もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何ら異る所はない」(『昭和天皇独白録』)

しかし東条を首相に選んだ際は、その政府が決めたことを「白紙」に戻すように伝えているのだ。意思表示ができるならば、東条に「大命降下」すなわち首相指名をする際に、はっきりと「対米戦回避」を指示すべきであった。

■「1時間に400トンの石油が減っている。ことは急を要する」

東条内閣は10月18日に成立した。東条は近衛内閣の陸相としては杉山陸軍参謀総長と並ぶ対米強硬論者であった。

だが首相となり、しかも天皇から9月6日の御前会議の白紙還元を指示された以上、直ちに開戦決意というわけにはいかなかった。「要領」の再検討を始めた。同月23日、内閣発足後初の大本営政府連絡会議が開かれ、再検討が始まった。永野軍令部総長が口を開いた。『杉山メモ』を意訳すれば、以下の通りだ。「10月上旬に和戦を決めるはずが、今になっている。研究会議は簡単にやってもらいたい。1時間に400トンの石油が減っている。ことは急を要する」。

杉山陸軍参謀総長は「研究に4日も5日もかけるのはダメだ。早くやれ」と述べた。研究や会議を簡単に早くやって、9月6日の御前会議の決定がひっくり返るはずもない。2人はそこで決まったことをそのまま行うこと、つまり戦争準備を完了することを急いでいたのである。

2人とも、9月6日の国策を決めたメンバーだ。昭和天皇は戦争回避を希望していることを明治天皇の和歌に託して2人を含めたメンバーに伝えたのだが、陸海の統帥部のトップが同じ人物のまま180度違う結論を出すのは最初から困難ではあった。見直しを検討する要目は11あった。

たとえば「欧州戦局の見通し」「戦争相手をオランダまたはイギリスオランダに限定できるか」「対米英蘭戦が重慶政府(中国国民政府)にどんな影響を与えるか」「対米英戦の初期および数年の作戦的見通し」といった外交や戦局に関するものだ。このうち、筆者は特に「欧州戦局の見通し」に注目する。海軍では、ドイツによる英本土上陸は極めて困難という見方が強かった。陸軍は困難ではあるが不可能ではない、と判断していた。

■船舶や石油などの必要量をことごとく見誤った

ドイツ1940年9月の英本土上陸を目指していたが、その前提である制空権の確保がままならず、延期していた。翌年6月には対ソ戦を始めたことで、可能性はなくなっていた。海軍の判断が正しかったのだ。

しかし、後で見るように海軍のこの見通しは、開戦回避には結びつかなかった。要目の中でさらに重要なのは、物理的な問題、具体的には船舶と石油などの重要物資である。南方の資源地帯を占領したとしても、それを運ぶ船がなければ石油はないものと同じだ。

石油が確保できなければ、そもそも戦争はできない。だからこの点に関心が集まった。出た結論は戦争に打って出ても石油は確保できる。船舶も大丈夫、という見込みだった。説明に当たったのは主に企画院である。

以下、本小項目のくだりは労作『日米開戦と人造石油』(岩間敏)による。軍令部の予想によれば、戦時下の1年あたりの商船の沈没は平均で40万~100万総トン数であったが、実際に沈んだのは年平均で222万総トン、全体では約814万総トンであった。予想よりも現実は2.2~5.6倍だった。

石油は、企画院が予想した1942年度の需要予想は520万キロリットルであったが、実際は825万キロリットルに上った。近代戦、ことに広い太平洋を舞台としたそれは大量の石油を消費することを、日本は認識していなかった。

■新しいデータをもとにすれば、被害は小さかったかもしれない

予想と実際のデータがあまりにも大きくずれたのは、当然予想の詰め方が甘かったからである。

では真面目に科学的に詰めた結果のデータであったのか、となると怪しい。たとえば艦船の消耗量の推計である。作製したのは海軍軍令部第4課であった。同盟国であるドイツの戦果をもとに、連合軍と開戦した場合の日本の被害を推計した。

1941年10月下旬に着手し急いで作ったものだが、もとになるデータ第一次世界大戦のものを使用した。それによると連合国の船舶消耗量は総計で1196万トン、1年平均で281万トンであったという。

しかし第二次世界大戦が始まった1939年9月から1941年5月まで、イギリスや中立国の消耗船舶は670万総トンで、直近の1年では510万総トンに及んだ。ドイツによる、潜水艦Uボートを使った攻撃はイギリスなどにとって大きな脅威であった。

重要なのは、第二次世界大戦に入っての上記データを、日本の陸軍と日本郵船が所有していたことである。海軍がそれを持っていなかったのか。陸軍はあえてそれを伝えなかったのか。1941年10月の段階では、海軍の永野軍令部総長のように開戦に前のめりな首脳があえて新しいデータを無視したのか。

いずれも不明だが、時代遅れのデータをもとに新しい戦争を始めるためのデータが作られていたことは確かだ。新しいデータをもとに推計していれば、予想される日本の被害はずっと多くなるはずだった。

■国家予算の4分の1をかけて「人造石油」の生産に踏み切ったが…

戦争は国の命運を左右する国策である。精度は究極まで高めなければならないが、十分とは言えなかったことが分かる。推計の精度が低いだけでなく、その推計値の解釈についても疑問が残る。

たとえば同月29日と30日、大本営政府連絡会議で企画院の鈴木総裁が石油に関する報告をした。企画院は内閣直属機関で、戦時統制経済の企画作成に当たった。石油を自給できない日本は、石炭から石油を造る人造石油に期待していた。ドイツが成功していたことに刺激を受けたもので、1937年に生産計画を立てた。

8億円、当時の国家予算の4分の1近くを投じる壮大な計画で、1943年度末で年間200万キロリットルの生産を目標にしていた。石油需要の40%に及ぶ量である。政府、軍の首脳も期待していた。しかし開戦を前にしても生産は軌道に乗らなかった(結局、日本の人造石油の生産量の最高は1943年度の27万キロリットルだった)。

鈴木は、29日に人造石油には頼れないことを説明し、南方作戦すなわちインドネシアなどの産油地帯を押さえて石油が手に入れば自給体制は可能、と説明した。それによれば開戦1年目は供給が925万キロリットル、需要が670万キロリットル255万キロリットルが残る。2年目はそれぞれ515万キロリットル500万キロリットルと供給と需要がほぼ拮抗する。残りは15万キロリットルで、需要の11日分しかない。

それでも鈴木は「辛うじて自給体制を保持できる」としたが、本気でそう思っていたとしたら楽観的に過ぎる。

■東条英機が提案した「3つの案」

鈴木は陸軍中将で、1941年4月に予備役となった。さらに第2次近衛内閣の国務相兼企画院総裁に就任した。需要の予想にも疑問が残る。500万キロリットルのうち民需を140万キロリットルとしている。

開戦1年目の軍需は380万キロリットルで、2年目は360万キロリットル、3年目は335万キロリットルと減少している。戦っているのになぜ減るのか。戦線を縮小するという見込みなのか、戦争が勝勢に進み連合国の侵攻が進まないと想定しているのか。いずれにしても、鈴木は石油の需要が減る理由を説明していない。「戦争をする」、という結論が先にあって帳尻を合わせたとも思える。

1941年11月1日、東条首相と杉山参謀総長が会談した。東条は戦争に踏み切るかどうかを巡って3つの案を用意していた。すなわち、

(1)戦争をしないで「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」する
(2)直ちに開戦を決意して作戦準備を進め、外交を従とする
(3)戦争決意の下に作戦準備を進める。外交交渉は最小限の要求で進める

である。このうち東条は(3)案を示した。海軍も大蔵省も企画院も同じ考えである。「お上」(天皇)の気持ちも考えなければならない、と言いそえた。陸相も兼任している東条の、陸軍参謀本部に対する根回しであった。

杉山は(3)に対して「それでは9月6日の御前会議を繰り返すことになるのでは」と難色を示した。さらに「もし外交がうまくいったら準備した兵を下げることになるがこれは困る。内地からも中国からも兵を出している。南洋まで出して戦争しないで引いたら士気に関わる」と述べた。

■合理的な判断はせず、ともかく戦争を始めようとした

続いて、統帥部としての要求を示す。

①国交調整は断念する
②戦争決意をする
③開戦は12月初旬とする
④作戦準備をする
⑤外交は戦争有利になるように行う

ことを主張した。ほんの1カ月前、東条は杉山と同じように近衛首相を9月6日の御前会議の内容で突き上げていた。今度は東条が杉山にそれをやられる番であった。

杉山にとって、外交の成功とは戦争に勝つことであって、戦争の回避につながる撤兵は成功ではない。兵の士気というが、南洋に派兵したのは杉山ら軍首脳である。仮に兵卒が喜んで行ったとしても、その対価が対米開戦では国に与えるダメージがあまりにも違いすぎる。

しかし杉山らには、そうした合理的な判断はできず、ともかくも戦争を始めるという意思が先行していた。天皇の意思などおかまいなしであった。2人の会談の後、連絡会議が開かれた。東条首相と東郷茂徳外相、賀屋興宣蔵相、嶋田繁太郎海相、鈴木貞一企画院総裁、杉山元参謀総長、塚田攻参謀次長、永野修身軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、原嘉道枢密院議長らが出席した。

まず、(1)案から討議された。「臥薪嘗胆」とは中国・春秋時代の故事に由来する言葉だ。越との戦いに敗れた呉の王が、復讐心を忘れないよう、堅い薪の上に寝た。その後は越が呉に敗れ、越王は恥を忘れないようにと、苦い熊の肝をなめたという話で、日清戦争後、ロシアフランスドイツの三国干渉によって遼東半島を清に返還することになった際、盛んに日本国内で言われた故事である。

「今はがまんして、いずれ必ず復讐する」という誓いだ。実際、日本はロシア仮想敵国として軍事、外交の準備を進めた。日露戦争ロシアを破り「臥薪嘗胆」を実現した。

■「今! 戦機は後には来ない」

連絡会議では賀屋蔵相が口を開いた。『杉山メモ』をもとに再現しよう。

賀屋「このまま戦争をしないで、3年後に米艦隊が攻勢をとってきた場合、海軍に勝算はあるか」
永野「それは分からない」
賀屋「米艦隊は侵攻してくるか」
永野「不明だ。五分五分だと思え」
賀屋「来ないと思う。来た場合に勝つかどうか」
永野「今戦争をやらないで2、3年後にやるよりも、今やって3年後の状態を考えると、今やる方が戦争はやりやすいと言える」
賀屋「勝算が3年後にあるなら戦争をやるのもいいが、永野総長の説明では不明瞭だ。しかも、私はアメリカが戦争を仕掛けてくる公算は少ないと判断するから、今戦争が良いとは思わない」

東郷茂徳外相が加わった。

東郷「私も米艦隊が攻勢に来るとは思わない。今戦争をする必要はないと思う」
永野「『来たらざるを恃む勿れ』ということもある。先は不明で安心できない。3年たてば南方の防備が強くなる。敵艦も増える」
賀屋「では、いつ戦争をしたら勝てるのか」
永野「今! 戦機は後には来ない」

重要閣僚でありながら、そして和戦を決める国策会議のメンバーでありながら、文官である賀屋と東郷は軍備に関する詳しい情報を持っていなかった。他方、永野はふんだんに握っている。文官2人は、永野と軍事面での対等な論争はできにくい。「今戦った方が、2年3年先より有利だ」と言われれば、それを軍事的に論駁することは不可能であった。

だから「アメリカは攻勢をかけてこないだろう」という予想で永野の即時開戦論に対抗しようとしたのだ。

敵同士ならば、論争の中で情報量の差があって豊富な方が有利になるのは自然だが、和戦を決めるこの会議は味方同士の論争のはずだ。その会議で、重要な情報の量が著しく違っては、議論が間違った方向に行きかねない。これは今日の組織論にも通じることだろう。

■物資計画も実現せず、敗戦への歩みを進めていった

永野と賀屋、東郷の論争に鈴木企画院総裁が割って入った。

鈴木「賀屋蔵相は戦争をやれば昭和16、17年は物的に不利だと考えているようだが、心配は必要ない。18年には物資の点では戦争をした方が良くなる。一方で、統帥部によれば戦略上、時日が過ぎればだんだん悪くなると言うのだから、戦争した方がいいことになる」

この日の会議は約17時間に及び、日付が変わった11月2日午前1時に散会となった。外交交渉をし、期限を切ってそれがうまくいかなかったら開戦、となった。9月6日の御前会議と同様である。ほんの少し戦争から離れたとすれば、アメリカに提示する交渉案で、近衛内閣の時より譲歩の幅を広げたことだ。

臥薪嘗胆」をしていたら、アメリカが攻めてきたかどうかは分からない。確かなのは、永野がこの時点で言った「3年後」すなわち1944年11月時点で、日本は絶対に失ってならないはずのマリアナ諸島をアメリカに占領され、フィリピンも米軍に奪還されつつあったことである。敗戦まで9カ月に迫っていた。鈴木が太鼓判を押した1943(昭和18)年の物資計画も実現しなかった。

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栗原 俊雄(くりはら・としお
毎日新聞記者
1967年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、同大学大学院修士課程修了(日本政治史)。1996年毎日新聞社入社。2019年から専門記者(日本近現代史、戦後補償史)。著書に『戦艦大和 生還者たちの証言から』『シベリア抑留 未完の悲劇』(以上岩波新書)、『「昭和天皇実録」と戦争』(山川出版社)、『特攻 戦争と日本人』(中公新書)、『戦後補償裁判 民間人たちの終わらない「戦争」』(NHK出版新書)など多数。2009年、第3回疋田桂一郎賞(新聞労連主催)、2018年、第24回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞(同基金主催)を受賞。

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『東条英機内閣成立 初閣議後、記念写真に納まる東条内閣閣僚』(出典=毎日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)


(出典 news.nicovideo.jp)

nicouser

nicouser

現在の視点で語れば、結果的にやって良かったと言えるな。 戦争犠牲者を軽視するわけではないが、もしあの時素直に植民化されていれば、もっと悲惨だった可能性が高い。

ASFASFASFA

ASFASFASFA

パヨオンとブンチュンは何かキャンペーンでも始めたの?それとも単に老い先短いから焦って書いた遺書?

hinode

hinode

立憲君主に専制君主の責任を要求するスタイル。

傘醒

傘醒

山本五十六は日本とアメリカの国力の差を十分承知していて1年なら戦えると言ったらしいが。途中でなぜ止められなかったのかって視点は無いの? 少なくともマスコミの記事だと見たこと無いけど。

カルル

カルル

人造石油・・・civ4にそれっぽい日本のUBあったっけか 最近だと石油作るバクテリア居なかったっけか

みずは

みずは

不利なデータに向き合ったところで「よし!やめよう!」って事が出来なければ全く意味はない、キンメル更迭までアメリカも艦隊決戦やる気満々だったし

みずは

みずは

>傘醒 そのチャンスをつぶしたのも五十六だがなwww戦闘機無用論でパイロット冗費し、陸軍よりベテランパイロットを減らし、(陣頭指揮を執る…とか言って本土でヌクヌクしていた博打ジジィwww)真珠湾行ったことでキンメル更迭、漸減作戦の目が消え、真珠湾で体勢を崩したアメリカに追撃するかと思いきやインド洋まで転進し立ち直る機会を与える

みずは

みずは

その結果機動部隊が留守の間にドゥーリットル航空隊の奇襲を受け、MO作戦も空母ケチった事で失敗、ミッドウェイでは大和に籠りながら機動部隊のはるか後方200kmに位置、わざわざ脆弱な空母を前面に出す、挙句戦況がひっくり返って正念場だって時にあの世にエスケープ、知れば知るほどなんで評価高いのか理解できん

みずは

みずは

魚雷ガチ盛りだけれど対空能力零戦以下(例・吹雪型:7.7mm機銃2門、主砲は非対空仕様)な艦艇が多くいる中で「よし!航空戦しよう!」ってなる意味が解らん、後知恵を追加させて貰えば米戦艦は停泊中のアリゾナしか撃沈出来なかったし(他戦線復帰)修理中の米戦艦から乗組員が降りて、サウスダコタ・ノースカロライナの最新鋭戦艦に移乗でむしろ強化される皮肉www

[Q]

[Q]

プレオンは、不利なデータがなければ戦争していいという主張でいいかな?

みずは

みずは

沖縄で特攻によりアメリカですら対空砲の弾薬が欠如したことからも航空機や対空砲に生産力ガッポリ持って行かれる航空主義とか愚の骨頂だと思うわ、雲龍とか何の役に立った?瑞雲()は積めましたか?工業力上げるまで空母なんざ戦闘機と偵察機積んでればいいんだよ、そうしたら少なくとも魚雷や爆弾は誘爆しないぞ?w

spooky

spooky

>nicouser  戦争しなけりゃ米国の植民地になっていたと言いふらす輩は昔からいるが、どういう理由でどのように植民地になるのか具体的な説明の出来た奴は60年近く生きて一人も会ったことがない、あなたは俺に納得のいく説明が出来ますか?

hinode

hinode

御前会議で「陛下のご意向の沿えず和平交渉失敗しました。開戦しかありえません。」と開戦しておきながら「天皇が早く降伏しなかったから天皇の所為だ」は無いだろ。

nira

nira

当時アジアで植民地支配されてない国って3つほどだろ、良い悪い別としてそりゃ戦争に踏み切るわ

みずは

みずは

>spooky インディアン、ハワイ、そしてフィリピンを見て、日本だけは大丈夫!と思える方がおかしい、実際そう考えた日本人はサイパンで虐殺され、フィリピンの特攻以降米軍は掌返した、一方で碌な抵抗なくソ連から逃げるよう投降したドイツとか言う腰抜けを連合軍は100万人捕虜収容所で殺した

spooky

spooky

火葬戦記脳氏には聞いてない、他所がどうだとかボクちゃんがそう思うでは何の説明にもならない、nicouser氏なら説得力のある答えを持っているものと信じて質問した

みずは

みずは

論理的に言い返せないから人格攻撃wwwwwザッコwwwwww

Ry

Ry

こういう後だし孔明を延々続けて食いつないでたから、今も似たようなことしかできないんだよなマスゴミは。起きたことばっか言って次が無い。本当に無駄でゴミ。

cresc.

cresc.

「勝てないデータがあったから参戦したのはそれを無視したからだ」という短絡的ロジックがそもそも間違っている。勝てなくてもそれが最大限だったに過ぎない。

mutchie

mutchie

「不利なデータ」をすべて無視していた>ジェンダーギャップ指数しか取り上げない日本のフェミニスト()の方々や、都合の良い所だけ取り上げる出羽守みたいな人達かな?プレオンにはそういう記事が幾つも上がってますけど。