いろいろある

 大砲をぶっ放すぞと脅かしたアメリカ、時間をかけて土着化を試みたロシア──。江戸時代後期、鎖国政策をとる日本の前に欧米諸国の船が次々に現れた。作家・元外務省主任分析官の佐藤優氏は、その際にアメリカロシアの日本への接し方には大きな違いがあったという。その違いは一体なぜ生まれたのか。『地政学入門』(角川新書)に収録された佐藤氏の講義から一部を抜粋・再編集してお届けする。(JBpress

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ロシアとアメリカが日本に接近した理由

 18世紀、ロシアは最初、毛皮を求めて東に進出してきました。日本を領土にしようというよりも、基本的には毛皮の確保、交易の確保が目的です。もう1つの目的は、ロシア正教(ロシアキリスト教)をいかに伝えていこうかという思いがありました。

 一方、アメリカは日本に石炭の経由地としての魅力を感じました。日本で石炭を補給することができれば、今度はインド洋まで自由に行くことができる。さらにインド洋で石炭を積めば、今度はアフリカまで行くことができる。世界のネットワークを維持することができるわけです。

 つまりアメリカの関心は、日本から石炭や水や食料を得ることにあったので、日本を植民地化しようとは思わなかった。これは日本にとって運がよかった。これがもう少し後、1870年代になると、アメリカもだいぶ帝国主義的になっていますから、もしその時点で日本とアメリカの出会いがあるとするならば、米西戦争のような感じで戦争が起きて、日本がフィリピンなどのようにアメリカ植民地にされていた危険性は十分あるのです。

脅迫的なアメリカ、日本尊重のロシア

 アメリカ海軍軍人のアルフレッド・セイヤー・マハンが『海上権力史論』(1890年)で書いていたように、商船隊を守るのは軍艦の任務だった。その意味においてまさに暴力的、それから強権的です。だからペリーが日本に開国を迫るときも、「おまえ、開国しなければ大砲をぶち込むぞ」という外交になる。

 ちなみにペリーの艦隊の船は黒船と言われるでしょう。タールで黒く塗っていたからです。ペリーが乗っていた「サスケハナ号」にしても大きさは2500トンぐらいで、東京と伊豆七島を往復する「さるびあ丸」が6000トンなので、その半分ぐらいの大きさです。けれども当時の日本人にはものすごく巨大な船に見えた。当時の日本の標準的な船はそれより小さかったからです。米などの物資を運ぶ廻船は何トンぐらいあったと思いますか? 200トンほどです。それしか知らない人が初めて2500トンの船を見たわけだから、それは今まで見たことがない巨大な船なわけです。びっくりしてしまい、「かなうわけがない」と開国してしまう。アメリカは圧力によって日本を開国させた。

 ところがロシアは日本に圧力をかけません。実はロシアのほうが日本人との接触は多かった。当時、ロシアの艦隊の乗組員は日本語を話すことができました。もうすでにイルクーツクやサンクトペテルブルクには日本語学校があったからです。それこそ伝兵衛や大黒屋光太夫のように、漂流民でそのうちロシアに留まった人間を日本語の先生にして、日本語教育を始めている。その目的は何かといえば、日本にロシア正教を広めることです。

 ここにロシア正教とカトリックの決定的な違いが表れています。正教は、その土地の土着した言葉で典礼を行い、その国の風俗習慣に合わせるのです。

 東京の神田駿河台にニコライ堂というロシア正教会の教会があります。この聖体礼儀に行くと、日本の天皇への賛歌がある。「日本国天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下をはじめ、日本国の皇族に対して神のご加護代々にあれ。アミン(アーメン)」と言って祈る。このように、その国の国家秩序に対して徹底的に忠実であれというのがロシア正教です。

その土地に土着化していくロシア

 おもしろい話があります。ニコライは1861年に初めて日本にやってきて正教の伝道に一生を捧げた人ですが、彼の影響力は強く、日本のロシア正教の信者はカトリックプロテスタントと同じぐらいいました。日本のキリスト教6分の1ほどは正教徒で、正教の学校もたくさんあり、知識人の中にも正教徒が多かった。

 ニコライの宣教の方法が興味深いのは、宗教を押しつけないことです。相手が自分から扉をノックして入りたいと言ってくるまで、自分からはキリスト教徒になれとは言わない。たとえば新島襄は函館でニコライから英語を教えてもらっていましたが、ニコライは新島襄キリスト教に入信しろとは一言も言いません。新島襄も当時キリスト教には関心はないから、ただ英語の先生として英語だけ教えてもらっていました。

 あるいは明治時代、ロシア正教を伝える際に中心となった司祭で、沢辺琢磨という人がいます。彼はもともとキリスト教徒ではありません。むしろロシアからとんでもない「僧侶」が来たらしいから、これを叩き斬るといってニコライを殺しに行ったのです。しかしニコライが、「私を殺したいなら殺せばいい。でもまずは話をしないか」といって沢辺と話をしているうちに、沢辺はニコライの人間性に感化され、正教徒になるのです。

 1904年に日露戦争が始まると、ニコライ堂ニコライはこう言った。

「あなた方は日本の正教徒だから、日本の勝利のために祈りなさい。ただし私はロシア人だからその祈りをすることができないので、これから礼拝は日本人の司祭にやってもらいなさい。同時に、私は日本の正教徒に対しての責任があるから、ロシアに帰らずにこの国に留まります」

 こういってニコライは蟄居する。フランスロシアの利益代表国になるから、フランス公使がニコライを守ることになります。明治天皇が「ニコライは立派な人物だから守るように」と特別な指令を出したので行動も自由でした。

 ニコライは当時、日本の捕虜になったロシア兵のところへ慰問に訪れ、「戦争ではいろんなことがあるけれど、日本人は非常にいい人たちだから、戦いが終わればお互い仲良くできるでしょう」という話をしていた。日露戦争が終わったあと、日本はロシアと日露協約というものを結び、準同盟的な関係になります。のちにロシア革命が起きるまで日本とロシアは友好国でした。

 ニコライが死んだときは、明治天皇が花輪を贈っています。これは珍しいことで、このようなことをしたのは外国人宣教師ではニコライだけだと思います。

 このようにロシアはその土地に土着化していくやり方をとります。1853年にプチャーチンが日本に来たときは、長崎に回れと言われる。長崎に回ったら、来年来いなどと言われて、数年のあいだずっとたらい回しにされるわけです。それでも怒らずに何度も来る。

 アメリカはすぐに大砲をぶっ放してやるぞと脅して、開港もされていない浦賀に勝手に来てしまうわけです。このままだと江戸城を砲撃されるのではないかと怯えさせて開港させた。

 ロシア日本人の気質ということを考えて、「こいつらは力で強圧的に言うことを聞かせると、そのあと必ず反発する」と考えた。納得ずくで進めたほうがいいから、時間をかけてやりましょうということにした。1855年に日露通好条約を結ぶものの、領事裁判権は双務的に規定されています。日露通好条約は経済については、ロシア一方的な最恵国待遇を認めていますが、政治的には平等条約です。

 このようにロシアアメリカは日本に対する接し方は違いますが、これは海洋国家と大陸国家の違いでもあります。もしロシアアメリカより先に日本との国交を開設して、ロシアの影響が北側から強まっていたら、恐ろしいことになっていたでしょう。彼らは日本人の自治や日本人の文化というものを認めるから、フィンランドのようにロシア帝国の中に日本の自治を認める形で日本が取り込まれてしまった可能性がありました。その中には天皇も当然いて構わないという二重の構成になって、ロシアの延長線上に入ってしまった危険性は十分ある。このあたりがアメリカの政策とロシアの政策との大きな違いです。

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(出典 news.nicovideo.jp)

しゅれーでぃんがー

しゅれーでぃんがー

開国してくださいよー

vintel

vintel

ロシア軍艦対馬占領事件ってのがありまして…小藩の対馬藩に砲艦外交の挙げ句居座り、暴行強盗殺害拉致略奪と数え厄満。永久租借まで要求した事件。日本に来てたイギリス艦が文句をつけてようやく終結したが、そのイギリスも日本はウチが占領すっから手ぇ出すなやってだけだったという…。力こそが正義いい時代になったものだを地で行く時代…そこから列強にまで育てた先人はマジスゲーよ

aqula0001

aqula0001

欧米露自体、当時の列強国干渉として日本に不平等条約を強いた時点で同罪だろ。明治政府が常に国際関係維持に苦労した原点だし、富国強兵への道を進めざるを得なかった理由の一つだ。その結果、日清・日露戦争の遠因にもなった。歴史問題を語るなら多面性を持って考えるべきだ。

hinode

hinode

この筆者ロシアのエージェント?対馬を占領しようとしたことにダンマリ決めてる。

LR

LR

当時はアヘン戦争の情報とかも入っていたから「本物キタコレ!」って言う騒ぎ方だったという話も微レ存・・・

せんちねる

せんちねる

幕府にその意思があっても朝廷も国民も開国の意思がなかった(尊王攘夷)からなあ。最終的に内戦(維新戦争)は起きてしまったが、大砲による脅しで世界情勢・日本の国力・日本の危機を全国民に啓蒙したペリーは、日本にとって最良の教師であった。

himat

himat

英国「ぶっ放すぞ」島津「やってみろ」

SATIE

SATIE

中、朝に続いてロシアもプロパガンダ記事を出し始めたのね 揃いもそろってプロパガンダ丸出しの間抜け記事だから効果薄そうなのがお笑いだが

takayan

takayan

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